白蛇編・8~水神の最本殿~
「――さて、じゃあそろそろ俺は出かけるよ。会合に顔を出さないと」
「キュ?」
龍青様が私をおろして頭をなでてくる。私はこれからお留守番なんだって。
水神の会合は毎年やっているわけじゃなくて、
神様のきまぐれで行うから、数百年ぶりのことらしい。
傍にはハクお兄ちゃんと女房のお姉さんが残ることになった。
「連れて行こうかとも考えたが、神気に当てられるといけないから、
いつか姫のことをみんなに紹介するからね?」
「キュ……」
心細くなった私は、手まりを持って龍青様を見上げる。
もう行っちゃうの……? と、もう涙目になっていた私を見て、
龍青様は懐から手慣れた様子で布をすっと取り出し、
涙をぬぐってくれると私の涙はぴたりと止まった。
いい匂いのする布だと分かると、両手でがしっと受け取り、
顔を埋めてすんすんと夢中で鼻を嗅ぎ、しっぽを振り始める。
「キュ、キュ、キュ……」
「よし、今のうちだな……ハク、
留守の間、姫のことをくれぐれも頼んだぞ!
また少しぐずってしまったら、姫に何か甘味を与えてやってくれ。
風呂敷の中にも干した桃がある」
「か、かしこまりました」
本殿奥には、足場が踏めるように人の手で作られた中庭があり、
その真ん中に大きな池があって、龍青様はその中にそそくさと入っていく。
はっと私が気づいた時にはもう遅い。お兄さんが行ってしまった。
あわてて龍青様の後を追いかけると、
ハクお兄ちゃんと女房のお姉さんが、私のことを追いかけて来る。
「こら、それ以上付いて行くな! 巻き込まれるぞ!?」
「姫様! 公方様はお仕事に向かわれますから!」
「キュ……キューッ!!」
龍青様、行っちゃやだ! 置いていかないで!
龍青様が行くのなら私も……私も行く!
「キュー!」
「あああああっ! ちびすけ――っ!?」
「姫様っ!!」
静止の声を振り切り、龍青様が消えた水の中に、
私も両手を伸ばして、どっぼーんと飛び込んだ。
※ ※ ※ ※
ぶくぶくと泡を立てて、必死に手足を動しながら、
私はとっても大事なことを思い出した。
――そういえば私……まだ泳げなかった……。
まずい溺れると、手足をじたばたしてあわてていると、
水の中で鈴がちりんと鳴り、水が私の体を包み込んでどこかへ運んでくれる。
目を開けてみれば、水で出来た魚が私の周りを泳いでいて、
私のことをどこかに運んでくれているようだった。
ぷくぷく、こぽこぽと大きな泡が私の周りに起きて、
水の中で息もできるようになり、気づいた時には、
見知らぬ真っ白な社の近くで寝ころんでいた。
「キュ?」
さっきいた場所と感じがちがうな。
どこもかしこも真っ白な社だ。
龍青様が昨日見せてくれた。真珠っていう海の宝石の色に似ている。
後ろを振り返って、お魚にお礼を言おうとしたが、もう魚の姿はない。
「キュ……」
もしかしてここが“さいほんでん?” とか言う所かな?
