アバンタイトル
同人誌の意味が十八禁の漫画冊子と同じだという誤解は、公衆の中に根強く植え込まれている。同人誌を作っている、もしくはそれに大きく関わっている者からすれば憤然するに足る誤解だが、しかしその認識を拭うのはほぼ不可能だろう。
数藤椿は下校後の買い食いの途中、傍らにいる友人を見ながらそう考えていた。
その友人は無謀にも、教室に成人向けの同人誌を複数本持ちこみ、クラス中の男子に回し読みさせて仲間内で楽しんでいたのだが、誰かが先生に密告したのか、その全てを没収されてしまったのだ。物が物、そもそも未成年が持っていてはいけないものなので、返還されるわけもなく、友人は今もがっくりと肩を落としていた。
手に持っているたい焼きすら、ぐったりしているように見える程の沈みようだ。
「ちくしょう。一体誰がこんなむごいことを」
「先生だろ」
恨みがましい声色で悔しがる友人に、椿は即答する。しかし友人はそうではないと首を振った。
「違う違う。先生は役目を果たしただけだ。俺がむごいと言ったのは、密告した誰かだよ。チクらなければ先生もあんな面倒なことはしないだろ。見て見ぬふりをしてくれたはずだ」
「そうかもね」
椿は他人事のような口調で同意する。
友人は若干八つ当たりめいた目で、椿を睥睨した。
「お前な。同じ男子として、悔しいとは思わないのかね」
「若干は理不尽だと思うかな。二次成長期真っ只中の僕たちが成人向けのエロ冊子を持っているのは、法的にはまずいかもだけど、人間としてはこの上なく自然だと思うし」
「だろ!? だろ!? その証拠に、先生だって俺たちのことをあんまり怒らなかったしな! 『立場上はこう言わないといけないけど、男としては気の毒と思うよ』って雰囲気丸出しだったよな!?」
彼は興奮すると周りが見えなくなる性質で、少し自分の声が大きくなりすぎていることと、ここが新宿の真っ只中にあるカフェの屋外席だということを忘れているようだ。
心なしか道路を通る何人かが椿たちを見ている気がする。
「落ち着きなって。そもそもの話、教室に十八禁のエロ漫画を持ってきたキミが悪い」
「教室のみんなに勇者って崇めてもらいたくって」
「浅まし過ぎる」
「あとエロ本を持ってきたときの、クラスの女子共の『最低』っていう目線が気持ちよくって」
「最低すぎる」
「でもまあ、共学にも関わらず、性欲を隠しもしない俺のことを、快く思わない女子は恐らく多数派だっただろうし。となると、おそらく密告したのは女子の中の誰かだろ。変態的な嗜好のために、女子を不快にさせた俺の自業自得だ」
椿は自分の持っているたい焼きを飲み込んでから静かに首を横に振った。
「違うな。密告したのは女子じゃない」
「え?」
「あの同人誌は全部、男性向けだったからね」
「……はい? いや、だから?」
「先生は同人誌を全部束ねた状態で没収したから、キミは気付かなかったかもしれないけどさ。一冊だけ消えてたんだよ。同人誌」
同人誌を没収された詳しい経緯はこうだ。その日の三時限目は体育であり、生徒たちは教室を後にした。体育が終わり、全員が教室に戻ってくると、教室の前で担任の教師が男子生徒たちを待ち受けていた。
仁王立ちし、片手を腰に当て、もう片方の手には束ねられた状態の同人誌を持っている先生の様を、教室に帰ってきたクラスメート全員が目撃する。友人の顔からは血の気が引き、見事なまでに真っ青になっていた。
先生に襟首を引かれ、友人が職員室に連行されるのを、男子生徒全員は憐れむような目で見送る他なかった。
しかし憐みは『まあ、なるべくしてなったことだなぁ』という冷淡な共通認識により駆逐され、その日のハイライトとして語られるばかり。事件はこうして幕を閉じた。
ただし、ただ一人、椿だけはこの事件に違和感を覚えた。
「同人誌そのものを回収するのは難しくない。誰でも回し読みできるよう、鍵付きロッカーの中に入れずに、ロッカーの背後に同人誌を隠してたんだから。知っている人間だけが気付ける最良の隠し場所だ。誰もロッカーそのものよりロッカーの背後なんて気にしない。でも後で気になって、先生のところに確認しに行ったんだけどさ」
「……俺が持ってきた本数より、一冊少なかったのか?」
友人が挟んだ言葉に、椿は頷く。
「密告されて、回収したときには既に一冊なかったらしいよ? 他に同人誌らしきものは一切見つからなかったって。だから考え付いたんだ。この同人誌の密告は、密告者の偽装工作だったんだって。
まず密告者はキミが持ってきた同人誌の内の一冊を痛く気に入り、それをどうにかして我が物にしたいと思った。しかし金を払って譲り受ける、という通常の手段を取らず、密告者はある姦計を思いついた。
