ミズチの恋・3~ミズチの過去1~
古くからの付き合いがある、幼馴染で友神の幼い婚約者を見かけた。
桃色をしたその珍しい色目の娘は、遠目からもよく目立つ。
ぽてぽてと小さな体を揺らし、
手には遊び相手の手まりを持って、どこかへ行こうとしていた。
「おいおい、龍青が傍にいないと迷子になっちまうんじゃねえか?」
あの嬢ちゃんは、やたら好奇心が強いお子様だし、
俺の大事な氏子でもあるから、
何かあってはいけないと、気になって追いかけてみた。
そうしたらどうだ? 向かう行き先は座敷牢へと向かっているではないか。
龍青の聖域にある座敷牢は、限られた者しか出入りが許されない。
俺様でさえ、そこに行く事は容易に出来ない場所のはずで。
(なのになんで、ここの入り口が勝手に開いているんだ?)
いつもは他所からの侵入や脱出を阻むため、
固く閉ざされていた場所だ。
ふと前方を見れば。嬢ちゃんの足元にある鈴が銀色に光っているじゃねえか。
驚いた。あんなに小さな子どもなのに龍青の力を使いこなし始めている。
そしてその先で見つけたのは、俺様でも予想もしなかったこと、
長い間、俺様があんなにも探し求めていた存在で……。
(見つけた……見つけられた。やっと……やっとだ)
こんな所に、こんな近くに……居たなんて。
一度夫婦になった娘の魂を、
この俺様が忘れるわけがない。
目が合った瞬間、探し続けていたものだとすぐに分かった。
やっと半身にめぐり会えたのだと、俺の魂が、心が震えている。
嬢ちゃんには、これで返しきれないほどの借りが出来てしまった。
もしもあの時に、知り合いの嬢ちゃんの面倒を見ようと、
後を追いかけて行かなかったら、
俺様はきっと巡り会うことも出来なかったのだから。
※ ※ ※ ※
「――……おーい、戻ったぞ~誰か居ないか?」
俺の住んでいる領域は、大きな川の底にある。
かつて、龍青の親父さんたち水神を祀っていたという、
古い祠があった川だ。
ここに神通力を使って、俺様達が暮らせる領域を作っていた。
自分の屋敷に戻ると、出入り口の妻戸から声をかける。
すると慌てたように従者たちは部屋から出てきて、
そろって帰ってきた俺様達を出迎えた。
「旦那様! おかえりなさ……その女人は……?」
「ああ悪い、先に足を洗っていいか?」
「は、はい! すぐにご用意いたします」
水の入った桶を下男が持ってきたので、娘を抱えたまま床に腰を掛け、
下駄を脱ぎ足に付いた泥を洗ってもらい、布で拭われて中に入る。
久しぶりの帰宅だ。
「留守中、屋敷を守ってくれてありがとうな」
「だ、旦那様、突然のお帰りで……あの、その女人は一体」
年配の女房の一人が従者の間を割って俺を出迎える。
深みある藍色の髪と瞳をしたふくよかなその女房は、ナマズの化身、
長い事、俺の一族に代々仕えてくれている眷属の末裔で、女房頭を任せている。
今まで嫁探しのために、留守がちにしていたこの屋敷を、
一手に仕切ってもらっていた……俺にとっては乳母に近い存在だ。
「おう、今帰ったぞ。悪いが湯を沢山沸かしてくれるか?
