7・龍青の章・前編
桃姫にたらふく好物の桃を食べさせてあげると、
姫はご機嫌を直し、キュイキュイと鳴いて俺の膝の上でころんと丸くなる。
桃の汁が付いた小さな自分の手を、
幸せそうにぺろぺろと舐めている姿を微笑ましく見守りつつ、
しばしの間だけ……と、そのまま眠りの呪いをして彼女を眠らせる。
「さあ、そろそろ子どもは昼寝の時間だね。少しおやすみ。桃姫」
「キュ……?」
「目が覚めたら遊ぼうな」
俺の言葉を合図に、吸い込まれるように姫のまぶたがとじた。
すやすやと、あどけない顔で眠り始めた姿を見ていると、ほっとする。
羽織っていた着物の1つを桃姫の体に掛けてやると、俺の口元から笑みを消した。
ここから先は、この幼い姫にはあまり聞かせたくない話だからな。
「しばらく人払いを……おまえ達も下がれ」
俺の合図で、部屋に控えていた女房の数名が、
次々に会釈をして部屋から静かに出ていく。
「――で、本当の用件は何だ?」
他に誰も居なくなったのを見計らい、目の前のミズチに視線を送る。
この時を狙ってこいつがやって来たからには、他に理由があるのだろう。
「いやな? 俺様が管理していた川で流された龍の子どもがいるらしくてな。
下流で子どもの躯が見つかったという話も聞かないから、
おまえの所に来ているんじゃないかと思ったんだ」
ミズチは桃姫が以前住んでいた郷の近くにある川に住んでいる。
この湖と直結する山の湧水を運ぶ所だから、結構重要な所だ。
かつてはそこも俺の一族が管理する水源だったのだが、
今は力の弱い俺では管理の手が行き渡らないので、このミズチに譲り渡していた。
だからこのミズチには恩がある。が、それとこれとは別だ。
俺は膝の上で丸まって眠る桃姫の寝顔を見下ろしながら、
しばし考え……彼女の頭をなでて答える。
「ああ、ここに居る姫がそうだ。おまえの所のガマ蛙が身売りに連れてきてな。
逃走しないよう、呪い付きの檻に押し込めて鎖までつないでいた。
その様子だと、おまえはこの件に関わっていないんだな」
紫苑色の扇で自分の口元を隠すと、桃姫と出会ったあの時のことを思い出す。
小さな檻に狭苦しく閉じ込められ、怯えた目で俺を見ていたその姿。
瞳を見て姫の身に起きた記憶を探り、それで大体の事は分かっていたが……。
大事な龍の子どもを私欲のために売り買いする。
それは同じ龍族である自分にとって、許し難いものだった。
「もし……おまえがこの件に少しでも関わっていたのなら、
俺は姫の同族として、そして婚約者として、
八つ裂きにしてやるつもりだった」
姫が俺の元へ最初に連れてこられたことは、本当に幸いだったのだろう。
もし先に人間に売られでもして、
何かの呪術の材料にでも使われたりしていたら、
生きたまま隷属の呪いをかけられ、魂ごと封じられたかもしれなかった。
(そうなれば、姫が両親と生きて再会する事は出来なかっただろう)
呪具の一部として、ただ力のみを絞りつくされ使役される。
例え肉体が滅んだとしても、その隷属の証の呪は解呪しない限り、
未来永劫に続くものだ。
例え魂の状態になっても、ただの道具として扱われ続け、
使い潰されるだけの存在になる。
そうなっていたら、この幼い桃姫の精神ではとてももたなかっただろう。
生きて救い出してやることもきっと不可能だった。
だから利用され、心を砕かれる前に保護が出来た事は良かったのだ。
「元々、蛙は俺達の先代の情けで眷属に下った一族の者だったが、
俺が同胞の子どもを保護すると、なぜ分からなかったのだろうな」
番の居ない俺に嫁としてどうかと、無理やり連れてこられた桃姫。
保護してほしいと連れてきたわけでは無く、商品の一つとしてさらわれて来た。
幼い姫を殴り檻に閉じ込め、鎖までつないだそのあまりの扱いのひどさに、
怒りで目の前が真っ赤に染まりかけた程だ。
結果的に、将来の嫁として迎え入れることにはなったが、