周りには生き物の気配もなく、とても静かで……誰かが居るようには見えない。
光に当たると虹色に変わるその社は、さっきいた場所よりも静かで、
波の音すらもしない……龍青様の所とは大ちがいだ。
さて、無事に着いた事だし、龍青様を探そうかな、なんて思っていると、
私の後ろ首を、何者かに後ろからがしりとつかまれた。
「キュ!?」
「……っ! おま、えは……留守番だと主様に言われただろうがあああ!!」
振り返ると、ハクのお兄ちゃんがずぶぬれの姿で立っていた。
追いかけてきたのか。やっぱり相手をしてくれなくて寂しいんだな。
ちなみに私は、鈴のおかげでぬれたりはしていない。
私の着ている萌黄色の着物も無事だ。
離してと、私はぺちぺちと手でたたく。
ぬれた手で触られたら、私までぬれてしまうではないか。
「ぼ、ぼくはな、泳げないんだぞ!」
ぺちぺち、ぺちぺち、ぺちぺちぺっち。
「し、死ぬかとおも……っ」
「キュ?」
水神の子どもなのに泳げないのか、ということは私と仲間だね。
私は親近感がわいて、倒れたままで涙目のお兄ちゃんの頭をなでる。
目の前でぜえぜえと息を繰り返すハクのお兄ちゃんに、
じゃあ来たからには一緒に怒られようねと、キュイっと鳴いた。
ここまで来ちゃったんだから、龍青様の用事が終わるまで待っているつもりだ。
「おまえ、ぼくの話聞いていないだろ!」
「キュ」
そうだよ。
私は龍青様の行った先を探すために、
鼻を地面に近づけてくんくん、すんすんと嗅ぐ。
きれいに整えられた龍青様の社とちがって、ここは荒れている気がするな。
ここは陸地とつながっているけれど、草が生い茂っていて、
どこか手入れされていない気がするんだよね。
「キュ~……?」
変だな……龍青様の社の時は、仕える人がとてもきれいに整えていたのに。
ここは、そういうことをする者が誰もいないのだろうか。
そういえば……さっきから生き物の気配もしない気がする。
あの、ざわざわとする物音がないんだ。
途中でいい感じの長い草があったので、
なんとなく左右に引っ張って、先と先を結んでみた。
すると、あらいい感じに私の通れるくらいの輪が出来るじゃないか。
潜り抜けては次を結んで、あちこちに作ると楽しい。
「お、おい、主様を追いかけてきたのに遊ぶのかよ。
ほら、主様にばれる前にもどー」
「キュ!」
戻らないぞ、龍青様が行くところ私ありなのだ。
お仕事が終わったら抱っこしてもらうんだからね!
目的を思い出した私は、いい匂いがするその先をすんすんと嗅いで、
龍青様の進んだ後をたどり、私も同じ所をずんずんと進んで行くと、
ハクお兄ちゃんが「あああ、主様に怒られる」と言いながらついて来た。
こう見えて面倒見がいいのかな、このお兄ちゃん……。
すると社へ行く途中に開けた場所があり、砂場が広がっている。
大きなお砂場だな……ここでも遊んでみようかとか考えていると、
そこで私は、気になるものを見かける。
ひっくりかえって、手足をジタバタしている小さな緑色の何か、
そろそろと近づけば亀が居たのだ。
「キュ?」
「おお、いい所に、そこの桃色のお嬢さん。
このわしを起こして水辺まで運んでくれんか!?
あわてていたら引っくり返ってしまっての、起きられんのだ」
亀は体が小さいけれど、おじいさんのようだ。
よく見ると長い眉毛で目が隠れていて、小さなおひげが付いている。
私はハクお兄ちゃんと顔を会わせて、いいよとキュイっと鳴いた。
ちょうど振り返れば、私達がやって来た時に使った池があるもんね。
私は両手で大事に抱き上げ、池の方までとてとてと歩いて運んであげた。
すると何度も頭を下げてきた亀のおじいさんは、
水面から顔だけを出して浮かんでいる。
「……やれやれ、どうなる事かと思ったが助かったよ。
おぬしたちも早く逃げなさい。ここは危険だからね」
「キュ?」
「は? ど、どういうことですか、ここは聖域のはずでは」
ハクのお兄ちゃんが腰を低くして亀のおじいちゃんに聞くと、
目の前で亀のおじいちゃんは首を左右に振り、
「ここはもう駄目かもしれぬ」と言われた。
「水神の中の一柱を殺めて、神の力を手に入れた愚かな人間が居ての、
加護や神通力を持つ者しか立ち入れぬこの場所に、
単身で乗り込んできたんじゃ、”おまえたちの力をよこせ”とな」
「……キュ?」
「なんですって!?」
悪い人間がここに居るの? あやめるって……なに?