それと女物の着物が必要なんだ。嫁の物を用意してやってくれ」
「……は、で、ですがあれは、大切な奥君の形見の品では」
「かまわん。あれは元々この娘の物だったからな」
「え?」
「喜べ、嫁の帰宅だ。俺様の執念の勝利だぞ」
俺様は急いで嫁の部屋だった北の対へと向かう。
部屋の主だった嫁が息を引き取ってからも、
女房達が丁寧に部屋を掃除していてくれたおかげで、
あの頃と、そう変りない状態で使うことが出来そうだった。
部屋にどかどかと音を響かせて足を踏み入れると、
畳と木の香りに交じって、
春を感じさせる華やかな梅花の香の匂いがした。
生前の嫁がよく好んで使っていた香の一つだ。
この部屋の主が亡き後も、供養のためにか焚いてくれていたらしい。
(この部屋は死んじまってからは、立ち入らなかったからな)
いや、入ることが出来なかった方が正しいか。
居なくなってしまった現実を、その喪失感を思い出してしまうから。
亡くなる前に交わした約束があったから、思い出に浸っている暇もなくて。
俺様は妻の転生した者を、あの日からずっと探し始めていたから。
だけど、その旅もこれでようやく終わる。
「……う」
眠りながらうめき声をあげる娘を、用意してある寝床へと横たわらせると、
手のひらで娘の頬をそっとなでる。
「可哀そうにな……体が冷え切っちまっている上に汚れているし。
まずは沐浴させて体を清めてやらねえと、あとは薬師を呼んで……」
娘は運んで来る途中で意識を失い、体はずっと小刻みに震えていた。
若い娘にしては体も軽すぎるし、罪人として囚われていたから、
きっと今までろくな物も食べさせてもらっていなかったのだろう。
まあ、大事な婚約者と自分の命を狙うような女に、
そこまでの温情はかけられないか。
けどまずいな……はやく暖めてやらないと手遅れになるかもしれない。
「悪いが、もっと着物を集めて来てくれ、あと火鉢も」
「あ、あの旦那様、その娘は相当に薄汚れておりますし、
後のことは私どもに任せて、旦那様は一度お召し替えを……」
「あ? 俺様の女がこんな状態なのに放っておけるかよ」
「旦那様」
「湯が沸いたら呼んでくれ、俺様が直ぐに湯殿に運ぶ。
着替えの着物をそっちまで用意してくれるか」
ようやく見つけられたんだ。今度こそ絶対に助ける。
顔にかかった長い黒髪をはらってやり、その寝顔を見つめる。
やせこけた頬は血色も悪く、血が通っていないのかと疑うほどに白い。
そのせいで最後を看取ったあの日を思い出してしまい、
膝の上に乗せた拳をぎゅっと握りしめた。
「悪いな……あの時も今も、役立たずの夫でよ」
眠っている娘は応えない。それでも俺様は娘に話しかける。
「こんなになるまで、見つけてやれなくてよ……」
それでも、また俺様が生きている間に生まれてくるとは限らなかったし、
また娘として生まれるとも限らなかった事を思えば、
この出会いは幸運だったのだと、俺様は密かに感じていた。
※ ※ ※ ※
――人の世でいうなら、俺様達の出会いは千年以上も前のことだ。
俺様の友神が先代の水神であり、実の父を討伐したという知らせを、
他の水神仲間から聞いたばかりの頃だった。
そんな中、まだ水神としても経験の浅かった俺様の元に、
わずかな供物と共に、一人の人間の娘が生贄として捧げられてきた。
死の穢れは、障りになると嫌う神も多いという事で、
こういう場合、離れに連れて行かせて、下の者に見分を任せるのだが、
まだ幸いにも娘は息をしており、意識もあったので俺様自らが見ることにした。
娘は大きな岩に縄で縛られ、口元を塞がれてやって来たという。
死に装束とでも言うかのような、真っ白な着物を着た花嫁姿の娘だった。
どこかの誰かが勝手に決めた。水神の力にすがるための忌まわしい儀式のために、
その娘は未来を奪われたらしい。
(まさか、俺様の所にまでそんなのが来るとはな)
屋敷の者達の手厚い介抱の後、娘はようやく目をさますと、
自らの素性を名乗り、深く頭を下げた。
「た、助けていただきありがとうございました。
ここより東方の水源近くの農村に暮らしております。
私の名は、なずなと申します。水神様。」
細い体と血色の悪さを隠すように、わざと厚塗りされた化粧の下で、
娘は震えながら、必死に俺へ向かって言葉を話していた。
「おう、で? 何でここへ……って聞くまでもねえかな。
おまえさん、生贄として俺様の所へ来たんだろ?」
娘は俺様を前にして、かたかたと震えていた。
無理もない、人間にとって水神は敬われるのと同時に怖れられる。