移動教室のときにこっそり同人誌の内一冊を自分のカバンか机の中に入れ、その後で先生に密告。先生が同人誌を回収して、キミを職員室に連行。形ばかりの手続きを終わらせる。
密告者の最初の計算は、先生が密告者の名前をキミに漏らすわけがないという先生への信頼だ。イジメが過酷になっている昨今、チクり屋の名前を安易に先生が漏らすわけがないからね。先生が同人誌の元の本数を知らないってこともポイントだった。
次に、二つ目の計算は、絶対に同人誌がキミの元に帰らない。故に没収された同人誌がキミの目に触れることもないってことだ。
元々が『未成年が持っていてはいけないもの』だから、先生がキミに同人誌を返すわけがないし、あの先生は表紙をわざわざ一冊ずつキミに突き付けて『おお良い趣味してんじゃないか』とえげつない精神攻撃をするようなタイプじゃない。キミが先生に『それは親が元々持っていたもので、戻ってこないと困るんです』と嘘八百を並べ立てるような人間でないことはクラスメートなら誰でも知ってる。『それじゃあ両親に連絡して、直接返すことにしよう。仮に単なる配達目的だとしても、十八禁の同人誌を十八歳未満の人間に持たせるわけにはいかないからね』と言われたら、悲惨すぎる公開処刑が始まってしまう。つまりキミが同人誌が没収された時点で一冊無くなってることに気付ける可能性はとても低いと、密告者は踏んだ。女子に蔑まれるのと親に蔑まれるのとじゃ、明らかに別種だ。キミも興奮しないだろう。
それと、密告者にとってこの持ち逃げ計画は『成功したらラッキー』程度の軽はずみなものだ。もしも同人誌の本数が一つ減ってることをキミが気付いて、誰か知らないかと周りに訊ねたら『ふふふ。実はうっかり隠し場所に戻し忘れてたんだ。いやしかしそれが今回、不幸中の幸いとなったようだね』と言いながら出せばいい。まず誰も疑わない。いやむしろ教室の男子全員が密告者に感謝すらするだろう。どっちに転んでも密告者はなにかしらの得はするんだ。
で、結果、キミが教室に帰っても同人誌を探すそぶりを一切見せなかったことに密告者は安心し、同人誌を持ち逃げすることにしたってわけだよ」
「お、おい! おいおいおい! なんだよその凶悪すぎる計画は!?」
友人はまたも興奮しはじめる。握力がたい焼きにかかっていることを彼はどうも自覚していないようだ。このままではたい焼きが可哀想だと思ったので、椿は友人をどうどうと宥める。幸い、中身のあんこが飛び出るような惨劇を未然に防ぐことができた。
「僕が没収された同人誌の本数を確かめた口実は『映画のチケットをなくしちゃったんですけど、もしかしたら同人誌の中にうっかり挟み込んでしまったのかもしれないので、確認させてくれませんか』ってものだったから、先生には感付かれてないよ。私利私欲のために利用されたってことに気付いたら先生が気の毒だし、なによりクラスメートが小規模とは言え犯罪に手を染めたことを公表したくない。」
「いや、だからって……」
友人は納得できないのだろう。
当然だろうな、と思ったので、椿はそれ以上、友人を焦らすのはやめにした。
鞄の中を探り、件の同人誌を取り出してみせる。友人は一瞬だけ呆気にとられた顔をした後、ほぼ反射的にそれを椿の手からぶんどった。
そして同人誌の表紙をしげしげと見つめながら、小さく震えはじめる。
「お、お前、これっ……!」
「もちろん密告者は僕じゃない。だって趣味じゃないもの」
「じゃあ、なんで!?」
「今回の場合、趣味じゃないって点が一番重要だ。よく考えてみてよ。密告者は同人誌を痛く気に入ったから犯行に移したんだ。つまり、回し読みの時点で、その同人誌を熱心に読んでいた人間こそが密告者ってことになる。僕の覚えている限り、その同人誌を流し読みなんてレベルじゃない程に、食い入るように見ていたヤツは一人だけだ」
友人はしばらく逡巡した後、頭を激しく横に振って否定する。
「ダメだ。思い出せない。この生もの同人誌『イグイグさー』を熱心に読んでいたヤツが誰だったのか」
「酷いタイトルだな」
苦笑してから、椿はこともなげに続ける。
「もう思い出す必要もないでしょ。戻ってきたんだから」
「そうだ。お前、なんでこれを取り返せたんだ?」
「今の推理を密告者相手に、いかにも『僕はお見通しだぞ』って表情で語ったから。ダメ押しに『なんなら先生に今の推理を披露してもいいんだぞ』って言ったのが止めになったな。密告者こそが犯人なら、先生は犯人を知ってる。あと、わざと冷静さを失わせるような口調でまくしたてたから、相手は『しらばっくれる』っていう初歩的なコマンドすら打たなかったよ。絶対にこのことを誰にも言わないってことを約束したら、密告者はあっさりと同人誌を渡してくれた」