あの蛙が人間と一緒になって、姫に植え付けてしまった心の傷は許し難い。
ここへ来たばかりの姫はとても怯え、痛々しいほどだった。
「俺に懐いてくれたから良かったものの……女子どもは俺達の神気に敏感だ。
もし襲われた心労に加えて、俺の気で衰弱していたらどうするつもりだ」
あの時、親の安否も身寄りも分からぬ状態で、
危険だと分かる陸地に、幼い姫をすぐに帰してやることもできず、
また、あのままここで保護するのにも問題が残っていた。
子どもは神の神気に当てられやすい。
体の内からにじみ出てくるその気配に、勘の鋭い子どもは怯え、
息が止まってしまうこともあるのだ。
さらに親からしか給餌をされていない龍の子どもは、
他の者からの食べ物を警戒して受け付けない事もある。
見知らぬ雄からの給餌に気をつけろと姫には言ったものの、
姫が親恋しさもあり自分に懐いてくれて、
差し出したものを素直に食べてくれたからこそ、
姫は生き延びる事が出来たのだ。
「すまなかった! うちのもんが迷惑をかけた」
ミズチは胡坐をかいて座っていたが、すぐさま姿勢を正し、
両膝に手を置くと、俺の前で床に頭を付ける形で深く頭を下げた。
鈍い音が部屋に響き、俺はその姿を静かに見つめる。
「このけじめは俺様がやるべきだった」
「……そうだな、本来ならおまえが責任を持って始末するべきだった。
首謀者がおまえの眷属だったことを考えればな」
龍族にとって子どもは宝、それも雌ともなれば子孫繁栄の為にも必要だ。
本当なら群れの中で可愛がられ、大事に育てられるべきその娘を、
まるで商品のように鎖に繋いで売ろうとした。
どんな理由があったとしても、とても許される行為ではない。
「あの蛙……この俺が嫁取りに困っていると見て、俺に恩を売り、
高く吹っかけようとしたようだ。水神としての力を欲したようでな。
俺の弱みを握ったつもりのようだったが……」
水神は嫁として若い娘を好む、穢れのない無垢な魂ならなおさらだ。
清らかな相手とのつながりを必要とする神は、
その者を番……伴侶に迎えることで力を安定させることが出来る。
けれどそうなると、なかなか目当ての者は見つかりにくい。
ならば、幼い娘をさらって飼いならせばいいと思わせたかったのだろう。
”できそこないの、未熟な水神にはふさわしいだろう”と。
あの蛙はそう安易に伝えてきたのだ。
「ずいぶんと……なめられたものだ」
神とて万能ではなく、年頃の雄の水神に伴侶がいなければ能力は半減する。
けれど、それをあそこまで面と向かって侮辱されたのは初めてだった。
力がないあまりに、見境なく幼い娘を物のように買うとでも思ったのか。
伴侶もいない水神と言えども、そこまで堕ちてはいない。
「それであいつは……」
「あの場で切り捨ててやりたい所だったがな、幼い子どもの手前だ。
それも娘の前で血を見せるような、無粋な真似は出来ないだろう?」
だから――……と、蛙には許した振りで湖から帰した後、
海の上で暮らしている俺の神使の白蛇に、使いとして始末してもらうことにした。
以前からあの蛙を見て美味そうだと言っていたし、喜んで応じてくれたが。
ただその前に、一つ頼みごとをしてある。
少しあの蛙を泳がせて、この話に関わっている者達を見つけろと。
「あの蛙は姫の郷を襲った人間とも繋がりがあったようだからな。
俺の所が駄目なら、そいつらに売りつける予定だったらしい」
だがそうはいかない。奴の考えを読み取った俺は、
問答無用で姫をこちらで引き取らせてもらった。
「お前の眷属だから、一言先に言うべきだったかもしれないが、
姫がこちらにいる事を人間達には勘付かれたくはないからな。
勝手に決めさせてもらったぞ。姫の周りをうろつかれても困るのでな」
「そうか……いや、手を煩わせちまって悪かったな。
それでその嬢ちゃんは一応、俺が管理する水で育った子ども、
つまり俺の縄張りの子どもだ。今日は保護するために迎えに来たんだが」
