白蛇編・11~龍青を継ぐもの~
――気づけば、暗闇の中に俺は倒れこんでいた。
「ここはどこなんだ……?」
幸い、怪我らしいものはしていないようだ。
起き上がって辺りを見回すが、まだ夜目が余り利かずに手探りで歩き出す。
やけに暗くて寒い所だ。吐く息が白くなるのが何となくわかる。
とにかく助かるために移動しようと考えて、
ふと、自分はどこからやって来て、
どうしてここに居るのか、分からなくなっていたことに気づく。
これからどこへ行けばいいのかも。自分のことさえもあやふやになっている。
とりあえず、まずは明かりを……と、思うが上手く力が働かない。
いったいなんなんだ。やけに自分の体なのに調子が悪いな。
(帰らなきゃ、いけないのに)
ふと、そんな思いがよぎって首をかしげた。帰る? どこへだ。
(待っている者が居るから)
そう思いがよぎって、抜け落ちた記憶がある事に気づく。
そうだ。俺には帰りを待っている者が居るんだ。
きっと今頃は俺が居ないことで泣いているだろう。
だから早く帰って、安心させてやらなければいけないのに。
守ってやらなくては……いけないのに。
――約束を……したのに。
それが“誰”だったのか、何の約束だったのか、なぜか思い出せない。
大切な名前さえも呼ぼうとしても、言葉が浮かんでくることはなかった。
「く……っ!」
その喪失感によるいらだちから、地面を叩きつけてみると違和感がした。
目を凝らしてみれば自分の手が余りにも小さい。
それだけじゃない、体も小さくなっているような気がした。
たしか、そう人型になって自分は過ごしていたはずなのに、
手探りで分かるのは、自分が今、龍体になっているということ。
それなのに……やけに体が縮んだように思えた。
「まさか、俺は子どもの姿に戻っているのか?」
信じられない気持ちで、自分の手の感触を確かめていると、
胸元できらりと光る何かに気づく。
手に取ってみるとそれは桃色に光った。
「うろこ……?」
いつからこれを持っていたのか思い出せない。
それは桃色の小さな龍のうろこだった。
思わず手に触れてみるとあたたかくなる。
暖を取るために両手に包み込むと、混乱している気持ちが落ち着いてきた。
ああ、ありがたいな、あたたかい……凍えそうだった体があたたまる。
まるでこれは俺のことを一心に想ってくれる、
あの娘の気持ちのようで……。
「……娘? 今、俺は何を言おうとした?」
何か思い出しかけたのに気になっていると、
遠くから何かの気配を感じたので、さっと近くの岩陰に隠れる。
「……さっきからさ、こっちの方から美味そうな匂いがしてくるんだよ」
「ああ、俺様もしてくるな。また迷い込んだ子どもがいるんじゃねえか?」
「――っ!」
こんな状態では自分を守る事すら上手くできないと感じた。
命の危険を感じて行く当てもなく走り出す。とにかく今は身を隠さなくては。
(なんだ? 何が起きているんだ!?)
戦おうとしても上手く力が働かないようだ。
視界も悪く、鼻も利かない……どこに何があるのかよく分からない。
ぎゅっと手に持っていたうろこがまた光ると、
そこでようやく俺の夜目が利いて来て、自分の状況を理解した。
見て思わず目を疑った。短い手足に低い視線、
体を見下ろすと、ぽっこりとした腹と小さなしっぽが目に映る。
ああ、やはり俺は子どもの頃の姿に退行しているようだ。
青水龍の子どもの姿に。
「何が……あったんだ俺は」
岩山を見つけたので、その隙間に潜り込み座り込んだ。
走ったせいで乱れた呼吸を整え、頭を抱える。
これからどうすればいい? 自分の身を守る術はあまりない。
何処へ行けばいいかも分からない。今は何も頼る者も傍に居ないのに。
あのときは、みんなが父上の牙から幼い俺を庇って死んでいった。
乳母も、女房も従者も俺を逃がすため、俺を生かすために犠牲になって。
(あのとき……?)
俺には父親が居たのか? みんなって誰だ?
