臆病者の悪意
人間は自分の性質を抑えつけながら生きている。
僕もその一人だ。実生活やネット上では『優しい人』を演じているが、実際のところは自分でもどうかと思うほど、どうしようもないくらいの『悪人』なんだ。
どのくらいの『悪人』なのか、露悪的に言ってしまえば、普通に人を殺してみたいと常日頃から考えている。
実行に移したことはないのだけれど。
僕の殺人願望に理由はない。例えば電車の中の隣の人を『ああ、殺してみたい』と思うし、すれちがう人に対しても『この人を殺したら、遺族はどう思うのだろうか』と考えることもある。
そんな自らの願望を、性質を、性根を必死になって抑えつけている苦労や努力を文章に起こそうとすると、とても僕の語彙では表現できない。何故なら自分の心の奥底が理解できないし、その心すら本心ではない可能性もあるからだ。
でも人を殺めたい気持ちに嘘偽りはない。いや殺したいというよりは人を害したいと言ったほうが正確かもしれない。
人を苦しめたい。人を傷つけたい。人を不幸にしたい。
そんな気持ちが僕の脳内をクルクル回って、狂おしく感じるのだ。
でもそんな僕にも道徳心や倫理観、犯罪への抑止の感情や理性は存在する。それが勝っているからこそ、僕は今日まで犯罪を犯すことなく、善良な市民を演じていられるのだろう。
しかし、人を傷つけたら痛そうだからやめよう。ではなく、人を傷つけたら捕まるからやめようという気持ちなのだ。自分の不利益になるかもしれない可能性を考えるから、実行に移さないのだ。
もしも、逮捕されずに、人を害して良いのなら、僕は喜んで害するだろう。
まあこの国が法治国家であり、僕がこの国の国民である以上、それはありえないけど。
自分のことを罪深いと思うことがある。この考えを改めたいと思うこともある。だけど、面倒だと思ってしまう。このままで良いではないかと現状を維持することを選んでしまう。
いや、選ばないことを選んでいるのかもしれない。自分を変えるか、自分の欲望を晒すか、それらを選ばないから、現状維持を保っているのだ。
思い返してみると、人を害したいと思ったのは割りと早くて、物心ついてからだった。
普通に座っていて、何もすることなく、急に『人を壊してみたい』と思ってしまった。まるで砂場の城を壊すように、何の躊躇もなく思ってしまった。
自覚したときは自分の悪意に吐き気がした。子どもの純真さを持っていたから、自分が罪深い存在だと感じてしまったのだ。
でもそんな僕でも四半世紀を超えて前科もなく、人を害することなく生きていけるのは、ひとえに臆病者だからだ。
罪を犯す愉悦よりも発覚して捕まる恐怖のほうが勝っている。だから僕は善良な小市民のまま、仕事をして、小説を書いて、そこそこ幸せに生きていけるのだろう。
幸せと言っても、僕の生涯は決して幸せだったと言えないけど。
自分の欲望を節制して生きるのは、普通にツラくて悲しいことだ。いっそのこと人一人殺してしまえばどれだけ楽だろう。
だけどそれはできない。それだけはできない。
殺したい人間は大勢いるけど、僕は捕まりたくない。死刑になりたくないし、一生牢屋の中で暮らすのもごめんだ。
リターンよりもリスクを回避するのは臆病者らしいけれど、はっきり言ってしまえばクズの思考回路だけど、それしか世間と順応する術はないんだ。
僕の多大な悪意と過剰な臆病でなんとか他人から見放されずに生きていける。
そんな僕だからか、逆に人を愛する気持ちが理解できない。
人のことを好きになることはある。生きてほしい人もいる。生き返ってほしい人もいる。だけど誠実に愛することは僕にはできないんだ。
だって、愛する人を僕は害したいと思うから。
僕にとって、路傍の人を害したいと同じくらい、愛する人を害することは自然なことだった。
愛されたくないわけではない。ただ害したいだけなんだ。
そんな僕はおかしいのだろう。精神的に病んでしまっているか、性根が腐っているのだろう。
自分が間違っていると分かる。でもどうしようもないんだ。この感情は。
こんな僕は生きていて良くないだろう。死んでしまったほうがみんなのためだ。
でも僕みたいな矮小な人間、生きていても死んでいても同じに決まっているのだ。
誰も僕のことを見てくれない。そんなことは分かりきっているのだ。
どうしたらいいのか自分でも分からないけど、一つだけ自分に言えることがある。
人にそんなこと頼るな。自分で考えて決めろクズ野郎。