「水神達の中に殺された者がおるということじゃよ。
今日の会合の話を、どこからか聞きつけたようで狙われたのだ。
きっと殺された水神が話してしまったか、口の軽い蛙にでも話を聞いたか。
……水神達がわらわらと逃げ出して、わしも逃げて来たんじゃが」
「キュ!?」
「すみません、ではこちらに主様……龍青様は来ませんでしたか?」
震える声でハクお兄ちゃんが、亀のおじいちゃんにたずねた。
「龍青のせがれか?
……いや、会っていないから、どこかですれ違ってしまったか」
龍青様! 龍青様が危ない!!
私は飛び上がった後、両手を前に伸ばしてたかたかと走り出した。
大変だ! 人間、あの怖い人間がここに居るなんて!!
それも、それも神様さえも殺そうとする危ないヤツがっ!
他の水神は逃げ出したようだけれど、
きっと龍青様はこの事を知らないはずだ。
急いで追いかけて連れ戻さないと、龍青様が殺されちゃう!!
涙がぽろぽろと出てくる。怖くて怖くて震えが止まらない。
それでも私は前に前に走っていた。
思い出すのは私の故郷、龍の郷を襲われた時のことだ。
後ろからは同じように走ってくるハクお兄ちゃんが居て。
私のことを止めに来たのかと思いきや、横をすり抜けて走り出す。
「ぼくも行く! 急いで主様を探すぞ!!」
「キュ!」
「会合のために行ったのなら、中央の大広間に行っているはずだ」
私は辺りを見回しながら、わたり廊下へとよじ登り、
龍青様が居そうな部屋を必死で探す。作りは龍青様の社に似ているから、
初めてここへ来た私達でも、なんとか迷わず進むことが出来る。
走りながら、ハクお兄ちゃんが手をパンパンっと叩いた。
「そんな奴にぼくの術が通じるとは思わないけど、
念のため、ぼく達の足音も消しておこう、
相手にこちらの動きを悟られたらまずい」
走るたびに、ぎしぎしと鳴っていた床がぴたりと静かになった。
そういえばこのお兄ちゃんも水神様の血を引いているんだったな。
何度か角を曲がり、やがて大きな部屋に近づくと見慣れた後ろ姿を見かける。
青銀髪の長い髪、さっき別れた時に見た藍鉄色の羽織……龍青様だ!
今にでも中に飛び込みそうな私の体を、ハクのお兄ちゃんが手で止め、
人差し指で口元に手をやった。静かにするときにする合図だ。
私はこくりとうなずいて、両手で自分の口を隠した。
「――っ!」
そっと中をのぞくと、目の前の部屋の中には龍青様が立っていた。
こちらに背を向けて、誰かと言い争うような声で話している。
そして自分の右の方の腕を、もう片方の手で抑えているように見えた。
私は抑えている方の手を見た。
すると、龍青様の着物の袖から見える手から、
ぽたりぽたりと赤いしずくが落ちていて――……床に赤いシミを作っていく。
「……っく、うう」
「……!」
目の前に居る龍青様の苦し気なうめき声がもれた。
すんと嗅げば血の匂いがする。りゅ、龍青様が怪我をした?
誰に? 誰にやられたの!? もしかして目の前の? と思い、
そろそろと几帳の裏に移動して相手の顔を見る。
(だれだ。私のお兄さんにこんなことをするのは!!)
