第134話 神の降臨
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その日、『彼』は初めて自身の意思を認識した。
それまでの『彼』は、ただ本能のままに生き、本能のままに貪り、本能のままに眠るだけの……ただ生きているだけの存在だった。
だがある時、ふと自身の意思を認識したのだ。
それは人の手の中での出来事だった。
その人間の男は『彼』に何かを仕掛けようとしているようだったが、『彼』はその行動に理解不能な脅威を感じた。
身を捩り、その指から逃れようともがく。
本来、昆虫ならば、人の手を逃れるというのは不可能に近い。だが運よく指を押しのけ、空へ逃げ出す事ができたのだ。
その場に留まるのはマズイと判断し、ただひたすら風に乗って南へと逃げた。
その人間が『彼』を追ってはこなかったのは僥倖と言えるだろう。
しばらく逃亡を続けると、『彼』は森の中にひっそりと寄り添う人間達を発見した。
その人間たちは、粗末な天幕に住み着いて、何かに怯えるように暮らしている。
そしてその集落のそばには、湯気を立てる湖が広がっていたのだ。
人々は皆、深い疲労をその顔に浮かべていた。
まるで大災害に見舞われたかのように、疲れ果て、絶望し、途方に暮れて蹲っている。
だがそんな大人達と違い、子供達は元気に森の中で遊びまわっているのが見て取れた。
遊び八割、親の手伝いが二割という感じで野草を探し、その日も木の実を集めて森を散策に出かけようとしていた。
小さな昆虫である『彼』は、その様子をなにするでもなく、観察する。
まるで独楽鼠のように、森の中を縦横無尽に駆け巡り、森の恵みを採集していった。
だがここは、モンスターすら出没する北部最大の森である。
子供達が遊び場にするには、少々危険すぎた。
ある少年のそばに、一頭の熊が姿を見せた。
それはこの近辺で畏れられた赤毛の巨熊ほどではないにしても、かなりの体躯を誇る猛獣だ。
少年は悲鳴を上げて、腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
そのままズリズリと後ずさるが、萎えた足では立ち上がる事ができない様子だった。
少年の悲鳴を聞き、駆け付けた他の子供も恐怖で硬直する。
誰も身動きできない中、熊のみがゆっくりと腕を持ち上げていく。
その腕は、一振りで少年の頭部を果実のように容易く撃ち砕く破壊力を秘めているのが、遠目からでも見て取れた。
『彼』はそれを黙ってみている事も出来た。
だが、なにがそうさせたのかは判らないが、見ているだけの自分は自我を持つ前の自分と何ら変わらないと思ってしまったのだ
助ける義理など――欠片も無い。
そもそもただのカナブンである自分が、熊の攻撃をどうこうできるはずもない。
それでも何か抗えるかもしれない……そう思ってしまった。
悲鳴を上げる少年。
振り下ろされる腕。
その腕が少年の頭部を砕く直前、『彼』は熊の頭部に真横から突撃した。
本来ならば、小石が当たった程度の被害しか与えられないはずだった。
だが『彼』はただの虫ではなかったのだ。
魔神の強化を受け、虫に非ざる力を与えられ、遥かな高みに到った、一種の新生物と言ってもいい。
そんな存在が、ただの熊の横っ面に突撃を仕掛けたのである。
それこそ、ただで済むはずがなかった。
まるで紙のように分厚い毛皮を貫き、骨を砕き、脳髄まで粉砕する。
勢いはそれにとどまらず、頭蓋を貫通し反対側から突き抜けた。
唖然とする少年。
頭蓋から鮮血と肉片を撒き散らし、ゆっくりと崩れ落ちる熊。
何が起きたのか判らず、呆けたままの少年の前を悠然と飛び去る『彼』――カナブン。
ようやく、子供達が悲鳴とも歓声とも付かない絶叫を上げた。
この日、ユークリスの森に新たな神話が生まれた。
後に虫神様と呼ばれる、子供を見守るカナブンの存在が初めて確認されたのだ。
