第62話 遅れてきた男
リディアの宿はシノブ的にはかなり『当たり』な宿だった。
造りはオーソドックスな一階が食堂になっている食堂兼宿屋。風呂が無いのは減点だったが、この世界では身体ごと浸かれる湯船を備えた宿の方が珍しいので、そこは致し方ない所。
その代わり熱い湯を入れたタライを部屋まで運んでくれるので、これで身体を拭くことができる。
湯が冷えたら声を掛ければ焼けた石を持ってきてくれるので、温め直すことも可能なのだ。
部屋も豪華ではないが質素かつ清潔で好感が持てる。
日当たりもよく、掃除も行き届いていて、シーツなどはお日様の匂いがすると錯覚したほどである。
部屋の一角にはなめし皮を敷いたスペースがあったが、これは湯を入れたタライを置く場所なのだそうだ。
ここで身体を洗えと言う事らしい。
「ふぅ……」
転移者は漏れなく【アイテムボックス】のスキルを持っている。シノブも例に漏れずこれを活用していたが、彼女の筋力ではあまり多くの量が持てないのだ。
【アイテムボックス】の内容量は筋力値の5倍kgまで。
剣士としては非力な彼女にとって、これが非常に大きなネックとなっている。シノブの筋力値は42しかないので、210㎏しか運べないのだ。
もちろん、それだけの重量を負担なしに運べるのだから、旅人にとっては大きなアドバンテージになる。
しかし、これらは普通、食料や水によって占有されてしまうのだ。
シノブもその容量の大半を水、それも飲料用の物によって割かれていた。なのでこういう、贅沢に水を使って身体を拭く事などできなかったのだ。
「シノブお姉ちゃん、お手伝いはもういい?」
一息吐いた所でドアの外からリディアが声を掛けてきた。
彼女に湯が冷めた事を言うと、バケツに焼けた石を入れて持ってきてくれるのだ。
「ああ、ありがとう。お湯はもういいよ、助かった」
「そか。じゃあ、ご飯はどうする? 下で用意しておく?」
「そこまでやってくれるのか?」
「『しゅくはくりょーきん』に入ってますから!」
声音からして『ドヤ?』と言う顔をしている事が想像できる。
転移者の中でもずば抜けて年下だったシノブにとって、妹ができたみたいな気持ちになり、新鮮な気分になった。
リディアには食事の用意をしておくよう頼み、その時間と残り湯を使って汚れた旅装を洗濯する。
アキラから送られたシャツは防汚付与が為されていて、まったく汚れないので、旅の間は非常に助かっていた。
それでも、下着姿で旅をする訳にも行かず、日頃着ている旅装は結構汚れている。
「女子たるもの、常に清潔を心掛けないとな」
ごしごしとこすりながら頷いてはいるが、その脳裏にはアキラの姿が浮かんでいた。
やはり想い人に会うために旅をしている以上、いつであってもいいように清潔でありたいのだ。
軽く洗濯を終え、部屋干ししてから一階へ降りると、そこはすでに食事目当ての客でごった返していた。
宿泊客以外も食事のために訪れているため、すでに満員寸前の有様だった。
リディアの話ではもともと料理は評判よかったのだが、最近同居しだした祖母の腕もあって、さらに客足が伸びたそうだ。
「それにしても、この街は意外と景気がいいんだな」
料理を運んできたリディアに、そう話しかける。
魔神ワラキアとその部下カーツの襲来。それからまだ一年も経っていない。
そんな災厄に見舞われれば、街を去る者が増え、訪れる客が減る。そうして寂れていくものなのだが、この街はまるで逆の雰囲気がある。
「んー、街の再建の他にもね、森の開拓がスムーズにいったんだって」
「森の開拓?」
「ほら、街の東側に大きな森が見えるでしょ?」
「ああ、畑の向こう側の……」
