第5話「泉の精 青野女神」
「……であるからしてー、ココがこうなるわけだ」七草先生が黒板を目一杯使ってもの凄いスピードで数式を書き並べる。
「あー、みんなわかったな。じゃ消すぞー」生徒の反論を待つこと無く、先生は淡々と黒板の文字を消す。
(は、はやいってばー)
無論、僕などがこのスピードについていけるはずも無い。右手にシャーペン、左手に消しゴムを握り締め、それらをフル稼働して必死に黒板の文字をノートに書き写す。
(あほたれ〜……はやすぎるっちゅーねん! 大体が、普段居眠りしてるかダラダラくっちゃべってるかでロクに授業せえへんからテスト前の授業がこないなんねや! もっとペース配分考ええやドアホ!)
七草先生名物、テスト前の地獄の帳尻合わせ授業には後ろの席の車坂くんも苦戦している。というかクラス全員が苦しんでいる。
「あっ」
僕は思わず手を滑らせ、左手の消しゴムを床に落とす。そうこうしている内にも七草先生の授業はフルスピードで進んでゆく。
(うわーやばっ! 急がなきゃ……)
僕はすぐさま体を屈め、机の横に転がった消しゴムに手を伸ばそうとした。ところがその直前僕の右側から腕が伸び、それを拾い上げた。
(ん……?)
「…………あなたが落としたのはこのMONO消しゴムですか? それともこのカドケシですか……?」
――腰辺りまである綺麗な長髪、長いまつ毛に静かな瞳。隣の席の青野女神さんが、にっこりと微笑んで両手の消しゴムを差し出した。
「いやあの、ただのゴミケシ(限界まで磨り減った、メーカーもへったくれも無いどこから出てきたのかすら分からない消しゴム、の意)ですけど……」
僕が恐る恐る答えると青野さんは優しく微笑んだ。
「あなたは正直者です……こちらのMONO消しゴムとカドケシをあげましょう…………」
彼女はそう言って両手の消しゴムを僕の机の上に置き、再び前を向いてしまった。
「な、なんなんだ…………」
第5話「泉の精 青野女神」
Q「青野女神さんについてどう思いますか?」
Y代A太くん「彼女? ちょっと変わってるね。実は彼女、地球人生態調査の為に宇宙からやってきた未来人だって噂が……うんちゃらかんちゃら」
K坂Hくん「んー、悪い気はせえへんなあ。こないだはガリガリ君をハーゲンダッツとMOWに替えてもろたで!」
M崎Kさん「この前……105円のカップラーメンをラ王とGOOTAに替えてもらった…………」
N草Y先生「あー、青野か? あいつは良い奴だ。この前なんかブッサイクな見合い相手の写真をイケメン金持ち2人に替えてくれてな。良い思いをさせてもらった。ダメだったけど」
K畑Oくん「…………………………」
「んー、何か皆悪い気はしてないみたいだねえ」僕は皆にアンケートを取ってみた結果をまとめながら頷いた。
「まあ損してるわけじゃねーしな。質問も、正直に答えりゃ良いモンもらえるって分かってんだから」
そう言う真央くんも、以前彼女の恩恵を受けたらしい。クラスメイトから七草先生まで、今やクラス中の誰もが一度くらいは彼女のお世話になっていた。
ただ、例外が1人。甘屋くんは以前「あなたが落としたのは高級シュークリームですか? 高級大福ですか?」の問いに高級大福と答え、何ももらえなかった上にそもそも彼の持ち物であった明治チョコまで失ってしまった。
――そう、童話に出てくる湖の精の話通り、嘘をついた人間は何ももらえない上に始めの落し物を返してもらえないのだ。
……とは言え、全て分かっている今ではもうそれも意味は無いのだが。青野さんに嘘をつく人間など最早1人もいなかった。
「んだから、別に気にするこたねーよ。帰ろうぜ巻川」
「んー……」
僕は青野さんに対する興味を残しつつ、玄関に向かう真央くんの後についていく。
――窓ガラスが割れる音と、耳を劈く女生徒の叫び声が校内中に響き渡った。
「!?」
僕はその音のした方を振り返る。1人の女生徒の叫び声は伝染し、次第に男子生徒の野太いものから馴染みの教科担任のものまで混じって聞こえてくる。
「なっ、何が――……」
言い様の無い不安と恐怖が僕を襲う。汗が頬を伝い、緊張が僕を締め付ける。
「悲劇!! お前はどっか隠れてろ!! 俺が――」
真央くんが僕を置いて声のする方へ駆け出そうとした時、誰かがその横を通り抜ける。
その者は真っ直ぐ僕の方へ向かい、そして僕の首にその太い腕を回した。
「動くなァ!! 動くとこのガキの命はねえぞ!!」
その者の持つ拳銃の銃口が、はっきりと僕のこめかみを捉える。
(なっ…………!)