体の震えに耐えながら見えたのは、この場所には合わない、
変な感じのする人間の男の姿だった。
上下に分かれた白い着物、その履物の裾は膨らんだようになっていて、
足にはぴったりと巻き付ける形をしている。
髪は生えておらず、浅黒い肌に瞳は黒くて、
長い球がたくさん付いた、血のように赤い首飾りを付けていた。
「はは……水神といってもたいしたことねえなあ……」
その男の姿を見て、どくりと胸元を何かにつかまれた気がした。
あの顔、そして匂いも、こちらに聞こえてくる声も、私、覚えている。
私の故郷が襲われた時、刀を持った人間達に交じってこの男が居た事を。
それに今、男が手に持っていたのは、前にかんなが持っていた。
あの何かの札が貼られている懐刀に似ている。
「キュ……キュイイ……」
あまりの怖さに声がもれそうになって、あわてて口をふさいだ。
それでも、ぷるぷると足元がさっきからがくがくと震えている。
間違いない……あれは私の郷を襲った人間の一人だ。
私が一番大嫌いな……私から大切なものを奪ったあの……っ!
「そ……んな……うそだ……うそだろ?」
驚いて固まっている私の横で、
今度はハクお兄ちゃんからも小さな声がもれた。
「キュ?」
どうしたの?
「あいつはあの時、ミズチ様が船ごと沈めたはずの人間じゃないか、
主様を傷つけられるなんて……まさか本当に誰か犠牲に?」
ハクお兄ちゃんに震えながらしがみ付くと、
お兄ちゃんの方も私を抱きかかえて震えている。
もう水神を一柱殺されているのなら、きっとかなりの力があるのだろう。
「主様でさえあんなになっているから、
ぼく達が助けに入ったところで何も……っ!?」
そして相手の持っているものに気づくと、驚いた顔をしていた。
「……っ!」
ハクお兄ちゃんは何かに気づいたのか、
人間の持っている刀を信じられないという顔でじっと見ている。
「あに……じゃ?」
「キュ?」
「あ、あの剣に使われているうろこは兄者のものだ。間違いない。
じゃあ、殺された水神がいるって……兄者のことだったのか?」
「キュ?」
――え? と振り返った時に、後ろで龍青様の悲鳴が聞こえた。
「うぐっ!?」
ばっと龍青様が居る方を振り返ると、
龍青様がまた人間に刀で切りつけられていた。
傷つきながら、男と距離をとって水の蛇で戦おうとする龍青様の姿がある。
でもそれを男が持つ札で、ことごとくはねのけられていき、
じりじりとその距離が近づいて……。
「……っ!」
「ははっ、どうしたよ? もっと抵抗してみろよ水神様よお!」
大変だ助けなきゃ!
私はそのまま倒れこんで、取っ組み合いを始めた龍青様と、
今にでも、刀を龍青様に振り下ろそうとする人間の男に駆け寄る。
「キュイイイ!!」
そのお兄さんから離れて!
飛び掛かって、顔を思いっきり引っ掻いてやった。
「――っ!? 姫!!」
「ぐああっ!? 何だこいつは!!」
顔に張り付き、無我夢中で何度も敵にひっかくと、
バシッと何かの強い力に当たり、なすすべなく振り落とされた私は、
そのまま床にたたきつけられ、ごろごろと床の上へと転がった。
「キ゛ュ!?」
い、痛い、でも、戦わなきゃ……龍青様を助けなきゃと、
震えてキュイキュイ泣きながらも必死になって起き上がると、
龍青様が目の前の男を足で蹴り飛ばし、駆け寄ってきて私の体を抱き上げる。
「だ、大丈夫かい、姫! 怪我は?」
「キュ……」
「ああ、なんでここへ来たんだ。お留守番だと言っただろうに」
息を切らしながら龍青様が私の頬をなでる。
龍青様……! 私は震えながら両手を伸ばして龍青様に抱きついた。
ごめんなさい。言いつけ守れなくてごめんなさい。
でも、でも私――……と言いかけたところで、
龍青様の背後で動く気配がして、私はびくっと震えた。
人間が笑いながら……血濡れた刀を肩にとんとんと当てながら、