「あの森、本当は町のすぐそばまであったんだけど、この間すっごい火事があって、あそこまで下がっちゃったんだ」
リディアの話では、眷属カーツの能力によって、森の半分近くが焼き払われたらしい。
この火の粉が街まで飛んできて大惨事に発展した訳だが、この火事によって森が大きく焼かれ、その部分が農地に転用できるようになったのである。
更に森に棲んでいたゴブリン達も、この火事で全滅。安心して農作業ができるようになったらしい。
焼けた領域は焼き畑農業的効果で、土が肥え、作物の育ちがいいそうだ。
「なんとも……禍福は糾える縄の如しというか、人間万事塞翁が馬というか……」
「かふ……?」
「いや、なんでもないよ」
リディアの頭を撫でてから運ばれてきた食事を攻略する。
メニューはジャガイモとトウモロコシの入ったシチューと、リディアが買ってきた焼き立てのバゲット。
それに猪肉のハンバーグだった。
小柄だがシノブの食欲は大人顔負け……というか、それを超える。
リディアが呆れるくらいの勢いですべてを攻略し、おかわりまで要求してから、ようやく手を止めた。
彼女の燃費はあまりよくないのだ。
生温い水を口に含み、席を立とうとしたところで、宿の入り口で騒ぎが起きた。
「おい親父! 酒もってこい、それと女だ!」
「お客さん、困ります……」
「あぁん? 俺は客だぞ? いいからさっさと持って来いっての。それとも金の代わりに一発欲しいってか?」
酔っぱらった3人の男が宿の主人と入り口で押し問答をしていた。
男たちは皆武装しており、一見して冒険者――いや、ゴロツキだと判る。
無粋にも男の1人は腰に吊るした斧を抜き、主人――リディアの父を脅しに掛かっている。
食事をしていた他の客もその手を止めて成り行きを見守っていた。
「金ならあんだよ。オラ、さっさと席に案内しろや!」
「申し訳ありませんが、随分とお酒が回っておられる様子、今日の所は――」
「うるせーってんだ!」
男の怒声にリディアがびくりと体を強張らせる。
「こちとらあのハゲに恥掻かされてイラついてんだ! さっさと酒を持ってこねーと……」
そこでシノブの限界がやってきた。
彼女は元々騎士団を纏めていたくらいなので、正義感は強い方だ。しかもここは世話になった幼い少女の家でもある。
その場での狼藉など、彼女には許せなかった。
ゆっくりと席を立ち、怒りを押し殺してまずはリディアに声を掛ける。
「リディア、済まないが私の部屋から剣を取ってきてくれ」
「お姉ちゃんの剣?」
「ああ、こんな騒ぎが起きると思ってなかったから、部屋に置いてきてしまったんだ。できるだけ早く、な」
「う、うん」
リディアは急いで二階へと駆け上がっていく。
剣を帯びていなかったのは完全にシノブの油断だ。この宿の雰囲気があまりにも家庭的だから、緊張を解いてしまった。
彼女とて、たまには腰に重い物を吊るしていない状態で、食事を楽しみたかったのだ。
「その辺にしておけ。ここは食事をする場で、クダを巻く所ではない」
「なにしやがる、このガキ……」
「相手をしてやってもいいが……ここでは宿に迷惑がかかる。表へ出ろ。酔いを醒ましてやろう」
「ざっけんな! 今、ここでブチのめしてやらぁ!」
まさか宿の中で乱闘騒ぎを起こすとは思わなかった。
そんな真似をすれば、衛視が真っ先に飛んでくる。ただのケンカでは済まなくなる。
そこまで男たちは、見境をなくしていたのだ。
「まったく、少々戦場を離れすぎたか? 見通しが甘くなったものだ」
もともと彼女は剣を手に最前線で敵を斬る、それだけが仕事だった。
作戦などを考案するのは彼女の役目ではなかった。
それでも、ケンカを売り、表に誘い、時間を稼ぐくらいの事はできると思っていたのだが、今夜は全てが裏目に出る。
