ある日の龍青・後編
あれから俺は、息もたえだえに身もだえしながら、
姫が満足いくまで俺のしっぽを触らせることを許し、
ごきげんを直した頃合いを見て、姫を連れて自分の神域になる屋敷へ戻ると、
桃姫は手まりを持ちながら、お腹をぐう……と鳴らした。
「……キュ」
手まりを床に置き、お腹に両手を当ててこちらを見上げる姫の姿。
「そんな目で見なくても用意してあるから、まずは手を洗ってからにしようね?」
「キュイ!」
元気よく返事をした桃姫は、両手を前に伸ばして、
手を洗いに廊下をとてとてと歩きだした。
まだ姫の郷の食料の確保は、安定しているとは言えない。
郷で田畑を作り、作物を作る所まで行っているが収穫はもう少し先になる。
龍の子どもが姫以外に居ないのは、子どもを養えるほどの蓄えが無いからで、
それが解決すれば、いずれあの郷はたくさんの子ども達の笑い声が聞こえる、
にぎやかな場となるだろう。ただ、それにはまだ時間がかかる。
『お友だちがほしいな』
前に手まりを持ってキュイっと鳴いて言っていた桃姫を思い出す。
周りに居るのが俺を含めて成体の龍ばかりなので、
きっと年の近い子どもが居なくて寂しいのだろう。
それは、この俺では叶えてやれない事なのだ。
……手まりは、姫の傍に居るがしゃべれないし。
(やはり姫の両親には、恥をしのんで次の子を頼むべきだろうか……)
別にそれは、俺がいつでも姫をさらえるようにという理由ではない。
将来、桃姫が俺の嫁となるのなら、
今のままでは、あの郷で後を継ぐ者が誰もいなくなってしまう。
食料の確保が充分に行き渡り、郷が今よりもっと豊かになれば、
あの場所に暮らす龍達が安心して子を望めるとは思うが、
まだ不安があるのか、今のところは子を設けようと思う者は居ないようだ。
(龍の子を持つということは、危険と隣り合わせだからな無理もないか)
姫が人間に狙われたこともあり、かなり慎重になっているのだろう。
俺もかまってあげられないときもあるから、桃姫が寂しがらないように、
遊び相手になる弟か妹を産んでやってほしいとは思うが、
さすがに……そんな失礼とも思えることを、この俺が言えるわけもなく。
それにあの両親も、桃姫がいつもこんな調子なので、
二匹も居たら大変なのではないかと考えているようだ。
気持ちは分からないでもない。確かに姫はお転婆だから一匹でも大変だ。
俺には兄弟が居ないから、実際にどんな風になるかは分からないが、
なんとか願いをかなえてやれないものかと考えている。
(そしていつか、俺が姫を嫁にもらっても寂しくはならないように……)
「キュイ?」
思考にふけって近くの柱の傍でぼうっとしていた間に、
姫は女房と一緒に手を洗ってきたようだ。
俺が渡した手拭きの布を鼻先にうずめながら、しっぽを振っている。
「ああ、すまないね姫、さあおいで?」
「キュ!」
いつものように自室へ戻ると、既に姫用の小さめの膳が整えられていた。
緋色の椀には、姫の好きなカニ雑炊が盛り付けてあり、
ほこほこと美味しそうな匂いが湯気となって上がっている。
膝の上に乗せて、一口ずつ冷ましながら桃姫の小さな口元に運ぶと、
桃姫はしっぽを振りながら夢中で食べていた。
「キュ、キュイ」
「ほら、あわてないでゆっくりお食べ?」
こんなに喜んで食べてくれるのだから、女房達が張り切るのも分かる。
部屋の隅では、にこにこと食べる様子を見守る女房達が居た。