「悲劇!!!」真央くんが怒声を上げた。
(真央くん…………!!)
「ぐへへへ〜、殺っちゃうぞ〜殺っちゃうぞ〜……」
男はそう言い、笑い声とも叫び声とも取れない様な奇声を上げる。
うつろな目に口の周りに付着した唾液、僕の素人目に見ても、こいつが麻薬常習犯だと言う事が察知できた。
(ヤバイ……ヤバすぎる…………!)
唇が乾き掌が湿る。僕の悲劇人生において、悲劇ランキングベスト10にランクインする出来事だ。
(くそっ、どうしたら…………)
「おい!!」
真央くんの声だった。
「人質を取るなら俺にしな、イカレ野郎……!!」
真央くんは男の前に身を乗り出し、親指で自らの顔を指す。
「………………」
男は何も言わなかったが、僕の首に回していた腕を緩めその腕を真央くんに伸ばす。
真央くんの胸倉を乱暴に掴み、僕を解放すると同時に真央くんの体を抱き寄せた。
「なっ……真央くん、そんな…………」
僕は真央くんの方を振り返った。
瞬間、弾丸が僕の額を貫いた。
――音が、消える。
僕の体は腹からゆっくりとその場に落ちた。
緑音が両手で口を覆い、秋太の目が見開く。
影畑くんが顔を歪め、七草先生が口を大きく開けて何かを叫んでいる。
発砲の衝撃で体勢を崩した男の隙を見逃さず、真央くんは拳銃を叩き落とし、男を取り押さえた。
「悲劇ッ!!!」
真央くんが僕の元に駆け寄った。
(くそっ! 傷は――…… どこを打たれた!? 顔や肩ならまだ――)
真央くんは僕の体を仰向けにし、打たれた箇所を確認する。
それと同時に、仮にも魔界の王である彼は、悟った。
助からねえ――……。
銃弾は確かに、僕の額を貫いていた。助かる余地の無い、決定的致命傷。
――この時既に意識は無かったが、僕は静かに、目を閉じた。
真央くんの背中で、何かが光った。真央くんは反射的に後ろを振り返った。
――腰ほどまでもある綺麗な長髪、長いまつ毛に静かな瞳。彼女はその場に浮き上がり、誰よりも高い位置から皆を見下ろしていた。
「――あなたが落としたのは、元気な巻川くんですか? それとも、健康な巻川くんですか――…………?」
真央くんは、朝僕と交わした会話を思い出していた。
「――いえ…………僕が落とした巻川は、もう助かりません――――……」
真央くんがそう答えると彼女はにっこりと微笑み、体が金色に光輝いた。
***
………………。ここはどこだっけ。あれ? 僕何してたんだっけ…………。
目を開くとそこには真央くんや秋太、緑音さんに七草先生達がいて、皆涙ぐんでいた。
「悲劇ー!!」秋太が僕に抱きつく。
そっか……僕、助かったのか…………。
七草先生の方を向くと、目が合った。彼女は顎で僕の後ろを示す。
後ろを振り返るとそこには青野さんがいた。
彼女は、いつもの優しい笑顔でにっこりと微笑んだ。
――翌日。
「おーっす悲劇ー!!」
階段の踊り場で真央くんが僕の首筋に噛み付く。
僕は「ぎゃあっ!!」と叫び、そしてバランスを崩して階段を転げ落ちる。
その先には青野さんが1人歩いており、僕は避け切れず猛スピードで突撃した。
「うわっ!! ちょっ青野、わりーわりー……」
真央くんが焦って階段を駆け下りて来る。
彼が僕の腕を掴もうとした瞬間、青野さんの体が金色に輝き、煙が立ち起こる。
「…………あなたが落としたのは、このAB型Rh−タイプの血液型の巻川くんですか? それともB型Rh−タイプの血液型の巻川くんですか…………?」
「えっ…………」
真央くんの顔が引きつった。
「青野〜!! 頼む、頼むから、黙って魔界の血入りの巻川を返してくれー!!!」
涙目で青野さんにすがって頼み込む真央くん。
「このAB型Rh−タイプの巻川くんですか? それとも――」
「青野〜!!!!!」
1年5組 青野 女神
落し物を昇華させる女