水神は若い娘や子どもを呪力高める血肉として好む者も居るから、
俺が生贄として、頭からばりばり食らうとでも思ったのだろう。
(既に過ちを犯して、人間にまで厄災を巻き散らかした水神も居るし)
あの件で、水神に対する印象が余計に悪くなってしまっていた。
「あ、あの」
「ああ、別に俺様はおまえさんを食うような趣味はねえから、安心しろや」
聞けば娘の育った郷はとても貧しく、一人養うのも大変だったそうで。
食い扶持を減らすため、そして豊作を望む村人達が考えたのは、
水神の花嫁として、郷の中から若い娘を誰か一人を生贄として差出して、
その代わりに、水神の恩恵をもらおうと願うというものだった。
「本当は私の幼い妹が選ばれていたのですが、
たった一人の妹にそんな真似をさせる訳にはいかなくて、
私が長に頼みこんで代わっていただきました。主様には不服かもしれませんが、
どうぞ、この私で手を打っていただけないものでしょうか?」
(なんだよ……あいつの親父と同じ状況じゃねえか)
俺の幼馴染でもあり、水神仲間にもなった龍青。
その親父は水神の嫁として生贄を差し出された結果、狂ってしまった。
真面目だったあいつの親父さんは、嫁へ対する龍の深い情を、
白龍の一族によっていいように利用された結果、最後には裏切られ、
自我を失い、禍つ神となって、
それまで大事にしてきた居場所も名声も自ら壊した。
お陰で、龍青はその父の血を引くものとして、相当な苦労を強いられた。
『あのような者の息子を次代の水神にして良いのかのう?』
『また同じような過ちを起こすのでは』
『力が弱いうちに、息子も粛清するべきではないか?』
『いくら龍が番の嫁を大事にすると言っても、所詮は獣、
自我まで失っては救いようもない』
……他の水神仲間には最初、さんざんな言われようだった。
龍青は子どもの頃から狂った親父をいつか倒す為にと、
故郷の湖を離れて、生き残った眷属たちに匿われて育ち、
その後、代を引き継ぐ神となるために方々を渡り歩いては、
姿も名も変え、無垢で純粋な魂を持つ者の願いを水鏡に通して叶え続け、
徳を積んで神としての気を高め、水神となるべく修行した。
そしてその働きぶりから千年と少し、
ようやく他の神々からも後継者と認められ、親父を倒したんだ。
(そいつの友神でもある俺様が、
あの親父さんのようになるわけにはいかなねえよ)
俺様の両親はまだ健在だが、今は隠居の身だ。
それにまだ番となる嫁も後継となる者もいない。
もしも俺様が先代龍青のようになれば、知己の間という事で、
またあいつの手を汚させてしまうことになるだろう。
(あいつは優しい奴だからな……非情にはなりきれない。
親父さんの時も泣いていた位だからな)
そんな迷惑をかけたくはなくて、
だから俺様は目の前の娘に一つの提案をした。
「……なあ、おまえさんがもし陸に想う野郎が居るのなら、
怒らねえから今のうちに遠慮なく言ってみろ。
そいつと添い遂げられるよう、俺様が何とか取り計らってやるからよ」
水神の俺様から見ても、この娘は別嬪な方だと思う。
きっとこの娘に惚れていた男の一人や二人は居ただろうし、
この娘だって、人並みの幸せを望んで生きてきたはずだ。
仲を引き裂くような野暮な真似はできなかった。
例え今すぐにでも嫁が欲しいという、半人前の水神であったとしても。
「え? あ、あの」
「遠慮しなくていい、これも縁だ。既に関わっちまった仲だしな。
好いた男が居るのなら俺様が協力してやるよ。
故郷に戻りにくいって言うんなら、懇意にしている者が暮らしている所に、
その男と一緒に逃がしてやるからよ」
それは俺様にとっては、最大限の提案だった。
添い遂げたい男が居るのに嫌々嫁がれても、
うまくいかないという事を、俺様はもう知っている。
陸には人の姿で暮らしている眷属が居るから、
その者達に後の世話を頼むことだってしてやれるからと。
友神の親父さんの末路を知っていて、
二の舞を演じる訳にはいかなかった。
「……」
「ん? どうした?」
「いえ……私には添い遂げたい方も、想い人も居ません。
私の両親は幼い頃に亡くなってしまいまして……。
それからは村長の家に引き取られ、下働きとして暮らしていました。
誰かと恋をするのも知らずに、そんな余裕も、生きるのに精いっぱいで」
「……そうか」
陸に戻しても、身寄りも居ないという事か。
「私は今年の飢饉で、口減らしと来年の豊作を願い、
村の為に沈められてきました。水神様、どうか切にお願いします。