そして俺も、姫が幸せな顔で食べてくれるこの顔が、とても好きだった。
「キュ」
「もういいのかい?」
やがてお腹いっぱい食べると、けぷっと息を吐き満足げに喉を鳴らした。
美味しかったと口元をぺろりと舐める姫に、俺が布で仕上げにと拭ってやれば、
「さあ食べ終わったら、次はお昼寝だ」と、桃姫は俺の方へ両手を伸ばす。
これもいつものことだ。
「はいはい、寝床に連れて行ってあげようね?」
姫の寝床は、以前保護した時に用意した北の対の部屋にある。
つまりは俺の正妻だけが使うことが許される部屋だ。
いずれ嫁にするんだから、別に使わせてもいいだろうと安易に決めたのだが、
執務室の北側に配置してあるので、ここよりは離れていた。
いつも姫は俺の傍にべったりなので、
現在は姫の荷物置き場か、かくれんぼに使うか、
お昼寝に使うぐらいにしか使われることがない場所だったりする。
「キュ」
俺がその部屋に姫を連れて行こうとしたが、
姫は「ちがうよ」と抗議してきたので、立ち上がろうとしたのを止める。
「ん?」
「キュイキュイ」
寝るのはここと言って、姫は俺の着物をつかむと膝からよじ登って来て、
前の合わせを左右に豪快に開き、懐の中に頭から潜り込んできたではないか。
そのまま足をじたばたさせて、くるんと頭の上から着物の中へ……。
「は?」
突然のことで呆けていた俺だが、あわてて中に居る姫に話しかける。
「ひ、姫? まさかまたここで寝るつもりか!?」
俺の、着物の中で?
「キュイ」
そうだよ。おやすみなさいと姫は小さな手を振っている。
既に手遅れのようだ。あっという間に姫が寝やすいように空間を開けられ、
姫は丸くなって寝る体制へと入っている。ここで眠る事は決定事項なのか。
せっかく身ぎれいに着飾っていたのに、一気にはだけた状態で放置された。
「ちょ、ま、待て姫! 本気で俺の懐の中に住み着く気なのか?」
「キュ」
俺が焦ってそう言うと、そうだよとまたキュイっと返事が返ってきた。
この場所が、姫の卵の中や母君のお腹の上みたいで落ち着くそうだ。
……ちなみに、父君の方はいびきがするので、姫の考えの中にはないらしい。
自分の小さなしっぽを抱きかかえると、桃姫は丸くなってまぶたを閉じた。
「……姫は、いつも俺を驚かしてくれるな」
成体の雄の着物の中に、無防備に潜り込んでくる雌が居るなんて思わなかった。
いや、実際にそんな娘がここにいるわけなのだが。
もしかしてまだ子どもだから、仲間の温もりが恋しいのだろうか?
これは教育上よくない気がするので止めたいのだが、
姫がこんなにも甘えてくるのを突き放して良いものか……。
「キュ……キュ~……」
(そ、そんな! 甘えた声を出して!)
また、さっきのように泣かれて、もしもそれで姫にフラれでもしたら、
俺は膝を抱えて、5千年ほど洞穴の中で引きこもる自信がある。
(成体の雄にこんなに無防備だと、線引きをすることも出来ないじゃないか)
俺は天井を向いて、うーとか、あーと言ってうなっている姿は、
姫の傍付きの女房によって、ばっちりと目撃されてしまっているし。
「……本当に、姫様は大胆な事をなさいますわね」
「よっぽど公方様の傍が心地よいのですわ」
「こんなに幼いうちからすごく好かれていらっしゃるようで、
安心いたします。これで嫁問題も解決、安泰ですわね」
……誰も止めようとしないのか! 俺もそうだが!
