ある日の龍青・前編
幼い婚約者、桃姫の成長を傍で見守るための逢瀬の日が続いている。
水神として恐れられることも多いこの俺を、
純粋に慕ってくれる娘の傍に居られるのは嬉しくて、
俺の不安定だった力は少しずつ安定していき、
未熟で欠けている心を満たしてくれた。
姫と共に居ると、家族という温もりと愛おしさを知ることが出来たから。
(……ああ、ようやく完全な人型を模すことが出来たか)
充実した日々を過ごしていたある日の朝、人型のまま寝床から起き上がると、
ふと、いつもとは違う感覚に気づき、自分の身に起きた異変に気付いた。
「尾が……隠せている?」
それは今まで未熟な力ゆえに出来なかった。完全な人の姿。
これまでは力が安定していないせいで、
着物の裾から自分の尾をきちんと隠せずにいた。
人の姿をきちんと取れなければ、人間との交渉にも出られないため、
代理を立てて、あまり人目につかぬようにと気を使っていたものだが、
無垢な娘に一心に慕われているおかげで、
俺は少しずつ水神としての力を付けられているようだ。
「桃姫の……おかげだな」
まだ完全とは言えないが、これでより姫のことを守ってやれる。
力に固執する事はなかったが、せめて自分を命がけで守ってくれた家臣達と、
そして大事な桃姫を守っていけるだけの力が欲しいとは思っていた。
だからこうして少しずつ力が安定してきているのは喜ばしい事だろう。
俺のことはともかく、大事な者達を守れるのだから。
――が、しかし。俺が完全な人型ができるようになった事で問題が起きるとは、
その時の俺は考えもしなかった。
※ ※ ※ ※
「キュ」
「おはよう姫、今日も元気そうで何よりだ。迎えに来たよ」
いつもの滝の前でちりんと鈴が鳴れば、桃姫のお出迎えの合図。
気づけば姫を親元から預かり、傍で面倒を見るのが日課となっていた。
俺は子どもが好きだったので、姫の成長を見守れるのは嬉しい。
一度保護してからは、小さな桃姫が喜びそうなことを考えては姫と接していた。
(姫が笑っていてくれると、俺は水神として役に立っているとも思えるからな)
こんな未熟な俺でも、守れるものがあるのだと姫は教えてくれる。
水面から岩肌に上がると、滝の前で待っていた姫とその母親、
郷で暮らす一組の夫婦が、姫の付き添いの為に一緒に来ていた。
以前、姫だけで滝まで行くのを独身の雄に狙われたことがあるせいだ。
「キュイ!」
「ふふ、今日も元気そうだね」
手まりを持ってあいさつをする姫に、おいでと言って両手を伸ばした。
だが、桃姫は俺の差し出した両手に応え、手を伸ばそうとするも、
何かが気になるのか、それを止めて俺の周りをぐるぐると回り出し、
俺の足元の着物の裾をぺろんとめくると、俺の顔を見上げてきた。
「……キュ?」
「こ、こら、俺の着物をめくってはだめだと言っているだろう、姫!?」
俺があわてて止めようとすると。
「ぬ、主様になんてことしているの桃!」
姫の母君が慌てて娘の桃姫を止めようと、こちらへ近づいてくる。
「そ、そそそうだぞ嬢ちゃん!!」
「お嬢ちゃん、おやめなさいな!」
護衛の為に来た郷の夫婦がそう言ってあわてていた。
「キュ?」
慌てて俺への無礼を働く姫を止めようと、保護者達は背後でわめいている。
だが、姫はそれどころじゃないようで、俺の顔を見て驚いた顔をしていた。
「キュイ、キュ、キュイ」
龍青様、しっぽ、しっぽがない。
両手を上下にぱたぱたと振ってそう話す姫、
ああそうか、俺の体から尾が無くなっている事に気づいたのか。
俺は少し得意げになって微笑む。
「うん、そうだよ無くなっているだろう」とうなずいた。すごいだろう姫。
桃姫のおかげで、尾を隠せるほど力が強くなってきたんだと教えてあげた。
この調子なら俺は、一人前の水神になれるかもしれないねと。
すると……。
「キュ……キュ――ッ!!」
「しっぽが無い、龍青様のしっぽ、しっぽ」と、
俺の着物の裾をつかんだまま、
桃姫にキュイキュイと大号泣されたではないか。
そして後ろにひっくりかえって、じたばたと手足を振って泣いている。
「キュ、キュイ、キュイイイ――!!」
ない、ないの、ないのおお――!! とか、しきりに言っている。
その暴れっぷりは、ご機嫌が特に悪い時にする、だだっ子のあれだ。
子どもの感情の起伏は激しく、一度泣き出したら泣き止むのが難しい。
突然のことだったから、俺はその対処に遅れてしまった。
こんな時に限って、好物の桃を持ち合わせていない。
さっきまであんなに嬉しそうに笑っていた姫が、ここまで泣くなんて。
「ひ、姫? いったいどうした?」
「キュ、キュイ! キュイイ!!」
姫は首を何度も降り、泣きながら「しっぽ、しっぽ!」と泣いている。
「し、しっぽ?」
自分の背後を見下ろす。
もしかして、俺のしっぽがないことをこんなに悲しむのか?
