6・近くて遠く
私が立派な成体になるには、人型になる練習をして、
人間と渡り合えるようにならないといけないらしい。
でも龍青様はまだしっぽが隠せていないから、
正体がばれちゃうんじゃないかなと思うんだけど。
たぶん、そのためにいつも長い着物を着ているんだろうな。
私がそんなことを思っていたら、目の前のミズチとか言うおじさんが、
私達の会話に割り込んで話しかけてくる。
「龍青の場合は、ただ半身の番がいないせいで力が弱いだけだろ?
変化の方まで上手く力が行き渡らないのは仕方ねえよ。
だから、さっさと手ごろな娘を捕まえて嫁にすれば解決す……ぐほっ!?」
その時、ミズチの顔目がけて龍青様が持っていた扇子を放り投げ、
それは見事に顔の中心に当たった。
「ぐあっ!?」
「……っと、悪いな、つい手が滑ってしまった。
さてと、俺もそろそろこれを着替えなくては、
桃姫、すまないが支度を整えてくるから待っていてくれるか?
それまで姫の好きな桃でも食べているといいよ」
「キュ?」
「てめっ! 何するんだこら!」
ミズチのおじさんの言葉に返事をすることもなく、
まるで話を遮るかのように、龍青様は私を床に降ろして頭をなでて去っていく。
え? まって私を置いて行っちゃうの?
「キュ……?」
部屋を出て、廊下を歩いて離れていく彼の後姿と、
目の前の図体のでかいおじさんを何度もちらちら見て、
私は慌てたように手まりを持って龍青様の後を追いかけた。
桃のことが気になったけど、ここに取り残される方が嫌だった。
やたらとつるつる滑る床に、ときどきすってんと転びそうになるのを耐え、
てちてち、てちてちと必死で龍青様の後ろを追いかけている私を見て、
廊下で通り過ぎる女房のお姉さんたちは、あらあらと笑っていた。
※ ※ ※ ※
「キュイ……キュイキュイ?」
――その後、彼のあとを必死に追いかけてきた私に、
苦笑した龍青様は私の方を振り返る。
「ここで待っていなさい」と、私の頭をなでてから、
几帳とかいう、黒い柱に白い布が垂れ下げられたものの向こうへ、
女房さんと共に消えていった。
最初はその反対側で手まりを持ったまま、良い子にしてじっと待っていたけど、
いくら待っても来ない……。
大きくて広い部屋の床に、ぽつんと残される私。
「キュイ」
衣擦れの音が響いているから、まだ着替えは続いているのだろう。
お付きの女房さん達が龍青様の着替えを手伝っている間、
私は龍青様の姿が隠れて、見えなくなってしまったのが心細くなって、
途中からすんすん言いながら、キュイキュイと鳴いて龍青様を呼ぶ。
「キュ?」
まだ?
今の私は彼に借りた着物の一枚を頭から被り、
顔だけをちょこんとのぞかせている状態だ。
私があまりに龍青様を呼んで泣くからと、
自分の残り香がある着物を貸してくれたのだが。
「キュイ……」
あんまり役には立っていなかった。
匂いは嗅ぐけど寂しいものは寂しいんだよ。
「キュ……キュイイ……?」
龍青様、まだそこにいるの?
「俺はここに居るよ。ちゃんとここに居るからな?
だからもうちょっと、もうちょっとだけ待っていてくれるか、桃姫」
「キュ~……キュイイ」
龍青様、なんで私はそっちに行っちゃだめなの?
私も行きたいよ。なんでだめなの? もうちょっと待ったら行っていいの?
そう問いかけると、引きつった声で几帳の向こうから話している、
龍青様と女房さん達の声が聞こえた。
「……っ、た、ただ着替える為に少し姿を見せないだけで、
子どもというのはこんなになるものか?」
「本当なら姫様は、ご両親の傍にぴったりとくっ付いている年頃ですものね。
うふふ、でも着替えの時まで追いかけてくるなんて……。
公方様も随分と姫様と仲良しに」
「微笑ましいですわね」
「ええ、睦まじくて良かったですわ」
「……キュ」
お姉さんたちだけ、一緒なんてずるいじゃないか。
そろそろと近付こうとしたら、気配で気づかれ怒られて、
なぜか私は彼の居る所まで行ってはだめと言われた。
なんで私だけいけないの? 私もそっちに行ってもいいじゃないか。
だめと言われたので、私はしょぼんとうな垂れて、
着物をずるずると引きずりながら元の場所に戻る。
「キュ……キュイイ……キュイイイ」
やがて龍青様が本当にいるのか不安になって来て、
私は何度もお兄さんのことを呼ぶようになった。
自分の足に結ばれた鈴をちりんちりんと鳴らし、
キュイキュイと龍青様の名を呼ぶ。
「ひ、姫?」
「キュ?」
時折、私の泣き声が大きくなる頃合いを見て、
心配した龍青様の顔だけがちらっと見えると、ぴたっと私の泣き声は止まる。
すると龍青様の顔が隠れて着替えの続きが始まって、その繰り返しだった。
「良い子だから、な? 桃姫、もう少し、もう少し待っていてくれ」
「キュ……」
居なくなったりしない?