私達の方を楽しそうに見ていたのだ。
「――っ、ああ……どこかで見たと思ったら、
前に取り逃がした珍しい色目の龍の子どもじゃないか。
そういえばどこかの水神が、子どもを保護したとか聞いたな」
「……っ!」
私のことが人間に知られている。私と、龍青様の事を。
ひゅっと私が息をのみ、また震えが止まらなくなった。
龍青様が私を抱きしめる力が強くなる。
「ちょうどいい……龍の子どもは呪具の素材では一級品だ。
また逃げられないうちに、おまえも俺の獲物として利用してやろう。
珍しい姿だから、さぞかし特殊なものが作れるだろうな」
「キュ!?」
あの時と同じ人間が……私のことを見つめている。
怖くて私が龍青様の腕の中で固まっていると、
隠れていたハクお兄ちゃんがさっと横から飛び込んできて、
滑り込むように割り込むと当時に、懐から何かを取り出した。
「これでもくらえ!」
目の前で何かの球を勢いよく床へと叩きつける。
すると、ぼわっと白いけむりが玉から出てきて舞い上がり、
周りが一瞬にして真っ白になった。
「ごほっ!? な、なんだ? くそ! まだ他に仲間がいたのか!!」
「今のうちに主様!!」
口元を袖で覆ったハクお兄ちゃんが、振り返って私達に叫び、
私は龍青様に抱きかかえられながら逃げ出した。
「待て! そうはいくか!!」
敵に背中を向けて走り出した時だった。
私達に向けて無数に投げつけられた札の一つが、
まるで生き物のように私達を追い回し、くるっと方向を変えて、
腕の中の私の方へ向かって来たことに気づいた龍青様は、
とっさに私のことをかばうと、札の一つが背中に当たってしまった。
「ぐあっ!?」
バシッという激しい音ともに、近くで何かパリンと割れた音がした。
そして何かが龍青様の胸元で光ったと思えば、
今度は黒いもやが背後から龍青様をおおっていく。
まるで龍青様のことを飲み込もうとしているかのように……。
「うわ……っ!」
それを受けて悲鳴を上げた龍青様は、よろめいた体を持ちこたえ、
腕の中の私を、目の前に居たハクのお兄さんに投げたのだ。
「主様!?」
私を受け取ったハクお兄ちゃんと私は龍青様を見る。
がくりと床に膝をついて、震える龍青様が居て……。
「ぐう……ハ、ハク! 命令だ!! 俺にかまわず行け!!
姫をどうか安全な所に……っ! 何としてでもその娘を守れ!!」
「キュ……?」
龍青様?
私には今……何が起きているのか分からなかった。
分かるのは、今とても龍青様が苦しんでいることだけで……。
でも、龍青様は私と目が合うと、
「姫、どうか生きて……」と小さな声で私に言ったのが分かった。
私はその言葉が、頭の中で何度もひびいた気がした。
まって、なんで今そんなことを私に言うの?
「ぐああああああ――っ!?」
龍青様の目が見開き、金色の獣のような瞳へとぎょろりと変わると、
牙が見え、苦痛をうったえるような悲鳴に変わる。
背中を押さえた龍青様に、震える両手を伸ばそうとした私は、
目の前で龍青様の姿が急に消え、その代わりに八角の小さな鏡が現れたのを見た。
「キュ!?」
同時に、鏡の中から光の玉が抜け出て来て、どこかへ飛んでいく、
そして残された鏡は、床の上にからん……と静かな音を立てて、
転がり落ちていった……。
「キュ――!?」
や……やだ! 龍青様が、龍青様が!!
ハクのお兄ちゃんの腕から飛び降り、龍青様が消えた場所へと駆け寄る。
周りを何度見ても龍青様の姿は見つからない。
代わりに床へと落ちた鏡だけが残っていた。
黒いもやに包まれている鏡が……。
だから、もしかしてこれが原因かと、
急いでそれを拾い上げ、ぺしぺしと鏡を叩いてみたり、
必死になってぺろぺろと舐めても見るけれど、何の反応もない……。
龍青様が元に戻ってくる様子はなかった。
「そ、そんな……主様」
「キュ……キュイイイ……?」
居ない、どうして、なんで?
