第125話 ワラキアの報せ
再開します。
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三日かかる距離を二日で走破して、アレックスはようやくアロケンのそばまでやって来た。
すでに頭は朦朧とし、アロケンへ早く戻る、それだけを思考し交互に足を動かすだけになっていた。
疲労はすでに限界を超え、いつも漏らす軽口も絶えて久しい。
携帯している水筒の水も既に尽き、喉がまるで塞がったように張り付いている。
そんな状況でも足を動かし続けたのは、一刻も早くアロケンへ戻り、隊長であるリーガン救出の部隊を出してもらうためだ。
だがその足に異様な感覚が走ったのは、その時だった。
ぬちゃりと湿った音とともに、生暖かい感触が踝に走る。
その生暖かさから、一瞬失禁してしまったのかとも思ったが、その感触の位置がおかしかった。
アレックスも一流の兵士だ。訓練の時に気絶するまでシゴかれた経験くらいはある。
その時の経験ではまず大腿付近に温い感触が走る物だった。今回はいきなり足首だったのだ。
「――なん、だ……」
意識を繋ぐため、意図的に声を絞り出して、自分の足元を見る。
掠れ声ではあったが、その行為で頭が少し処理能力を回復させ、ようやく周囲の状況を把握する事ができた。
彼の目の前には半ば沼と化した湿原が広がっていたのである。
「これは……?」
彼の前にはアロケン周辺からユークレスの森の外縁まで広がる、温泉でできた湿原が広がっていたのだ。
何があったのかは彼にはわからない。だが、彼の生存本能はすぐさま足元の水を掬いあげ喉に流し込んだ。
泥が混じり濁った水を、音を立てて啜り上げる。
ザリザリとした感触が喉に残り、泥の味が舌に残るが、彼にとっては甘露のごとく美味に感じた。
水を飲むため地に付いた膝からはじんわりとした温かさが広がり、冷え切っていた身体がゆっくりと温められる。
「ゴホッ、ゴホッ……これは、温泉、か?」
体温よりも少し温かい湯が、喉を滑り落ちていく。
それが広範囲に、しかも今なおその範囲を広げていっている。
かわりに森を抜けて見えてくるはずの、アロケンの姿が見えなかった。
いや、町の遠景は見える。だがその中央に聳え立つはずのアロケン砦の姿が見えない。
それだけではなく、まるで巨大な樹木のように地面から噴き上げる、噴泉の姿も見てとれた。
「町に何が……とにかく、早く連絡を……」
立ち上がろうとして……しかしそれは叶わなかった。
力無く、アレックスは湯の中に倒れ込む。
慌てて起き上がろうとするが、一度休憩を挟んでしまった身体は今まで誤魔化してきた疲労を実感してしまい、ピクリとも動こうとはしなかった。
「ゴボッ、ガボッ――ゲホ、ゴホッ」
疲労のため、危うく起き上がれず溺死しかけたアレックスだが、かろうじて仰向けにひっくり返って事無きを得た。
だがそれだけで力を使い果たしてしまい、もはや指先一つすら動かす事ができなくなってしまう。
「隊ちょ――知らせ――」
彼の意識があったのはそこまでだった。
水量を増しつつある湿原の中で、彼はついに気絶したのだった。
次にアレックスが目を覚ましたのは、粗末なテントの中だった。
彼の身体は分厚い毛布にくるまれ、体温を逃がさないように固定されていた。
「ここは……?」
「お、やっと目を覚ましたか、兄ちゃん」
傍らから掛けられた声に視線を向けると、そこには中年の男が一人座って、茶を啜っていた。
「あんたは?」
「俺か? アロケンでパン屋を営んでいたセギってモンだ」
「ここは?」
「質問ばっかだな。まぁ無理もねぇか。ここはアロケンの外れの避難キャンプにある、俺のテントの中」
「避難キャンプ?」
そこでアレックスは、気絶する直前の光景を思い出した。
崩れ落ちたアロケン砦。町を覆う湿原。
「そうだ、町は! 一体何があった!?」
飛び起きようとして、それは叶わず寝台に倒れ込む事になった。
そんな彼を呆れたように見つめ、セギが彼の口元に白湯を運んでくる。
「三日も寝込んでたんだ、いきなり起きれるモノか。ほら、まずは白湯でも飲め」
「三日!? うぶっ」
なお問い募ろうとするアレックスの口に、強引に湯呑を突っ込んでくる。
