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デブが二階から落ちてきた

作者: 青野

 デブが二階から落ちてきた。

 

 私がそう言うと、聞いた相手は大抵、嫌な顔をする。そりゃそうだ。ただでさえ生きている価値のない肉の塊が、あろうことかこの私に怪我を負わせたのだ。体中に巻かれた包帯に同情めいた視線が注がれたりもする。

 デブとは、私の兄だ。

 あんなデブ、追い出しちゃおうよと、何度も母に提案した。でもその度に母は言うのだ。「あのね、八雲ちゃん。あんなんでもね。お母さんの愛しい息子なの」と。

 引きこもり歴10年、年収0万円、食費月5万円という生産性ゼロのあのデブが愛しいと、母はそう言いくさるのだ。親というものは実に不可解だ。

 ちなみに一応、戸籍上は妹ということになっている私の場合、兄に対する家族愛的な感情は微塵も残っていなかった。今となっては完全たる黒歴史なのだが、一応、兄を慕っていた時期もあることはあった。でもそれも、精々私が中学に入る前までのことで、最近じゃもはや対等な人間とすら思っていなかった。アレは豚だ。ろくに働きもしないくせに、ごはんだけは人の何倍も食いやがる穀潰し。私が日々、心の汗水を流しながらパソコンのキーボードをパチパチ叩き続ける作業をすることで手にすることができるなけなしの給料20数万円と、母が毎日朝5時に起きてひたすら商品を棚に並べる作業をすることで手にすることが出来るなけなしのパート代10万円のうち、決して少なくない額が日々豚の糞に変換されている事実を思い出すだけで憤死しそうだった。

 ともかく、そんな糞デブ極潰し豚野郎が我が家の階段の最上段、つまり二階から突然落ちてきたのだ。そして私は推定120キログラムの肉塊に突き飛ばされた。

 私は全身打撲を負い、現在入院中という有様だ。まったく心底迷惑な野郎だ。本当、死ねばいいのにあの豚。


「……って、もう死んだっつーの!」


 私の掠れた声が、病室に虚しく響く。


 あの日の出来事が否応なく甦る。


 家のチャイムが鳴った。

 私は無防備にも相手の確認もせず、気軽にドアを開けてしまった。

 いや、確認していたところで結果は変わっていなかっただろう。なんせ来客は会社の先輩だった。何で家の住所を知っているんだろうと疑問に感じながらも、結局のところ私は無防備だった。普段は物腰が柔らかくて優しいし、悪い印象なんて微塵もなかったというのもある。

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。気づいたら私は押し倒されていた。口を手で覆われ、首元に冷たい感触があった。「いいか。騒ぐんじゃないぞ。騒いだら切るからな」冷たい感触は、ナイフだった。

 余りにも唐突過ぎて、私の思考はほとんど停止していた。

 後から警察に聞かされて知ったけど、先輩は私のいわゆるストーカーってヤツだったらしい。

 事が起きるまでまるで気づかなかった私もとんだ間抜けだけど、まるでそんな素振りを見せなかった彼も相当異常だったと思う。

 私は、さっきまで自分の口を抑えていた先輩の左手に、器用にも衣服を脱がされ始めていても、何も出来なかった。声すら、出せなかった。出せば殺されるということだけは理解していた。加えて、これから自分が犯されてしまうのだという絶望的な現実も、ぼんやりと把握していた。

 ふと、上を見た。深い意味はない。先輩の醜い姿をこれ以上見ていたくはなかった。

 視界の先には、階段があった。そう言えば、二階には兄がいるはずだ。そう思いだした瞬間、ガチャリと音が鳴った。

 階段横のドアが開き、見覚えのある肉塊が現れた。

 目が合った。その数瞬後。

 デブが二階から落ちてきた。

 よほど慌てたのだろう。階段を踏み外したようだった。

 再度、目が合う。こんな時なのに「我が兄ながら不細工だなぁ」と呑気な感想が頭に浮かぶ。

 間もなく、私は推定120キログラムの肉塊に突き飛ばされ、意識を失った。

 その後、目を覚ますと病室のベッドの上だった。


 兄は、ナイフでめった刺しにされたと聞いた。それでも決して倒れようとしない兄に恐怖を抱いたらしい先輩は逃げようとしたけれど、騒ぎを聞きつけた近所の住人の通報により、あっさりと警察に捕まったらしい。救急車が到着したとき、兄は既に事切れていたそうだ。

 

「八雲ちゃん、具合はどう?」

 声のした方向に目をやる。病室の扉が半分ほど開き、母の心配そうな顔が覗いていた。

「うん。もう、だいぶいい感じだよ」

「そう。良かった」

「うん」

「……あの、ね。八雲ちゃん」

「なに?」

「あんなんでもね。お母さんの愛しい息子だったのよ」

 母の目から涙がこぼれ落ちる。

「……うん」

 あの穀潰しは、10年間も私と母の金でただ飯を食い続けた。だから最後くらいは私の役に立って当然だ、と思う。そしてこんなことくらいで今までの事が全て帳消しになったとも思われたくない。あの豚にはまだまだ死ぬほど貸しが溜まっていたんだ。「死んで帳消しだ!」とか思っていたらぶっ殺す。

――だけど。

「あのね、お母さん」

「……なに?」

「私、あいつのこと、デブで豚でうんこ製造機でろくでも無い糞野郎だって、ずっと思ってたけどさ」

「八雲ちゃん……」

「やっぱ、最後まで糞野郎だったね」

 視界がぼやける。

 兄が二階から落ちてきた瞬間のあの表情。

 必死過ぎて不細工にも程があったあの表情を、私は一生忘れないだろう。

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