龍青様……居なくなっちゃった……。どこへ行っちゃったの?
龍青様、龍青様が居ないよ、どこにもいないよ!?
今起きた事が信じられなくて、ただただ涙をぽろぽろと流す。
キュイキュイと龍青様のことを何度も何度も呼んだ。
でも……いつもすぐに応えてくれる龍青様はどこにも居なかった。
「はは……やった。やったぞ!
これで二つ目の正式な神の力を取り込んだ呪具が出来た!!
白蛇の時はかなり苦労したが、神の力で相殺してしまえば弱かったな」
人間の男がそんな私達を見て笑っていた。
何を言っているのか、わからなかった。わからない……わからないよ。
私の視界は涙でゆがんで、床の上と鏡の上をぬらした。
「ぬ、主様……うそだろ」
「……キュイイ」
「その札が付いている限り、そこの水神は俺の意のままだ。
さあ、そいつをよこして、大人しくおまえ達も――」
……ふだ?
私は男が何か得意げに話している中、
手に持っていた鏡の裏をそっとのぞいてみると、
なにやら黒い縁取りの札が貼り付いていたのに気づく。
札からは嫌な感じの黒いもやが、ここから出ていた……。
「……キュ」
これか。
私は鈴をちりんと鳴らしてから、札をぺりっとはがしてみた。
……思っていたよりも簡単にはがれたんだけど。
するとなんとなく感じていた嫌な感じは鏡から消えていく。
でも、龍青様の姿は戻らなかった。
「のおおおおおっ!? 俺の特製の札があっさりと破られただと!?」
「キュ?」
「……こいつ、実は思ったより馬鹿かもしれないな。
自分で勝手に手の内を教えるなんてさ」
ハクお兄ちゃんがぽつりと言った。うん、私もそう思う。
「早くそいつをよこせ」と男があわてて近づいてきたので、
私は、「やだ」とキュイっと反抗して鏡を抱えると、
ふんっと鼻息荒く、かか様からもらった光属性の力を全力で使い、
光を鏡で反射させてみる。
すると、ピカ―っと光った鏡が相手の顔に当たって動きを遅らせた。
龍青様が前に、やってはいけないよと言われた遊び方だけど、
悪いヤツにやっちゃだめだとは言われてないもんね!
「うおっ!? なにを! め、目が……っ!?」
そして私には、とと様からもらった火属性がある。
札は紙だから……確か木属性で私の力とは相性がいいはず。
私は鏡をわきに抱えた後、手に持った札に小さな炎を着けて、
じゅっと焼いて消し炭にしてやった。
「うああああっ!? 止めろおおおお」
「キュ!」
やだ! ぽいっと消し炭になった札を床に投げ捨てる。
捨てて、足で踏みつけて、これでもか、これでもかとぐりぐりしてやると、
「それを作るのに何世代もかかったのにいい!!」と男は半泣きで叫んでいた。
知るか!こんな物で私から龍青様を奪うなんて、許さないんだからな!
「き、きさまらああっ! 一族の悲願の呪詛をおおおっ!?」
男が水球を投げつけると、私をかばったハクお兄ちゃんに当たり、
ハクお兄ちゃんは近くの柱にたたきつけられて、
白い蛇の姿に戻ってしまった。
「うわあっ!?」
「キュイ!?」
ハクお兄ちゃん!?
私は急いで鈴を鳴らした。ちりんと鳴らせば水の蛇が出てきて、
男が再び私の方へ投げつけてくる水球を弾き飛ばす。
「な゛……っ!?」
涙を流しながら、私はキュイキュイと声を上げて抗議した。
怒りたいのはこっちだ! よくも……よくも私の龍青様をいじめたな。
ハクお兄ちゃんにまでひどいことしたな!
