ミズチの恋・7~かなに戻る時1~
「――お、目が覚めたか?」
目が覚めるとそこは水の底の座敷牢の中ではなく、見知らぬ部屋の天井だった。
横たわっている私の顔をのぞきこむように、空の青さのような水色の髪に、
金色の瞳をした異形の男が私のことを見下ろしていて、
私と目が合うと、にかっと嬉しそうな顔で八重歯を見せて笑いかけてきた。
「起きあがれるか? 何か欲しいものでもあるか?」
(だれ……あの男じゃない……)
あの男……私が前に見た水神は、腰元まである青銀髪の優男。
この世の者とは思えない、見目がとても美しい青年だったが、
まるで死んだ魚のように表情の見えない相手だった。
私とは違う作りの存在だから、
余計にそう感じてしまうのかもしれないと思っていたが、
あの時は憎しみをひた隠して、目的を遂行することだけに夢中で、
余り気にはしていなかったが、まとう気配というのも違う感じがした。
きっとどこの水神もその眷属というのも、
冷酷で野蛮で、身勝手な存在なのだろうと思っていたら、
目の前の男はあの水神とは真逆の雰囲気をしていることに、私は戸惑う。
(どういうこと……あいつの仲間じゃないの……?)
私は神を殺そうとした大罪を犯した。けれど失敗して囚われた。
それを知らないはずはないのに、なぜ私にこんな笑みを向けてくるのだろう。
“もう、大丈夫だからな”
消えかかった意識の中、この人が薄暗い座敷牢から、
懸命に連れ出してくれたことだけは覚えている。
どうしてそんな事をしてくれたのか、聞けないままに私は意識を失ったようだ。
体を見下ろせばずいぶんと自分の姿は様変わりしており、体は清められ、
自分の皮脂で固まってしまった髪は、綺麗にくしけずられていて、
毛先も整えられて、高価な香油が使われているのが分かった。
そして座敷牢に放り込まれたときに着させられていた。
チクチクとした肌触りの質素な無地の麻の着物から、
柔らかな絹の白生地で仕立てられた寝間着へと変わっている。
「あの、私……」
「見つけた時から熱が下がらなくてな、3日ここで寝たきりだったんだ。
結構危ない所だったんだぞ? でもまあ、熱が下がったようでよかった」
「……」
起き上がって部屋を見渡す。
広くて高い天井、そろえられた女性物の着物に調度品。
隣の部屋では薬師様らしき人が、薬研という、
薬草を粉砕する時に使う道具を使って、台の中にある取っ手付きの輪を転がして、
御簾の向こうで薬草を煎じている様子がうかがえた。
外へ続く所からは広い庭園を見ることができたが、
起き上がろうとした時に、じゃり……という聞きなれない異質な音がして、
はしたないけれど足元の着物をめくれば、これまでなかったはずの、
小さな足かせがはめられていた。
「……」
……逃げないためのものだろうか。
いやしかし、先がどこにもつながれていないのは奇妙だった。
「……これは」
「あ、ああ、それが気になるよな?
おまえさんを自由にするって条件で、着けることになっちまったんだが、
俺の術であんまり肌が辛くないように加工させてもらっているからよ。
それから体温が奪われねえようにもしてあるから。
不便かもしれねえが、どうか我慢してくれねえか」
罪人の証が残されているということは、
完全に助かったということでもないのか。
ここは……まだあの水神の所有する部屋の一つなのだろうか?