一口、二口と嚥下するのを確認してから、セギは湯呑を離した。
「あんた、運が良かったんだぜ? 疲れ切って倒れていた場所に温泉が押し掛けて溺れかけてたんだ。仰向けに倒れてたのが功を奏したな。それに流れ込んだのが温泉だったから体温が下がらずに済んだ」
「だが俺は騎士団に連絡を――」
「ああ、その格好だから騎士団の所属かと思ったんだが、案の定か。残念ながら騎士団は壊滅状態だ」
「一体何があったんだ? アロケン砦はそう簡単に陥ちる様な造りじゃなかったはずだ」
アロケン砦の堅牢な構造は、アレックスも記憶がある。
それをあそこまで完膚なきにまで破壊しつくすなど、余程の大軍が攻め寄せないと不可能なはずだった。
更に思い出してみると、周囲の町の様子もおかしい。
砦をあそこまで破壊できる軍が攻め寄せたのならば、町にも相応の被害があったはずだ。
それなのに水没している様子はあっても、破壊されている様子はなかった。倒壊している建物は多数見えたが。
「陥ちる? 軍隊が攻めてきた訳じゃないさ。そうだな……騎士団残党の調査の結果でよければ、話してやるが」
「ぜひ頼む」
「そうか。んじゃ……まず最初に異変があったのは三日前の昼前だったか。森と平野部の境付近で、いきなり温泉が噴き上がったんだ」
「温泉……そう言えば、あの水は温かかった」
「ああ、本当はもっと熱いんだが、広がっていくうちに温まっちまったんだな。その噴泉が町の周囲を埋め尽くし、町の周囲は半ば水没したんだよ」
気絶前に見た光景を再び思い出す。
大量の水に埋まった町の景色。あれは噴泉による物だと、ようやく悟った。
「だがそれでは砦が崩落する事は――」
「最初はここまでひどくなるとは思わなかったんだ。だがこれほどの水が噴き出したって事は、逆に言うと地面の下にそれだけの空洞ができたって事だ」
「この近辺は厚い岩盤に覆われていて、そう簡単には底は抜けないはずだが……?」
「温泉が噴出した事で、岩盤の亀裂が広がったんだ。まぁ、なにがきっかけで温泉が噴き出したのかは謎だが。今回の場合、その岩盤が曲者だった。ギリギリまで耐えちまったから、底が抜けた時の被害が余計にな」
岩盤の上に立っていた砦は、当初地形の影響はほとんどないと考えられていた。
だが岩盤のさらに下にある水脈が地表に抜け出した事で巨大な空洞ができ、砦の重量に岩盤が耐え切れなくなり、一気に崩落したらしい。
直下型の崩落にいかに堅牢な砦も耐え切れず、無残に崩れ落ちてしまった。
「騎士団の指揮系統はすでにズタズタ。何とか状況を調べるために調査団が状況を調べた結果、どうにかこれだけわかったってこった」
「なんてこった……それじゃ、エルフへの攻勢は……」
「当分それどころじゃ無くなるだろうな。俺も店がこの有様じゃ再建は難しいわ」
セギの店はパン屋だ。大量の小麦粉が保存されており、それを運び出すだけの時間的余裕は無かった。
それに噴出する温泉も止まる気配を見せず、地殻は今なお不安定だ。
これでは、この地に町を再建するのは難しいだろう。
「町はもう人が住めるような状況じゃねぇ。それで温泉の押し寄せてこねぇ場所にこうして避難キャンプを作って、どうにか安全を確保してるのが現状だ」
「だが……それでも……」
アレックスは騎士団に連絡を取らねばならない。
エルフへの攻撃だけでなく、あの巨大熊に襲われたリーガン達を救出せねばならないのだ。
「そうは言っても、この避難キャンプの騎士団も今は不在だ。帰ってくるまではしばらく時間が掛かる、それまでは大人しく身体を休めておけ」
「事は一刻を争うんだ!」
すでに二日――いや、気絶した時間を含めるともう五日が経過している。
普通に考えれば、生きているならマックスに追いついている時間だ。
それでも戻ってきていないと言う事は、リーガン達の生存は絶望的と判断せねばならない。
ここで足掻いた所で、もはやどうにもならない。アレックスは結局、セギの勧めに従うしかなかったのである。
夕刻、周辺の調査から戻って来たミッチェル率いる騎士団が戻って来た。
彼等もまた避難キャンプで天幕を張り、災害をやり過ごしている。