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怪しい強化を施したカナブンを取り逃がしてしまったが、結局のところ昆虫である。大きな被害も無いだろうと判断して、俺達は旅を続けていた。
そしてそのまま夜を迎え、夜営を行う事になった。
いつもなら保存食を加工した食事で細々と食い繋ぐところであるが、今日は人の目が存在しないので、豪勢に行こうと思う。
【アイテムボックス】内に収められた野牛を取り出し、リニアに捌いて貰った。
この世界に来て俺も動物を捌く方法は理解してはいたが、やはり長年冒険者を続けてきたリニアには及ばない。
というか、このメンツで一番料理が上手いのは、間違いなく彼女だろう。
「いつも悪いな。俺もできない事は無いんだが……」
「別にご飯の用意くらい、やりますよー。わたしは一応奴隷ですし」
「いや、それはいつでも解放してやると言ってるじゃないか」
「たった一度の情けもかけてもらえずに解放なんて、女としての矜持が許しません!」
「なんでやねん」
相変わらず、コイツはコイツで謎のこだわりを発揮しているが、この世界の事に詳しいし、料理などもそつなくこなしてくれる。
周囲には雑な性格のカツヒトや不器用なシノブやラキアしかいない身としては、実にありがたい存在である。
他にもアンサラで強奪した馬の死骸も取り出し、牛と一緒に捌いて貰う。
無論それだけでは食える部位と食えない部位が存在するので、食えない場所は即座にシノブに焼却してもらった。
血肉の匂いは猛獣を呼び寄せてしまう。
「ン、灰になるまで焼いておいたぞ」
「サンキュ。でも考えてみれば、ここにいる連中、猛獣程度で死ぬのだろうか?」
「そう言われれば……死なない気がするな」
シノブはもちろん、最も打たれ弱いリニアですらそこらの猛獣よりも頑丈だ。
朝目を覚ましたら、熊や狼に齧られてたなんて事態になっても、怪我一つ負わないだろう。
「それはいいですから、ご主人、これ加工してください」
「あぃよー」
リニアに投げ渡された牛肉を受け取り、『加工』を施す。
皮下にある脂肪を赤身の肉に万遍無く浸透させ、高級肉のようなサシを入れていくのだ。
これはシノブの持つ剣、アンスウェラ―を作る時に三つの剣を融合させた時のような感覚でやればいい。
しかしこのままでは肉が堅いので、適度に叩いたり切り込みを入れたりするのはリニアの仕事である。
ちなみにラキアにやらせたら肉が爆散した。
シノブの時は肉を両断し、カツヒトに到ってはその作業の意味を見いだせなかったらしい。
お前ら、ちょっとはリニアの女子力を見習え。
その後、シノブがカマドを作り、火を熾す。
カツヒトが風を送って火力を調整し、ラキアは食器の用意をしていた。
俺は捌いた馬や牛の皮をなめしておく。これも後に使えるようになるかもしれないからだ。
続いて俺はラキアの夕食も用意を始めた。
サキュバスの彼女は、俺達と同じ料理では栄養を摂取できない。
今回は鮭の白子をさっと湯引きして、ポン酢と紅葉おろしで食べる白子の湯引きである。
こればかりはリニアにはできない料理だ。なぜなら和風調味料が必要だから。
「フフフ、日本製の調味料の恐ろしさを思い知るがいい」
「そ、そんなに危ない料理なのか!」
俺の言葉にラキアは戦慄の表情を浮かべる。
無論危険性など欠片も無いが、ポン酢はマヨに匹敵するほどの、万能調味料である。
その中毒性も、マヨに劣る物ではないのだ。
その横でリニアがじぅじぅと肉を焼き上げる。
その隣でカツヒトとシノブは涎を垂らして、見入っていた。
「シノブ、涎を肉の上に落とさないでくださいね?」
「そ、そんな事はしないぞ! 涎とか、たらして――じゅる」
「説得力がない!」
まるで姉妹のような二人に、俺は思わず笑みをこぼした。
あの二人は何かと競い合う面もあるが、根元の所では非常に仲がいい。
それはもう、見ている方も微笑ましい気分にさせてくれるほどに。
だがそこで、俺はある気配に気づいた。
それは微かな息遣いだったが、明らかにこちらを窺っている気配だった。
「お客さん、かな?」
「ん、敵ですか?」