けれどなぜ、突然こんな扱いになったのだろう。
命は奪われこそしなかったが、いつ朽ちても良いような扱いだったのに。
(もう……何もかも手遅れだと思っていたのに)
家族を助けるため、神殺しをしようと潜りこんだ水神の……神の住む世界。
私が見たあの水神は、人間と容姿がほとんど変わらなかった。
けれどその中身はやはり神だった。私の浅はかな計画もすぐに見破られてしまい、
あっという間に武器を取り上げられて押し込められたのは、
あの冷たい水の座敷牢だった。
死を待つばかりだったはずなのに、いったい何が起きたというのか……。
訳が分からずに言葉を失っていると、目の前で声をかけてくれた男が、
やけににこやかに私のことを見つめてくるので、
さすがに無視するわけにもいかず、私はその男に向き合ってみた。
「あの……あなたが私を助けて、くださったんですか?」
どうして、なぜ? という言葉をのみこんだ。
この男も一目で人外のものであると分かったのは、髪と瞳の色のせいだ。
陸ではこんな色を持つ人間など見たことはない。
「ああ、俺様が助けた。あいつからな……頭を下げて身請けしたんだ」
身請け……そうか、では自分は人買いにでも売られたのか。
そういえば、貧しい農村では若い娘が売られてしまう話は聞いたことがある。
私の父はどんなに貧しくても、私のことを守ってくれたけれど……。
元々、この世界では厄介者扱いだったのだから、
そんな扱いを受けても仕方がない。
これから自分の身に起きることを考えると、恐ろしくて仕方がないが、
もう勝負には負けたのだ。生きているだけ良しとしなければ。
婚約者を装い、近づこうとしたあの水神には、
本物の婚約者が居たようだし。最初から勝ち目のない戦いだったのだろう。
「そうだ……あの、桃色の……」
水神の婚約者だという子どもの龍は、
あの水神にとても大事にされていたようだった。
刃を構えて切りかかろうとした私を止めたのも、あの桃色の子どもで、
鳴きながら婚約者だというあの水神の男の前に立ち、
必死でかばっていたようだし。
最後に座敷牢の中から、無理と承知であの子どもに助けを求めた。
この転機は、もしかして自分が今、こうしているのは……。
「ああ、あの嬢ちゃんがおまえさんのことを見つけてくれてな、
おまえさんを助けるきっかけを作ってくれたんだ。
俺様に居場所を教えてくれてな、それで分かったんだ」
「……っ!」
驚く私を前に、目の前の男は頬を指先でかきながら笑う。
「嬢ちゃんには感謝してもしきれねえな。
あの時見つけなきゃ手遅れだっただろう、おかげでおまえさんを助けられた」
あのとき、あの子どもが通りかからなかったら私は死んでいたのか。
慕っている婚約者を殺そうとまでしたのに……そこで私の胸はつきんと痛む。
もしかしてあの者達にも誰かを大事に思う心は、
この私と同じように持ち合わせているんじゃないかと。
……ならばなぜ、私達の家族は、
村の人達のことは許してはくれなかったのだろう?
私達はただ、日々を一生懸命に生きていただけなのに。
弱り切った体をなんとか支えて正座をし、
両手を寝床の上でついて、助けてくれた男に頭を下げた。
「助けていただき、ありがとうございました。
あなた様が私のこれからの主様ということになるんですね?」
売られたとはいえ、ここまで世話をしてくれたのだからと、
私はせめてもの礼を相手に告げる。これから自分はどうなってしまうんだろう。
水神を倒して、家族の魂を開放するはずだったのに、
その機会はきっと永遠に失われた。
「いやな? 実はおまえさんは今日から俺の……水神の嫁になるんだ」
「……は?」
今、何と言った?
「だから嫁だ。名乗るのが遅れたな、俺様の名はミズチ、
水神の一柱、ミズチだ。おまえさんの名も教えてくれるか?」
この男もあの水神だったというのか!?
前に見た近寄りがたい雰囲気の水神とは似ても似つかぬ風貌の、
この体格のいい男が水神? とてもそんな風には見えなかった。
恐ろしさがなく、とても気さくな性格にしか見えないのに。
それも私のことを、嫁にしたいとまで言い出すのか。
(あ、あの水神には、かたくなに拒まれたっていうのに)
いや、もうすでに婚約者がいたせいかもしれないが、
今の私は罪人だ。それを身請けして嫁にしたがるものが居るはずが。
「……」
「……お? どうした?」
……居る。嫁にしたがっているものが、今、私の目の前に。
ぎゅっと膝の上で握りこぶしを作って考える。
これは、好機なのだろうか、今度こそ水神の寝首を掻くことができれば、
今度こそ家族を開放してやれるのではないか。
そうしたら、私を拒んで座敷牢へと入れた水神にだって、報復が……!
あの時の屈辱を思い出し、目の奥が熱くなり、私の両手に力がこもる。
――“キュイ”
「……っ!」
そのとき頭の脳裏に、あの桃色の龍の子どもの鳴き声が聞こえた気がした。
「……あ」
あの子がもし人間なら、もしかすると私の弟くらいの歳かもしれない。
それを思うと、恐ろしいことをしようという気にはどうしてもなれなかった。
言葉は分からなかったけれど、なんとなく言っているのが分かった気がする。
“おにいさんを、いじめないで”って……。
(でき……ない)
水神を殺す気なら、一緒に居たあの子どもも殺さなければいけなくなる。
そんなこと、私にはできそうもなかった。小さな命を喪ってしまった私には。
そうだ……“あの時”確かに私は決意が揺らいだ。
小さな子どもがそこに居るのに、その子の前で命を奪うなんて出来ないと……。
そう思っていたはずなのに、あの時……なぜ私は刃物を抜いたのだろう?