どうやら俺が、完全な人型になってしまったことが嫌らしい。
(そういえば桃姫は、俺のしっぽをやけに気に入っていたものな……)
さて、どうしたものか。可愛い婚約者に泣かれては俺も辛い。
抱き上げてなだめようとすれば、姫は両手を俺の方へ突出し、
思いっきり後ろにのけぞって、腕から逃げ出そうとして暴れ出す。
「ど、どうしたんだ桃姫、俺のしっぽが無いのがそんなに嫌なのか?」
いつも無邪気にじゃれているものな……俺のしっぽに。
俺がどんなに呼びかけても桃姫は泣き止んでくれない。
「キュイ! キュイイ!! キュイキュイ!!」
桃姫いわく、「龍青様が人間になっちゃう!!」
と言ってキュイキュイと泣いている。
どうやら俺のしっぽがあるかないかで、人間か龍かの違いを理解していたらしい。
それを隠してしまえば、姫にとって俺は人間と変わりないのだろう。
俺の腕から飛び降りた桃姫は、そのまま両手を伸ばして、
近くで娘を止めようとした母の元に、すたたーと駆け戻り、
飛びつくように抱き着いて、キュイキュイと泣いていた。
「ひ、姫……?」
に、逃げられた。この俺が姫に……婚約者に逃げられただと?
俺はそれだけで「姫に嫌われた!?」と石化しそうになった。
ま、まさかこれだけで姫との恋愛期間終了となってしまったのだろうか?
「あらあら……どうしたの? あんなに懐いていた主様なのに」
「キュイイ!!」
なだめるように、桃姫の母が白龍の姿で頭をなでる。
桃姫は「しっぽがないと龍青様じゃないよう」と泣いていた。
そんなにか……お、俺の認識は、顔よりもしっぽが先なのか、姫。
俺の龍青としての存在価値は、まず、龍のしっぽがないとだめらしい。
思わず俺は自分の背後を振り返った。
「ふむ……」
(そうか、まだ人間の顔のつくりの区別が、
今の幼い姫にはよく分からないのかもしれない。
幼子は匂いやうろこの色で個体をまず覚えるからな……)
姫の視覚はまだ未熟なんだと気づくと、
俺は試しにしっぽを出してみた。それを目の前で振ってみる。
すると……。
「ほら、姫? しっぽだぞ?」
「キュ?」
姫は振り返り、俺にしっぽがあるのを見つけると、
目をキラキラと輝かせ、嬉しそうに姫も自分のしっぽを振り始めた。
ぶん……ぶんぶん!
ぶんぶんぶん!
「キュイ!」
「龍青様だ」と両手を伸ばして近づいてくる姫。
それを見て、今度は目の前でさっとしっぽを隠して見せた。
もしかしたら、隠すところを見ていないせいかもしれないと思ったからだ。
すると……。
「キュ……キュー!?」
駆け寄ってきた足は途中でぴたりと止まり、やっぱり号泣された。
その上、くるっと方向転換して逃げられたではないか。
そのまま姫は、キュイキュイ泣きながら母の背後に隠れてしまった。
「……ひ、姫?」
姫に拒まれた。この俺が姫に拒まれた……だと?