「ひ、姫?」
「キュ、キュ、キュ~」
実は、姫がこういうことをするのは、今日が初めてのことではない。
前に俺の寝床を占領して巣作りをしていた姫に、
巣を作る必要はないと言ったせいだろう。
『じゃあ龍青様を寝床にして、ここに住むね』
だめだと言ったら、今度は俺の所に寝床を作ると、
キュイキュイと言いだしたので何だと思ったら、
先日から俺の懐の中で寝始めるようになったのだ。
お気に入りの匂いがして、近くで俺の声が聞こえてあたたかい場所、
そして何より安全で安心して眠れる場所が一番だと、
それはここを置いて他にないと桃姫に断言されて、
現在、住み着くための予行練習として実行されているようなのだ。
(桃姫を保護してあげたことで、俺の傍が安全だと本能で覚えたか)
両親や仲間と体を寄せて眠っていただけに、
一匹だけで眠るという習慣が姫にないせいだろう。
姫はまだ保護者の温もりが必要な甘えん坊なのだ。
そこまで信頼してくれるとなれば、あまり強くも言いたくはないし……。
「キュ~」
「……さて、どうしたものか。これでは仕事が手につかないな」
着物の上から姫の頭をなでる。
(このまま、甘やかしてやりたい気もするが)
そろそろこの姫に大事なことを教えてやらなくては。
姫はどうやら本気で俺の懐に住み着く気でいるようだが、
肝心なことを忘れている。この夢はいつまでも続かないのだと。
「言っておくが、姫が大きくなったら……こういう事はもう出来ないからな?」
「……キュ?」
なんで? そう姫は目をぱちっと開けると俺の方を見て聞き返した。
そう、姫はまだ子どもで体が小さいからこんなことが出来るんだ。
大きくなったら人型であっても、俺の懐の中にはもぐりこめないだろう。
このまま姫が龍体のまま過ごす気なら、俺の方が潰されてしまうし。
桃姫は大きくなったら、俺の懐の中で暮らすつもりらしいので、
今のうちにきちんと言っておかないと、後で余計に落ち込んでしまうからな。
「キュ……!」
子どものうちだけだと分かると、姫は眠気も吹っ飛んだのか、
目を見開いたまま起き上がり、よじ登って顔だけを出した。
着物にしがみつき固まっている姫は俺の顔をじっと見るが、
できないんだよ……と俺がまた言うと、悲しい顔をされる。
姫の中ではとってもいい考えだったらしい。
「キュイ、キュイイイ、キュイイ」
「なんで、そんな、せっかくいい考えだったのに!
龍青様の匂いを近くで嗅ぎながら寝られるのに、今だけなの」と言うので、
「そうだよ今だけだからね」と言うと、姫はすんと鼻を鳴らした。
姫は俺の匂いがとても気に入っているらしい。
自分の命を守ってくれた安心感があるせいなのだろうか?
それで俺の着物ばかりを狙って持って行かれるのには困ったものだが、
この娘に好かれて悪い気はしないので、ついつい甘やかしてしまう。
「姫が俺の膝の上で寝っころがれるのも今だけなんだよ。
今日は許してあげるから、良い子で寝ていなさい」
「キュイ……」
大きくなるのは、よい事だけじゃないんだねと桃姫がキュイキュイと鳴く。
俺としても、こうして幼いころの姫を可愛がれるのは今しかないから、
残念な気持ちも分かるが……大きくなるのを嫌がられるのは困るな。
「成体になったら、俺の嫁になってくれるんだろう?」
そう聞いたら、桃姫はこくりとうなずいてくれた。
そして「約束だもんね」と桃姫は笑う。
「キュ、キュイキュイ」
そういえば今日はまだ言っていなかったねと、
俺の体をさらに上によじ登って来て、右肩の上に乗ってきた姫は、
「あのね?」とナイショ話をする時みたいに話し掛けてきた。
「うん? なんだい?」
「キュ、キュイ」
“龍青様、すき”
「……っ!」
その言の葉は、未熟なこの俺を力づけてくれる心地よいもので……。
俺は一気に頬が熱くなっていくのを感じた。
「キュイ?」
「……ああ、俺もその、好いている……よ?」
龍族の姫にしかわからない獣の言葉で、姫にそうささやいてやると、
姫は満足げに目を細め、俺に頬ずりをしてくると、
「じゃあ、おやすみなさい」とキュイっと鳴いて、
俺の頬に手を添えて、うちゅーっと口づけをしてまた潜り込む。
「ひ、姫! 本当に一体どこでそんなのを覚え……またご両親か!」
俺が叫んでいる中、姫からはスピっと寝息が聞こえてきた。
幸せの余韻にひたるこの俺はそっちのけか!