龍青様はいつも人間のことを助けていたのに、
その人間が龍青様をいじめたりするなんて、なんて悪いヤツなんだ!!
ちりんちりん、ちりん!
鈴の力を借り、水の蛇で男に攻撃した後、
両手を広げて今度はとと様のまねをしてみる。
小さな小さな火の玉、力は強くないけど数が増えればそれなりに使えるはず。
私は鼻息荒く力み、いくつかぽんぽんっと出して見せると、
さらに火の玉の勢いが強くなっているのを見た。
「な、なんだこいつ! 子どものくせにもうこんな力が使えるのか!?」
男が札を取り出そうとするので、
急いで火の玉の一つを投げつけて、手にあった札を燃やしてやり、
そのままの勢いで、相手の着物の裾に目がけ、
次々と作った火の玉をしっぽに当てて投げつける。
龍の子どもをなめるな! 私の怒りを思い知れ!
「うわっ! おおわあああああっ!?
着物が!? あち、あちちちち! 札が燃えたら刀の制御が!?」
いくつか投げたうちの一つがうまいこと当たって、
男が着物にぼわっと付いた火を、あわてて消そうとしている間に、
私はよし今だと、蛇になっているハクお兄ちゃんの頭をがしっとつかみ、
鏡をわきで抱えたまま、てちてちと走り出した。
「お、おまえそんな技、いつの間に身に付けたんだよ!?」
「キュ!」
今!
目の前のヤツは言っていた。『神の力で相殺した』と、
あの男は同じ水神の持つ水属性で打ち消しあって、
刀で龍青様を切り付けていた。
なら、私だって同じことをすればいい。私にも龍青様の加護の力がある。
男の力を鈴の水属性で打ち消しあって、火属性か光属性で反撃する。
ただあっちは私より力を使いこなしているようだったから、
先に火を出すと、水で消されるかもと思ったんだ。
だから目くらましに光属性を使ってからにしたんだよ。
人間の着ている着物は木属性だからね、火とは相性がいいんだ。
私は属性のお勉強については、
それこそ、かか様にいっぱい教えてもらっていたんだからね。
いつか、龍青様の役に立ちたくて、すごくがんばって覚えたの。
でも……こんな形でと思うと、すんと鼻を鳴らした。
「ま、待たんかこらああああっ!」
「キュ!?」
人間の男はそれでもしつこく私達を追い回してくる。
焦げ散らかした着物をものともせず、怖い顔で近くまで来ていた。
やっぱり私の小さな火では威力がないな、とと様がうらやましい。
でもどうしよう、このままじゃ追い付かれて捕まってしまうと思った時、
突然、後ろでどたっという大きな物音と一緒に、男の悲鳴が聞こえた。
「うごわああっ!?」
「……キュ?」
さっとハクお兄ちゃんと振り返ると、
おや意外……勝手に敵が地面にすっ転んでいるではないか。
「ぐ……っ!? な、なんだ? こんな所に草が……っ、
くそっ、絡まって足が抜けん……」
あ、さっき私がふざけて草の先を結んだのが罠になったようだ。
そういえば……さっきから私、その輪の中を通って逃げていたな。
何個か作ったから、そのうちの一つが引っかかったんだろう。
上手いこと足止めになっていたので、
そのすきに人型に戻ったハクお兄ちゃんと、すたたーっと走り去る。
なんか後ろで「まてやこらあああっ!」とか、
わめかれているけれど知らない。
「このまま飛び込めっ!!」
「キュ!」
龍青様の代わりに現れた鏡を離すまいと、
両手でぎゅっと抱きかかえて。
(ぜったいに、ぜったいに助けるんだ!!)
鈴を鳴らし、来た時に使った池の中へと、
私達はどぼんと水音と立てて、勢いよく飛び込んだ。
龍青様を助ける方法を探すために、迷いはなかった。