そこでまたうろこが光った気がして、記憶が少しだけ蘇る。
俺は子どもの頃の無力な自分が嫌いだったのだと。
だから、もしかしたら俺はあの時の償いのために、
今……罰を受けているのかもしれない。
ただ俺が唯一の跡取りだっただけで、
大事な家臣達を危険にさらし、死なせてしまったから。
――……。
「もしかして、俺は死んでしまったのか」
――また……守れなかったのか。
まだやらなければいけない事があった。守らなければいけない者がいたのに。
それが思い出せない今、記憶にあるのはあの頃に受けた痛みだけ。
あんなに大切に想っていた気持ちが、思い出せないとは。
「俺はまた……大切なものを失ってしまったのか」
すごく、この身よりもとても大切だったはずなのに、なぜ思い出せない。
けれど分かる。何より大切なものだったのだと。
温もりを再び失ったことが、身を切られるように痛む。
「誰かを待たせていたような、気がするのに」
その代わり、唯一思いだせたのはあの頃の記憶。
自分がどこかの有力者の家の息子で、
寂しい生活をして暮らし、目の前でたくさんの者を失ったこと。
悲鳴、怒号、すすり泣く声、自分を取り巻く全てが一晩で壊されていく恐怖、
いつ怒りの矛先が俺に向かい、命が奪われるかもわからず、
子どもだった俺は、乳母の腕の中に守られて震えることしか出来なかった。
『声をあげてはなりません、若様』
『……っ!』
『大丈夫ですよ。貴方様のことは、この私が必ずお守りいたします』
そう言ってくれた乳母は、屋敷から俺を連れ出す際に父に見つかり、
俺の上に覆いかぶさり、俺のことを必死で守ってくれた。
そしてそのまま……俺の目の前で、爪で切り裂かれて亡くなった。
大きな嵐のように荒れ狂った。
父という名の禍つ神が立ち去った後、
住んでいた屋敷は倒壊し、生まれ育った故郷は破壊しつくされていた。
自分を育ててくれた乳母の突然の死に、泣き叫ぶことすら許されず、
俺の口を他の侍従たちが必死で覆い、乳母にすがり付こうとした俺を引き離し、
生き残ったみんなで必死になって逃げ出したのだ。
俺のことを守ってくれた者の死を無駄にしてはいけないと言われて。
俺は育ての母の亡骸を……弔う事すら許されなかった。
『う……く……』
『若様、若様はどんなことをしても生き延びなければなりません。
あの者が命がけで貴方様を守り、私どもに託してくれたのですから!』
『でも……ぼくのせいで……』
父や母の居ない寂しさを、彼女が、乳母が癒してくれていた。
俺のことを実の子のように可愛がってくれたのだ。
無力すぎて、歯がゆくて、亡くなった者達のために泣くことすら、
その頃の自分では満足に出来やしない。
あのときは生き延びる事だけに必死で、それしか許されていなかったのだ。
「――……」
ああ、そうだ。この姿は俺の贖罪の証なのだ。
俺さえ生まれてこなければ、あの者達はすぐに逃げ出すことが出来たのに。
「……なら、俺は会って謝りたい」
ここが本当に死者の住む世界だと言うのならば、
もしかしたら会えるのではないか。
死んで逝った者達に、俺の二人の母に。
俺を育て、最後まで守ってくれた乳母に、
母のように守り、慈しみ、接してくれたあの者と、
生前は一度も会えなかった産みの母にだって、今の自分なら……。
あの頃と変わらぬ子どもの姿でなら、気づいてもらえるかもしれないと。
ならば、死んでしまうのも悪くないのではないか。
もうその名前も手がかりも、今はよく思い出せはしないが。
その者達に会いたくないと言えば、嘘になる。
会えるなら会いたい、だって俺はずっと心残りだったから。
じゃあ、もういいだろうか、もう生きる事を諦めても……。
『水神の血を引く子どもだとしても、
あの者の……禍つ神にまで堕ちてしまった雄の息子、
同じようにふとしたきっかけで狂わないと、なぜいえよう?』
そう他の……先代白蛇の水神に言われて、
災いを呼び寄せる子どもだと言われたことも思い出した。
父のように暴走しないうちに粛清……。
殺してしまった方がいいのではないかとも。
俺が災いを呼ぶか、ならなぜ俺は跡継ぎとして用意されたのだろうか?
命がけでみんなが俺を助けようとしたのだろうか?