……そう思いつつ、悪い気なんてするわけがない。
最近はこのやり取りが当たり前のように続いていた。
「しかたないな……おやすみ姫」
目を閉じた姫は、とても寝つきがよくてそのままスピスピと寝息を立て始め、
俺はそんな姫を見守りながら、姫の頭を着物の上からまたそっとなでた。
幼いうちからこれでは、大きくなってからはどうなってしまうのか。
俺の心臓が持たなくなる気がする。
「公方様、耳までお顔が真っ赤ですわ」
「ふふ、今日も姫様に告白されたのですね」
「なんて微笑ましい、おほほ」
「う、うるさい。ほ、ほらおまえ達はもう下がれ」
だが、女房達には俺の顔を見てばれている。
こんなこと、言われ慣れていないのだからしかたないではないか。
他の娘に見せかけの愛情は示されていたが、どれも他に目的があるまがい物、
あの者達が見ているのは、俺の持つ力や財産などの恩恵だけだったからな。
姫のように全身で好意を示してくれるのは、初めてなんだ。
「こんなことをされていたら……もう手放せなくなってしまうよ姫」
恋の駆け引きなど、まだ分からない俺の小さな婚約者は、
いつも直球の愛情表現をするものだから、
俺はいつも翻弄されてしまう。
幼子の言葉を真に受けて、姫を縛り付けては……と思うものの、
将来の約束をどうにか叶えたいとも思ってしまう。
(こんな無邪気な姫の姿が見られるのも、今だけかもしれない)
寂しいような、成長した姿を早く見たいような、
通り過ぎていくこの日々を愛おしく感じながら、桃姫の頭をなでる。
「願わくば、このまま姫の成長するのを待って、
俺のことを好きなままでいて欲しいとそう思っていたら、
姫をいつか困らせてしまうだろうか?」
大きくなった姫のために、たくさんの選択肢を残してやりたい。
それでも、俺の傍に居てくれる事を望んで欲しいと思ってしまう。
この娘と居ると、毎日がとてもにぎやかで、優しい気持ちにもなり、
とても満たされたものに変わっていくのを感じるから。
「キュ~」
「姫?」
すると姫はスピッと寝息を立てながら、「約束だよ……」とキュイっと鳴いた。
呼びかけても寝息が聞こえるだけなので、今のは寝言のようだが……。
「ふふ……っ、ああ、そうだね。待っているからね姫」
そう言ってやると、姫はふにゃっと笑って幸せそうな顔をしている。
どうやら今の姫は、まだ俺の嫁になってくれる気のようだ。
「困らないように逃げ道を用意してやろうと思っているのに、
姫はことごとくそれを壊していくよな」
こんな姫だから俺は救われているのだろう。
孤独を感じることは最近はなくなっているから。
小さな婚約者は俺の懐で夢の中、俺もそのままごろんと横に寝転がる。
眷属に、管理する水域の民、そして姫とその郷に住む者達も。
姫と出会い、守るものが増えているから、やらなければいけない事が多いのだが……。
(そうだな。たまにはこういうのも……)
柔らかな日差しが湖の底まで届き、庭を明るく照らしていて、
懐の大事な宝物を抱きしめて、俺はゆっくりと眠りにつく。
予定は狂いまくりだが、こんな日々も悪くないと思いながら……。
しっぽをくるんと丸めて、夢の中の姫を迎えに行くことにした俺だった。