アレックスは帰還を待ちかねた様に、ミッチェルの元を訪れていた。
「ミッチェル団長、お疲れ様です。第七斥候部隊のアレックスです」
「第七? ああ、エルフの集落を捜索に出ていた……?」
「はい、今回の捜索でようやく集落の場所を発見致しましたので――」
「バカモノ! もはやそれどころではないわ!」
自然災害とは言え、砦を失った団長はその責任を問われる事になる。
彼はすでに、後がないほどに追い詰められていた。
「砦を失い、町もあの有様だ! エルフどころではないのだ!」
「それでは、リーガン隊長の救出部隊を編成してもらえませんか?」
「救出部隊だと?」
「はい、撤退途中でクリムゾンという巨大な熊に襲われました。私を逃がす為に隊長と副長が足止めを――」
「それはいつの話だ?」
「五日前……です」
「ならば諦めろ。すでに生きているはずがない」
「そんな!?」
アレックスとて、ミッチェルの発言の意図は判る。
それでも無慈悲に思わざるを得ないのもまた事実だ。
思わずこぶしを握り締め、憎しみの籠った視線をミッチェルに送る。
そしてそれに気付かぬほどミッチェルも無能ではなかった。
「なんだ、その視線は――!」
「いえ、別に……」
一触即発、その時天幕の入り口から声が掛けられた。
「ミッチェル団長、いらっしゃいますか? 至急報告したい事が」
「何者だ! 今取り込み中――」
「その声、リーガン隊長!?」
「アレックスか!?」
天幕に入ってきたのは、彼の上司のリーガンその人だった。
彼はアレックスの姿を見て、安堵したように息を漏らす。
「無事だったか」
「すみません、帰還した途端気絶してしまって……報告も今している所でした」
「いや、構わん。むしろ僥倖だったと言える」
「貴様、誰が入っていいと言った?」
「大至急、最優先で報告したい事案がございまして」
ヒステリックに叫ぶミッチェルに、鷹揚に答えながら進み出るリーガン。
「待てと言った!」
「最優先と申しました。それも極秘に」
「チッ、一体なんだ!」
「エルフの集落に……魔神ワラキアが逗留しています」
「……なに?」
最初、ミッチェルは何を言われたのか理解できなかった。
もちろん彼も、ワラキアの名は知っている。
だが、それはこの大陸南部での活動がほとんどだったはずだ。湖の北側では、ほとんどその噂を聞いた事が無い。
「何かの間違いではないのか?」
「銅貨をまとめてぐしゃぐしゃに握り潰せる者など、優秀な戦士でもあり得ません」
「銅貨? その程度なら探せばいるのではないか?」
「確かに今は亡き『破鎧』の勇者ならばできたでしょうが……このアロケンの惨状を見る限り、信憑性は高いかと」
「まさか、この惨状はワラキアが!?」
続けてリーガンはエルフの集落であったことを報告する。
そこでミッチェルは時間的な無理を指摘した。
「待て、ワラキアが三日前にエルフの集落に居ただと? ならば今回の事件は無関係ではないのか? 噴泉が上がったのが三日前だぞ」
「確かに普通ではそうでしょう。ですが、奴のあの筋力が腕だけではないと考えれば、その日のうちにこの町までやってくるのは可能なはず」
「そのような非常識が……有り得るのか……?」
「それを可能にするからこそ、魔神と呼ばれているのでしょう」
通常ならば、リーガンとてこの惨事とワラキアを繋げる事はできなかっただろう。
だが、彼は実物を見てしまったのだ。
顔は隠していたが、平々凡々とした立ち居姿をしていながら、底知れないプレッシャーをかけてきた、あの男を。
彼も優秀な密偵である。あの面会の時、ワラキアを殺害して逃亡する選択肢も、彼には存在した。
だが彼の戦士としての本能が、なにをしても倒せないと言う事実を――恐怖を感じ取っていたのだ。
そしてミッチェルもまた、リーガンの実力は把握していた。
彼が断言するのだ、おそらく間違いはない――そう判断する。
「魔神ワラキア……その猛威がこの地にまで……」
呆然と呟くミッチェル。
この後、彼はアロケンの街の再建にのみ、尽力するようになった。
決してアロケンから出征せず、温泉街として再建する事に、全力を尽くしたのだった。
今章はシリアスな章ですので、7話程度で終わる予定です。