私は不安だった。急に目の前からいなくなっちゃうんじゃないかって。
それは私が前に郷を襲われたせいもあるんだろうけど、
龍青様が本気でかくれんぼしたら、私は見つける自信がないんだよ。
「……っ! そ、そんな目で見ないでくれ、
この俺がおまえを置いて、居なくなったりするはずないだろう!?」
それもそうかと私はうなずいて、手まりをころころと転がして待つ。
自分も手まりと一緒に転がってみる。
すると着物に絡まって自分がぐるぐる巻きになっている。
反対側にころころと転がって元に戻り、そろそろいいかなと顔をあげた。
「キュ~?」
「まだだよ」
人間の真似事で暮らすのって大変なんだな……。
いっそのこと、私みたいに屋敷の中では龍青様もずっと裸で暮らせばいいのに。
そう私が言ったら、向こうで龍青様がぶほっと吹き出していた。
「キュ?」
「公方様?」
「ひ、人型で着物も着ずに歩き回れるわけないだろう、不審者になるぞ」
「キュ?」
そうなんだ?
結局私は、床で手まりの真似をしてころころするのも飽きた。
最後には我慢できなくなって、泣きながらまた几帳の端っこまで行き、
竹で編まれた行李とかいう箱の角から、
着替えている龍青様をのぞき見ることにした。
じい……。
じいいいいいいいいい。
じいいいいいいいいいいい。
「キュ……キュイ」
隠れる訳でもなく、こっそり見る訳でもなく、どうどうと。
もう怒られてもいい、ずっと傍で見てやるんだからな。
彼の近くでは、龍青様が身に着けていた首飾りと冠を片付けている女房さん達、
龍青様は藍鉄色の着物を羽織ったばかりだった。
「ん? ……っ!? も、桃姫!?」
「……」
じいっと見ていたら、龍青様が視線を感じたのか私と目が合った。
驚いた彼の肩がびくっと揺れて、言いつけを守れない私は怒られるかと思ったが、
私が彼の着物をくわえて、体を震わせながら涙をぽろぽろと流していた事もあり、
もう何も言えなくなったらしい。
「お、幼いとはいえ嫁入り前の娘に、
堂々と着替えをのぞき見される日が来るとは……。
これが子どもに見られる後追い攻撃というものか、流石にこれは焦る」
「キュ~……キュ……キュイイ」
「しっ、仕方がない! 桃、桃姫……こっちへおいで?
俺の着替えがそんなに見たいのなら、傍で見ていればいいだろう」
「キュ」
いいの?
龍青様からお許しが出て、私は両手を伸ばして駆け寄り、
ぎゅっと龍青様の足元に飛びつく。
「キュ、キュイイ!」
うれしい! 龍青様すき!
しっぽを振ってご機嫌を直した私に、龍青様は天井を見上げてうなっていた。
「……さすがの公方様でも姫様に根負けですわね」
「甘いですわ」
「し、仕方ないだろう……しかし嫁の教育的に、これはいいのだろうか?」
「良いのではないですか? 愛想を尽かされるよりは」
「女心は移ろいやすいものですからね」
「ぐ……っ、そ、そうだな」
「キュ?」
かくして私は、彼の着物をずるずると引きずって彼の近くで着替えを見守る。
やたら動揺している龍青様の頬が染まっていくのと、
傍で「公方様は姫様に弱いですね」と女房さん達がくすくす笑って、
彼の着替えが終わるまで、心行くまで待っていたのだった。
※ ※ ※ ※
――それから身なりを整え、乱れた髪もきれいに整えられた龍青様は、
泣きやんだ私を連れて、仲良く部屋へと戻ることになった。
「……おい、この俺様に嬢ちゃんをいじめるなって言っておきながら、
おまえだって泣かせているじゃねえかよ。親御さんに言いつけるぞ」
「こっ、これは不可抗力だ!」
「キュ?」
すんすんと鼻を鳴らし、まだ涙目だった私を見ると、
待っていた友神のミズチに見られてこう言われた。
「キュ!?」
そうだ……忘れていたが、まだこの男が部屋に残っていたんだった!
びっくりと肩を震わせた私は、持っていた手まりをぽと……っと床へと落として、
龍青様の懐に慌てて頭から潜り込んで隠れる。
「わあああっ!? ま、待て、姫、姫ぇ!?
せっかく着た着物がくず、崩れてしまうだろう! こら、やめなさい」
「キュ……!」
「……」
困った顔で見つめる龍青様に、私はぷるぷる震えながらここに居ると訴える。
私にとってきっとここが一番安全な場所なんだ。だから私はここに居たい。
というか居る! 私はがしっと手で着物にしがみ付いて、
顔だけを少し出して龍青様を見上げた。
「キュイ」
私、龍青様と一緒に居たいよ……。と言えば。
「し、しかたない……な、ちょ、ちょっとだけだからな……姫?」
ほんのり頬を赤く染めた龍青様は、
口元を片手で覆ってぷるぷると震えだし、私がいるのを許してくれた。
龍青様、優しいから好きだ。私はキュイっと鳴いて返事をする。
そしてゴロゴロと喉を鳴らして龍青様に頬ずりして甘えた。
「おまえ……いくら水神が若い娘や子どもが好きだって言ってもさ、
さすがにそこまで甘やかしちゃあかんだろ。教育的に」
「……っ、うるさい、俺の嫁になる娘を甘やかして何が悪いんだ。
あ、愛想を尽かされるよりはいいと、女房達からも言われたんだぞ!?」
「あ? この小っちゃいのがお前の?
嫁を見つけたって、このおちびちゃんかよ」
「そうだよ。悪いか」
「いや……まさかそこまで見境なくなっちまったとはねえ」
「まだ何もしていないぞ……姫にはさんざんされているけどな」
「あ?」
そこで、ちょっと恥ずかしげに視線をそらしている龍青様が居た。