「嫌だ。断わる」
さっと俺は眠っている姫を抱き上げて、ミズチを威嚇した。
桃姫はもう俺が見つけた大事な婚約者だ。できれば手放したくなんてない。
何より、酒臭い奴に大事な姫を預ける気にはならなかった。
「あー……だろうな。既に目を付けているとはな……ったく、
その子を本当に嫁にするのかよ。親御さんが泣くぞおい」
「……もう何度も泣かせているがな。だからまあ保護はもう必要ないぞ。
両親の元には、夕暮れまでにきちんといつも帰しているし、
今日は本当に遊びに来ているだけだからな」
「あ?」
「……キュ、キュイ!」
その時、びくっと体を震わせたかと思えば、
じたばたと俺の腕の中で暴れだす桃姫、
起こしてしまったかと思いきや、顔を見れば……まぶたを閉じて眠っていた。
寝ながら泣いている所を見るに、どうやら怖い夢でも見てしまったのだろう。
キュイキュイと鳴いて、しきりに両親や俺を呼ぶ桃姫に、俺は手を伸ばす。
「よしよし、怖がらなくていい……俺はここに居るよ桃姫」
「キュ……?」
手を差し伸べると、ぴたりと泣き声が止まった。
「ああ、ここに居るから……居なくなったりしないから。
だから安心してお眠り。夢の中でたくさん遊んでおいで?
ほら……目の前には綺麗な花畑が広がっているよ」
怖い夢を言霊の呪を使い、違うものへと変える。
ちりん……と桃姫にあげた鈴が鳴り、温かな光が娘の体を優しく包み込む。
差し出した俺の指を両手でぎゅっとつかむと、わずかに微笑んで、
安心したのか、くうくうと静かな寝息に変わった。
(恐ろしい目にあったせいで、まだ不安定なのかもしれないな)
両親や俺が出てこない夢を見ると、姫はこんな風に泣きだす事がある。
保護した時はそれでよく目が覚めて、両親の姿を求めてすすり泣くことがあった。
そのたびに子守唄を歌ってやり、姫を寝かしつけていたな。
もうおぼろげにしか覚えていない乳母との懐かしい思い出が蘇り、
起こさないように、また膝の上に寝かしつけた姫を見下ろす。
あの乳母のようには上手く出来なくても、
少しは姫の慰めにはなっているだろうか?
「ミズチ、俺は姫が婚約者になった今、健やかに育つよう配慮したい。
姫の郷を襲った人間は、全てあぶり出しておかなくてはな」
ぎり……と唇をかむ。普段はいつも無邪気に笑っている桃姫だ。
大事な桃姫を傷つけた輩を、このまま放っておくわけにもいくまい。
だから姫には、俺の呪力を長く注ぎこんでいた特別な鈴を渡しておいた。
本当は、俺にもしものことがあった時の為に用意しておいたものだったが、
これでこの娘が好き勝手に歩いた所が、全て簡易結界となって守れる。
(こんな幼な子を追い回すとは、まずは首謀者達の居場所を特定したら、
奴らが暮らしている所の水の恵みを全て解いて、さんざん日照りにさせた上で、
水攻めの水難事故で処理してやるからなあ……っ!)
怒りのあまり、持っていた扇をぼきりと折ってしまった。
「うわああっ!? こ、こらこら、落ち着けよ! 神気がもれてるぞ!?
お前の膝の上にいる嬢ちゃんが、神気に怯えて泣いたらどうするんだ!
子どもは敏感なんだから注意しろって」
「……っ!」
ミズチに止められて我に返る。
いかん、怒りにまかせてつい呪詛を吐く所だった。
「キュ……スー……」
「姫……」
姫がまだ幸せそうに眠っている様子を見て、ほっと息を吐く。
そうだ。今は大事な桃姫を預かっているんだったな。
「俺にも……守るべきものができた」
こんなにも小さくて壊れやすい。だから大事にしなくては。
もう自分だけではないのだ。
いつか俺の家族になってくれるかもしれない娘が居る。
それは胸の中をくすぐり、満たす存在になってくれた。
桃姫の頭をなでてやると、荒れた気持ちがすっと消えていく。
番が居るというのは、これほどまでに安らげるものなのか。
「俺には……勿体ない相手だ」
大事な半身となる娘……本当に見つかるなんて思わなかった。