(そうだ。だから俺は……みんなを守るために生き延びようとした)
命がけで父を倒し、父から奪い取った神鏡……水鏡は、
不安定だった俺の今後の行く末を教えてくれた。
未熟な俺のままでは父の浄化まではできなかった。
怨念を抱いたまま死んだ父は、いつかきっと蘇るだろうと。
そして俺の前に現れる大事な娘が、父の花嫁として狙われることを。
それまでに自分は力を溜めなくてはいけない、
それまでは死ぬわけにはいかないとそう思い、俺は戦ってきたんだ。
これ以上、誰も犠牲にはするまいと。
けれど、今の俺はこうも思うんだ。
みんなを不幸にするのならば、俺の帰りを待っていてくれる者も、
俺が帰らない方が幸せになれるのではないか……。
「……なぜ、思い出せないんだろうな」
あれから、俺を救ってくれた娘が居たけれど思い出せない。
すると涙が一筋、つうと頬を伝っていた。
何より大切な記憶だったのに。失いたくはないのに思い出せない。
このまま何も残らず、失ってしまうくらいなら、いっそ……と思い、
より深く闇の広がる所に行こうとすると、握りしめたうろこが熱を持って、
凍えそうな俺の心を溶かしてくれた。
「あ……」
桃色に淡く光っているのを見ると、懐かしい気持ちが芽生え、
荒みそうな心が穏やかになっていく気がした。
「もしかして、俺にこれ以上……この先に行くなってことなのか?」
まるで、この先に進もうとする俺の気持ちを、
”行ってはだめ”と、必死に引き留めてくれているように、
光っているように思えた。
――キュイ。
「……ん?」
その時、俺の思考をさえぎるように、
どこからか幼い子どもの鳴き声が聞こえた気がした。
こんなところに俺以外の子どもがいるのか?
耳を澄ますと、はるか遠くから子どもの声が聞こえてくる。
「キュイ、キュイ、キュイイー?」
“龍青様、龍青様、お迎えに来たよー?
かくれんぼは終わりだよ。一緒に帰ろう~?“
ちりんちりん……ちりんちりん。
りゅうせい……その名に聞き覚えがあるのはなぜだろう?
その名を聞いた瞬間、頭がくらくらとしてきた。
誰かから受け継いだ。俺にとって忌まわしく、悲しく……それでいて尊い名前、
その名前に親しみを持って呼ばれると、俺の中で温かな気持ちが宿った。
瞳に光が宿ると、声が聞こえた方向から光が広がってくる。
暗闇を照らしていく暖かい光の粒が、辺り一帯を照らしていって……。
なんだろう、冷たく闇に覆われただけの場所が、
差し込んでくるあたたかな光に包まれて、
まるで別の世界に変わっていくではないか。
その光の中心を走る幼い娘は、俺の前に姿を現した。
身を隠していた所から、おそるおそると出てきた俺は思わず目を疑う。
「桃色の……龍の子ども?」
俺は手に握り締めていたうろこを見た。
同じ色だ。このうろこと同じ色を持つ娘が居る。
「キュイ!」
「……え?」
遥か遠くから、小さな両手を前に伸ばして、
とてとてと駆けてくる龍の子どもが、まっすぐにこちらへ向かってくる。
身丈は今の俺と同じくらいの、とても小さな子どものようだ。
桃色のうろこに、お日様のような黄色の瞳をした幼い娘が、
萌黄色の布地に、手まりと撫子の花の刺繍のされた着物を身にまとい、
背中に緑の唐草模様が描かれた風呂敷を背負って、
足に結んだ鈴をちりんちりんと鳴らしながら、
こちらへ引き寄せられるように近づいてくるではないか。
音が鳴り響くたびに、娘の行く先を金色の光が満ちていく。
闇が切り払われ、娘の走ってきた後には光の道が出来ていて、
それは冷たくて暗い世界を違うものへと変えていく、幻想的な光景。
生きている者だけが持つ、命の息吹を感じる。
その桃色の龍の娘が、こちらに居る俺と目が合う。
「キュイ、キューイキュイ!」
“龍青様、みーつけた!”
満面の笑みで笑っていた桃色の龍の子どもが、
キュイっと鳴いてまた笑う。とても幸せそうに、嬉しそうにして。
「……」
誰だろう、知らない娘のはずだ。知らないはずなのに……。
なぜこんなにも惹きつけられるのだろう?
なぜ、こんなに会えてほっとするのだろう?