この五人の中に、斥候職をこなせる者はいない。だがそれは、感覚が鈍いと言う事ではない。
俺の聴覚は他の一般人よりも遥かに鋭い。
その俺の耳は、遠くで潜む獣の荒い息を聞きつけていた。
「そうみたいだ。少し処理してくる」
ざっと白子を湯切りして皿に乗せ、調理ネギと付け皿にポン酢と紅葉おろしを添えてラキアに突き出す。
できるなら酸味としてすだちを用意したいところであるが、この世界には存在しないので、レモンを切って添えておいた。
夕食の用意を終えて俺は闇影を抜いてその場を離れた。
「アキラ、敵か? なら俺も――」
「お前は火の番をしてるだろ。リニアがまだ焼いてるんだから、そっちを見とけ」
「じゃあ私が――」
「シノブは……そうだな、一緒に来てくれ」
獣の息を聞きつけたとはいえ、その数を聞き分けれるほどではない。
ひょっとすると、俺の手に負えないほどの数が潜んでいるかもしれないのだ。
そうなると、蹴散らす側の手が多い方がいい。
キャンプ地から少し離れた所までやってくると、獣の息遣いははっきりと聞こえるほど近くに来ていた。
どうやら、焼いている肉よりも、二人だけで離れた俺達を獲物にする事に決めたようだ。
俺もぶらりと闇影を下げた状態だが、シノブもバスタードソードとアンスウェラ―を両手にだらりと下げただけだ。
潜んでいる獣が何か判らないが、俺も彼女も、構えるほどの敵と判断していないのだ。
そうこうしている内に、草むらから一頭の狼が襲い掛かってきた。
それを俺は、慌てる事無く首元を撫で斬って息の根を止める。
「狼か、という事は……」
「他にもいるな。狼は群れで狩りをするから」
俺の推測をシノブが後を継いだ。
狼は社会を築く動物だ。つまり、単独で狩りを行う事はあまりない。
その推測を裏付けるように、次々と現れた狼が俺達の周りを囲む。
「ざっと見て七匹。これなら二人で止められるな」
「俺一人だったら肉くらい奪われたかもなぁ」
俺達は比類ない力を持っているとは言え、結局のところは少人数である。
数によって防御線を突破される可能性は、充分にあり得た。
だからこそ、シノブを連れてきたのだ。
「そいじゃ、さっさと狩って飯にするぞ」
「承知した」
俺とシノブは逆に狼の群れに斬り込んでいった。
包囲してるはずの獲物が逆に牙を剥いてきたのだから、狼達も不意を突かれたように混乱する。
その一瞬で、俺は一匹、シノブは二匹の首を飛ばしている。
刀を振り抜いて、残心の姿勢を取る。
振り下ろした刀が震える事無くピタリと静止する。その手応えに、俺は充実感を覚えた。
この感触を求めて、俺は剣術スキルを欲したのだ。
同じように、剣を振り抜いたシノブも構えを解かずに周囲を威嚇していた。
剣術スキルを得た今だからこそ、彼女の力量の高さがより詳細に見て取れる。
片手で扱っているからこそ、剣身をぴたりと止める事が難しいのだ。
ほんの一瞬、混乱の隙を突かれたその一瞬で、狼達は半数近くが狩り倒された。
この段階でようやく狼達は自分達がどれほど恐ろしい連中に牙を向けたのか悟ったようだ。
指揮を執っていたであろう狼が、一声吼えて合図を出す。
その直後、残りの三匹が逃亡に移るが……だがそれでも遅い。そもそも狼達の逃亡速度よりも俺達の方が早いのだ。
背を向けて反転した隙に俺は次の一匹の首を刎ねていた。
一拍遅れて、シノブも一匹。
残る二匹は後ろを見ずに逃亡しようとしているが、この場所から少し離れた場所には難民キャンプがある。
ここで見過ごしたら、余計な被害が出る可能性もある。
俺達は狼を一匹残らず殲滅し、夜営地に戻る事にした。
その俺の顔には、剣術スキルの効果を実感した、確かな充実感が浮かんでいたのである。
ポンコツ魔神逃亡中! 発売まであと二週間です。
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許可を得ましたので、こちらで表紙を掲載しておきますね。
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