「かな……です。ミズチ様」
震える声で話す。
“かんな”ではなく、“かな”……すでに捨てたあの頃の名前をつむぐ。
水の底に沈められた時に奪われて、思い出すことも出来なかったのに、
なぜか今は、すっと思い出すことが出来たのはなぜだろう?
もう二度と呼ばれることはないだろうと思っていた名前を、
気づけば名乗っていた。
本当の名を与えるのは、自身をゆだねるのと同じこと。
だから絶対に敵には……特に水神にだけは教えてはいけないと、
あの呪術師様に教えてもらったのに。
どうしてそんな気になったのかは分からない。
でも、目の前のミズチとかいう男の目を見ると、
何か抗えないものを感じて、私は自分の本当の名を伝えてしまった。
まるでこの者に名前を呼んでほしいと、そう思ったかのように……。
私が名前を素直に伝えると、目の前のミズチ様は嬉しそうに微笑んだ。
「そうか! かな、良い名だな。よろしくな!」
「……っ!」
名を呼ばれたことで体の奥から何か強い感情が沸き上がる気がして、
目頭がじんわりと熱くなる。そう、私はずっと名前を呼んでほしかったのだと。
そして誰かに笑いかけてほしかったのかもしれないと、そう思った。
それからの私は、新しい世界での生活が始まった。
※ ※ ※ ※
水神の嫁というから、一体どんなことをされるのかと思いきや、
新しい生活は穏やかな時間が流れていた。
屋敷の者たちは皆、突然やって来た私にかしずき、奥方として接してくれる。
その視線は蔑みや汚らしいものを見る目ではなく、とても温かみのあるもので……。
座敷牢の中での生活を経験した私からすると、信じられない日々だった。
数日、床の上での生活が続き、不自由なく体を起こせるようになると、
私を嫁に迎えた彼は私にいつもの笑顔を向けてこう聞いてくる。
「――なあ、かな、何か欲しいものはあるか?」
「あ、あの……」
ミズチ様は私に会うと決まって最初にこう言う。
頬をなで、嬉しそうに笑い話しかけてくるのだ。
「何か食べたいものがあったら遠慮なく言ってくれよ、
おまえは俺様の嫁なんだから、たくさん食べて元気になってくれ。
これからまたたくさん幸せにしてやるからな」
「……また?」
出会ったばかりだというのに、ミズチ……様は、
最初から私にとても好意的だった。聞けばあの水神とは友神同士だという。
あのもう一人の水神や屋敷者たちは冷たくて、
私のことなど腫れ者のように扱っていたから、
こんなものだろうと思って、この手を汚すことに迷いもしなかったのに。
今はその冷めていた気持ちが揺らいでいく気がする。
よそ者で、それも罪人の私だと分かっていても、
ここの屋敷の者たちはずっと私に優しかった。
両足に着けられた足かせは、長い着物で隠してしまえるが、
屋敷に居る者たちは私のことを知っているはずなのに、何も言ってこない。
こんな私と結婚したがっている主人を、誰も止めようとしないのだ。
どうかしている……なぜ止めないのだろう。愚かな真似をしていると。
「奥方様がまた戻ってきてくださって、ようございましたわ」
この屋敷を取り仕切っているという、女房頭の人にそう言われたので、
私は首を傾げた。まただ……一体何を言っているのだろうか?
「……あの、またってどういうことでしょうか?」
「あら、おほほ、なんでもありませんわ。
それは旦那様よりお聞かせいただいた方が……ね?」
「……」
ここで働く従者たちが声をそろえて言うのだ。
“おかえりなさいませ”とか、“またお会いできて嬉しいです”とか。
それでいて、涙ぐんだ様子まで見せられて“申し訳ありませんでした”とまで、
覚えもないことを話されてばかりで、怪しんでも仕方のないことだった。
私にはこの者達と会っていたことがあるのだろうか?
まるで私が知己の間柄のように接してこられるのには、
さすがに困ってしまうではないか。