“りゅうせい”と名を呼ばれた時、それは確かに“俺の名前”だと分かった。
呼んでもらえた時、この冷たい闇の中で自分の名を失い、
不安定だった俺という存在を肯定し、
自分がとても特別なものになった気がした。
ああ……涙があふれそうに胸の中があたたかくなってきて。
――俺の名を、呼んでくれるのか。
まだ呼んでくれる者が居るのか。
未熟な水神としても疎まれていたこの俺を、“龍青”だと。
失いかけていた俺の名前を呼ばれて、俺は失いかけた意識を引き戻された。
「キュイ!」
“龍青様”
そう今の俺の名を愛しげに呼んでくれる者が居る。
ああそうだ。その名はそう呼んでくれた者が居たから、
本当の意味で俺の名前になったのだと。
「キュ――!」
「へ……うわあああっ!?」
――が。
桃色龍の娘が近寄ってきた瞬間、俺はその娘に盛大に飛びつかれた。
そのまま勢いがついて俺は転倒し、娘と一緒にゴロゴロと転がる。
「キュ、キュ、キュイ、キュイイイ!!」
「……っ、て、ちょ、ちょっとやめ、やめろって」
キュイキュイ鳴きながら、頬ずりしてくる桃色龍の娘と、
巻き込まれて、わあわあと叫び暴れる俺。
桃色の龍の娘は今の俺と同じくらいの大きさの子どもだったが、
走り込まれた上に飛びつかれたんだから、俺でさえも受け止めきれない。
やたら好意的で興奮している娘の態度に、
いろいろと免疫のない俺は戸惑いながら固まっていると、
その娘が俺の名を呼びながら、しっぽをぶんぶんと振り回して、
俺の顔をすごい勢いでぺろぺろと舐めてきたり、頬ずりして来たり、
すんすんと夢中で匂いを嗅いでくるではないか。
これは俗にいう、愛情表現というものではないだろうか、
こんなに幼い娘に、熱烈に求愛されまくっているぞ。
「なっ、なななな何をしているんだおまえは!!」
「キュイ、キュイイ、キュイイ!!」
俺が抗議するも、娘は俺の話を聞いちゃいない。
「龍青様、抱っこ、抱っこ」としきりに甘えた声で言われているが、無理だ。
こんな小さな体では、おまえを抱っこなんて出来る訳がないだろう!?
ほとんど俺達は同じくらいの体格なんだからな。
そう言ったら、「じゃあ、おんぶ?」と、キュイっと言われて、
戸惑っている俺の背後に回って、背中の上に乗っかられた。
「うあっ!?」
「キュイ、キュイ、キュイ」
おんぶ、おんぶ、おんぶとキュイキュイと言ってくる娘。
それだって同じ体格だから無理だろと思っていたら、
案の定、俺は押しつぶされる形で、その場にぺしゃりと倒れ込んだ。
「……キュ?」
「……っ、ほ、ほら、言ったじゃないか!」
とにかく娘に押され気味の俺だったが、あわてて引き離そうとしたら、
両手足がっちりと俺にしがみ付かれていて、離れそうもないのに気づく。
く……っ! なっ、ななななんだ。何なんだこの娘は。
「やめろ! 離れろったら」
「キュ!」
やだ! と言ってさらに手足の力を強められた。
や、やだって……おい、一体おまえは誰なんだよ!
「……キュ?」
「俺は、おまえのことなんて知らないんだからな。
こ、こんなことしていると、本当に俺の嫁にしてしまうぞ!?」
そうだ。知らないはずだと俺は言って離れようとした。
もしかしてこれは、俺が望み生み出した幻なのではないか?
救われたい、誰かに必要とされ愛されたいという自分の……。
俺の嫁にする。それは俺が考えられる最大の脅し文句だから、
そう言えば、きっと驚いて離れていくだろうと思っていたのに。
けれど目の前の娘は、泣いて嫌がるどころか、
にこっと笑ってこう言ってきたのだ。
「キュイ、キュイキュイ」
いいよ、お嫁さんになる約束だものね。と……。
「え?」
「キュイ? キュ、キュイキュイ」
あとね? 私は桃だよ。桃姫、龍青様が前に付けてくれたの。
「は? もも?」
名前を呼ぶと、桃姫と名乗った娘はそうだよとうなずく。
「忘れちゃいやだよ。私、龍青様の嫁になるんだから」
そう桃色の娘は、俺に獣の言葉でキュイキュイと言ってきた。
「……お、おまえが俺の!?」
「キュイ」
そうだよ。嫁にしてくれる約束なの。
だから私が大きくなったらお迎えに来てね? と顔を上げた娘はそういうと、
再び俺にぎゅうっと抱き着いてきたかと思えば、
俺の小さなしっぽと娘のしっぽの先をからませて、
ごきげんな顔で上下にぶんぶんと振る。
「わっ?! なにを!!」
「キュイ、キュイイ」
私達、いつもこうしていてね? 一番の仲良しさんなんだよ。と……。
嫁……俺の嫁になりたがる娘がこの世にいるのか?
忌まわしい水神を父に持った俺を、こんなに慕ってくれる娘が?
俺は夢を見ているのか? ああ、だが……。
「おまえは、本当にぼくの……俺の……傍に居てくれるのか?」
「キュイ」
桃姫と名乗った娘は「居るよ」とうなずいた。
ずっと一緒なんだから、大きくなるまで待っていてねと。
その言葉に、気づけば俺の目からまた涙がこぼれていた。