俺はその場で四つん這いになって盛大に落ち込む。
しっぽを……しっぽを隠しただけで!
「あ、あの、も申し訳ありません、主様!!」
なぜだ姫、俺の存在価値はこのしっぽだけなのか?
姫に愛されているのは未熟な証拠のしっぽだけになるのか? そうなのか?
ミズチの時はここまで泣いたりしないのに……と思っていたら、
そう言えばあいつは、最初からしっぽがない状態で姫と会っていたな。
そのミズチも最初は怖がられていたし……だめだ。全然参考にならない。
(……はっ!? そうか“すりこみ”かっ!)
幼い小鳥の雛が初めて見る相手を……というように、
姫もまた初めて見た状態を“個体”として認識してしまったのではないか。
つまり、“しっぽが隠せない状態でいた俺”を龍青として認識しているらしい。
理屈では俺が龍青だとは分かるが、しっぽが無い事で確信できないのだろう。
「キュ、キュイイイ、キュイイイ」
桃姫は泣きじゃくりながら、
「龍青様だけど、龍青様じゃない」とか言っているし、
せっかく力が付いてきたと言うのに、嫁になる娘に嫌われてどうするんだ。
俺は苦渋の決断をして、しっぽはしばらく隠さずに行こうと心に決めた。
人間に怖い思いをされているから、完全な人型はまだ本能で怯えるのだろう。
考えてみれば屋敷に居る俺の家臣達も、
主である力の影響があるから、完全な人型にはなれていなかったな。
水かきの残る手足、着物の裾から尾の先が見えている者がほとんどだ。
「そういうことか……姫、すまない。
ほら、これでいいか? おまえの大好きなしっぽだぞ」
(この姿だと、人型もまともに取れない水神だと侮られてしまうが)
しかたない、これは愛しい姫のためだ。俺は龍の誇りを捨てよう。
姫が望むのならば、大人しくこの身を差し出さなくては……。
それが例え俺のしっぽだとしても、姫に泣かれるよりはましだと思い、
俺はわざとらしく姫の前で自分のしっぽをふりふりと振って見せた。
「ほら、怖くないからおいで?」
「キュ……? キュ!」
しっぽのある俺を見たとたん、桃姫はまたキラキラと目を輝かせた。
もみじのように小さな両手を伸ばして、とてとてと駆け寄ってくるその姿。
姫は俺のしっぽに飛びつくと、
自分のとても小さな桃色のしっぽの先をからませて、
ぶんぶんと上下に振って、いつもみたいに無邪気な声をあげて遊び始めた。
「……っく、ひ、姫? ま、満足したか?」
「キュ、キュイキュイ」
仲良しの証と、桃姫は俺の顔を見上げて喜んでいる。
かの水神のしっぽを、こんなおもちゃのように、
好き勝手気ままにいじくり回せるのは、
きっと世界を飛び回っても、姫位なものだろうなと俺は思う。
「キュ~」
そのままぴょこぴょこ飛んで、「おそろい」と姫の機嫌は直っていた。
……しっぽがあるのが俺とおそろいという意味になるのか、姫。
その発想は俺の中にはなかった。そうか、俺とおそろいがそんなに良いのか。
そういう事なら、俺も悪い気はしないな。うん。
「はあ、俺も存外甘いな……これでは姫の父上をとやかく言えん」
「ぬ、主様、申し訳ありません。私どもの娘がとんだ粗相を!!」
「いや……愛想を尽かされるよりはましだからな」
そう、たかがしっぽごときで、姫の愛情を失う訳にはいかない。
「キュイ、キュイキュイ」
姫は俺のしっぽの先をしっかと抱きかかえながら、
「もう、しっぽを隠しちゃいやだよ」とキュイキュイと言っている。
姫いわく、俺のしっぽは姫のものらしい。そんなに思い入れがあるのか。
(仕事中は……しっぽの先で姫のことをあやしたりもしていたからな)
この時、姫の今後の教育課題に「俺の人型に慣れさせる」というのが加わった。
花嫁になる娘に怖がられては、共に暮らしていくのは大変だからな。
屋敷の者達にもしばらくの間は、不完全な姿で我慢してもらうことにした。