「覚悟しろ、ブチのめして素っ裸にひん剥いてやる!」
男が情欲にまみれた目で、掴みかかってくる。
シノブとしてもこういう反応は意外と慣れている。彼女も、自分がそれなりの容姿をしているという自覚はあるのだ。
だからこそ、その対応も手慣れたものだ。シノブはこの手を往なし、サイドに回って膝を蹴り抜いた。
バランスを崩した男がテーブルの上に倒れ込み、空になった皿が宙を舞う。
それが他のテーブルに落ち……これがきっかけで客達が混乱を起こした。
悲鳴を上げる女性、泣き出す子供、出口に逃げる男。
混沌とした中でシノブを囲むように3人の男が動く。
それぞれ武器を抜き、構えている。1人は斧、1人は戦槌、1人は節棍を装備していた。
すべて技術よりも力を重視する武器なのが、実に『らしい』。シノブとしては射程が短い事が救いでもあった。
「女にあしらわれてんじゃねぇよ。雑魚かよ」
「うるせぇな! これからだよ、これから。さっきのは酔いで足が絡んだだけだ!」
「ぎゃははは、言い訳、だっせぇ」
お互いに軽口を叩きながらも、小さく攻撃を仕掛けてくる。
これは牽制だろうが、予想外に連携が取れていた。
対してシノブは、この状況に舌打ちせんばかりだった。
彼女の戦闘スキルは剣術。つまり剣があって初めて役に立つスキルだ。
それなのに今、剣を手放してしまっている。
今、彼女が攻撃を躱せているのは、ずば抜けた敏捷値のおかげでもあるのだ。
「ちょこまかと、鬱陶しいんだよ!」
「それはこっちのセリフだ。いい加減にしろ!」
攻撃を躱し、反撃の拳を何度も叩き込んでいるが、格闘術を持たない非力な彼女の拳では、有効打にならない。
もちろん彼女とて一般人よりもはるかに強靭な筋力は持っているが、それでも武装した男にダメージを与えられるほどではなかった。
戦いは膠着し、客は逃げ出し――そこへ状況を変える事態が起こった。
逃げ出した子連れの客が、一人の少年を押し出し、それが男とシノブの間に飛び出してきたのだ。
とっさに覆いかぶさるように子供を庇い、節棍を背に受けてしまう。
幸い、彼女はアキラの作ったシャツを着ていたため、致命傷を受けるようなことはなかったが、それでも衝撃に息は詰まる。
動きを止めた一瞬を突かれ、腕を取られ引き摺り起こされてしまった。
「お、お姉ちゃん!?」
「いいから行け! その場に居られては困る」
躊躇する少年にそう叫び、取られた腕を振りほどこうともがくシノブ。
だが男もそれなりの経験を積んでいるのか、腕力はシノブよりも高そうだった。
背後から腕と足を絡められ、動きを封じられてしまった。
「離せ!」
「言われてその通りにするバカがいるかよ!」
こればかりはシノブも同意するしかない。彼女も、もちろん離してもらえるとは思っていなかった。
その姿にさらに欲情し、胸元に手を伸ばしてくる男。
それを見て、シノブは室内では危険と判断して、使用を控えていた魔法を使う決意をする。
かろうじて動く指先で魔法陣を描こうとした時――背後の男が真横にすっ飛んでいった。
「な、んだ……?」
「か弱い腐女子に寄ってたかって……見苦しいな」
「誰だ、てめぇ!」
いつの間に忍び寄っていたのか、そこには槍を持った1人の男――いや、少年が立っていた。
「俺か? 俺は――いや、俺の名前なんて……まぁ、どうでもいいじゃないか?」
「ふざけんな!」
「カツヒトじゃないか? どうしてここに!」
シノブもその姿には見覚えがあった。
2年前、戦場で補給部隊の護衛を務めていた少年だ。
「なんだ、よく見ればシノブか。まさかこんな所で出会うとはな」
相変わらず、どこか芝居がかった仕草で、カツヒトは槍を構えたのだった。