私の血肉はやせていて美味しくないとは思いますが、
なにとぞ、なにとぞ私の供物を持って、
世話になった村への加護をいただけませんか!?」
村の為に見殺しにされたというのに、娘は村人達の行く末を案じていた。
それは残してきた幼い妹の身を案じてのこともあるのだろう。
自分の犠牲で解決しなければ、次に狙われるのは幼い妹だから。
娘はこう言ってはいるが、
この娘を見捨てた村人達に、はたして救う価値はあるのだろうか。
弱い立場の娘を捕まえて、こんなことをさせるような者達に。
(その妹さんのことはともかく)
このまま無事に村へ帰しても、元通りに暮らせる娘は少ないと聞く。
命が惜しくなったと石を投げられ、再び水の底へと沈められるか、
村人の怒りに触れて殴り殺されるのがおちだ。
そう、娘がきっと息絶えるまで、それは繰り返されるだろう。
普通の水神なら、それでも「いらない」と思えば追い返すのがオチだが……。
(こんな世間も知らないような娘に、そんな重圧を背負わせんでもなあ……)
知り合った以上、見殺しにしてしまっては夢見も悪い。
俺様は盛大な溜息を吐いて、
保護という名目で娘を嫁御としてもらうことにした。
くれると言うのならばもらおうか。ちょうど嫁は欲しかった所だからな。
「分かった。じゃあ今日からおまえさんは俺様の嫁として預かろう。
俺様がしてやれることは少ないと思うが、まあ余り期待するなよ?」
「え? は、はい。よろしくお願いします。水神様」
「ミズチだ」
「え……?」
「俺様の名前はミズチだ。字は……まあ後で教えるからよ。
俺様の嫁になるのに、水神様って呼ばせるわけにもいかんだろ。
水神なんて世の中たくさんいるからな。それじゃ区別がつかん」
人間に自分の名を与えるのは危険な行為だが、嫁となるなら話は別だ。
名を預けると共に、命を預ける。
「俺様は懐に入れると決めた者を、信用することにしているからな」
「……っ、あ、あの」
「さて、とりあえずは飯だな。何か食いてえものでもあるか?
おまえさんは余りにも体が細すぎる」
見た目で思うに、陸ではたいしたものを食わせてもらえなかったんだろう。
これからは、たらふく食わせてやらなくては。
あとは着物だ。若い娘が好みそうな着物をたくさん用意しよう。
花嫁衣装として着せられていた最低限の着物は、
人間の娘がこの川の底で暮らしていくには薄着すぎる。
一度指を鳴らして、娘の周りに纏わりついていた冷気を払うと、
俺様が着ていた着物をいくつか脱いで、娘の体に掛けてやった。
「娘は体を冷やすといけないと、前にお袋も言っていたからな。
女物じゃないが無いよりましだろ」
「あ……」
「ここは人間の娘には暮らしにくいだろうから、
あとで蔵から火鉢も持ってこさせる。それまで辛抱してくれるか」
俺様の掛けてやった着物に手を添え、娘は……戸惑った顔をした後、
はにかむような笑顔を俺様に向けてくれた。
「あ……ありがとう……ございます。ミズチ……様」
ぽろりと娘の頬を涙が伝った。
その瞳を見て、娘の身に何があったのか、つい過去をのぞき見てしまい気づく。
ああ、この娘は両親亡きあと、家族の……親の温もりに飢えていたんだと。
下働きとして必死に働いて拾ってもらった恩返しをしても、
長の家では家族とはなれなかった。長たちが囲炉裏であたたかな鍋を囲む中、
親を失くした姉妹は、震えながら肩を寄せ合い、
別の部屋の隅で冷えた粥を食べていたようだ。
その頃の娘の瞳には光が宿っていなかった。
あくまで居候、あくまで下働きとして肩身の狭い生活だったのだと。
『今まで世話になった恩を返してくれ』
そう、世話になった村長に言われて、この娘は逆らえなかった。
どんな扱いであろうと、食べ物を分けてもらって生きてきたから、
きっとこの時のために生かされていたのだろうと、そこで気づいても。
その時、『せめて妹の代わりに』と願う事しか娘には出来なかったのだと。
「わ、私、こんなに優しくされたのは……両親と妹以外に居なかったので」
俺様の前でうつむいた娘の頬には涙が伝っていた。
「いいってことよ。これからここがおまえさんの家だ。
自分の家になったんだから、好きに使ってくれてかまわねえからな。
俺様は若い娘の扱いには慣れていねえが、気に障る事があればすぐに言え、
出来る限りのことはするから、嫁になる以上は全力で守ってやる」
「は、はい……ありがとうございます」
その時、やっと娘は少しだけ微笑みを浮かべてくれた。
初めて娘が笑った顔は、とてもきれいだとその時思った。