「……」
友人は、同人誌をカバンに仕舞い込みながら、感心しきった顔で椿の顔をじろじろ見る。どことなく居心地が悪い。
「なに?」
「お前、同人誌は複数あって、その全てを同時に、クラスメートの男子全員で流し読みしてたんだぞ? 誰がどれを、どの程度の熱意で読んでたなんて、本当によく覚えてたな?」
「たまたまだよ」
友人は思う。それは明らかな謙遜だと。
仮に椿本人が本気でそう思っていたとしても、間違いなく彼の注意力はずば抜けている。悪く言えば人一倍疑り深いという言葉に尽きた。
小学生のころからの付き合いだった友人は、彼のこんな面を何度も目にしている。かくれんぼで鬼になれば百発百中の精度で対戦相手を殲滅し、匿名のラブレターがあれば一瞬で差出人を看破し、電車のホームで死にそうな顔をしていたOLが線路に身投げしようとするのを直前に防いだこともある。
しかし彼はその注意力を一向に悪用しようとはしない。その注意力を持ってすれば、人一人を簡単に破滅させたり、意のままに操れる奴隷に変えたりもできるはずなのに。
「俺がもし将来社長になったら、お前を人事部の部長に任命してやろう」
「遠慮しておく」
「はははっ。お前って本当に欲がないな」
「……」
友人のその冗談めかした評価に、椿は曖昧に頷く。
「ん。どうかしたか?」
「いや。なんでもないよ。たい焼きの包み紙を捨ててくるね」
逃げるように椿は立ち上がり、店内にあるゴミ箱へと向かう。しかし。
「あっ」
「うおっ!」
店内から慌てた様子で出て来た男と正面から激突してしまった。ラフな格好をした男は一言すまないと言って、すぐにまた早歩きでその場を離れていく。
この店は先払いなので食い逃げなどではないことは友人にも一瞬でわかる。だが、少し妙な男だった。何かを抱えているかのように猫背なのだ。
「なんだあいつ。椿、大丈夫か?」
「ああ……あー」
友人の心配に応えたわけではなく、椿は店の中をぼんやりと見つめていた。
怪訝に思って友人も中を見てみると、今度は椿が何を考えているのか友人にもわかった。
「あー……なるほど。トイレね」
そういえば先ほどの男は、店員に脇目も振らずにトイレへと直行した。だが、おそらく『大』の方だったのだろう。そして個室は全て、既に誰かに使われている最中だったのだろう。
だから猫背だったのだ。痛みに疼く腹を押えていたのだから。急いでる割に走ってなかったのも、要は下半身周りの筋肉を無駄に動かせないからだ。
「あ……いけない。さっきの人、なにか手帳みたいなの落としてっちゃったよ」
尻もちをついたまま、椿はその黒皮の手帳のようなものを弄ぶ。手帳にしては少し重いそれの表紙には、海亀のような意匠が施してある。ダイヤモンドのような形にカットされたガラス玉が海亀の甲羅のところどころに張り付けてあり、どこか荘厳な雰囲気を感じさせる手帳だった。
「おいおい。さっきの人、もう見えなくなってるぞ。交番に届けるか?」
「いや。大丈夫。どこに行ったかはわかるから」
「お?」
椿は立ち上がり、店とは反対に向き直って上の方を指さす。
「あの人の視線、ちょっと上の方を向いてた。その視線の先にあるもので、尚且つトイレがありそうな場所は、あの新宿キングダムホテルしかないよ」
「あー……?」
友人もその指の先を見てみるが、だが段々と疑問に首が曲がってくる。
新宿キングダムホテルは十階建ての高級ホテルで、ここいら一帯の宿泊施設の中では最も大きい。しかし、絵に描いたような高級志向なので、宿泊代は一般人には少し手を出しにくいものだ。
あの男の服装はどう考えても、そんな施設に似つかわしくないラフなものだった。
「まあトイレ借りるくらいなら一般人でもするでしょ」
「そうかぁ?」
「あそこまで追い詰められてたら見境なくなるだろうしさ。それじゃあちょっとひとっ走り行ってくるね」
ゴミを捨ててから荷物を纏め、また明日と友人に挨拶をしてから、椿はホテルへと駆けだした。
そのとき、ふと友人の言葉を思い出す。お前には欲がないな、というあの言葉を。
ある学者に曰く、生きることは病であるという。
しかし、彼の中には、病と言えるような欲求も、渇きも、飢えもなかった。
あるいはそれこそが病だったのかもしれない。彼自身、渇きも飢えもない現状に、なにか寂しさを感じていたのだから。
***
カーテンを閉め切った部屋の中。
ずるりずるりと音がする。
床に引きずられるのは一人の男。力の抜けた両足を持ち、部屋の中を幽鬼さながらの不気味さを伴いながら歩くのは、とある一人の殺人者。
その者は一人、薄く笑う。
「完璧ナ……アリバイ……ツクレル……コレデ……」
そして引きずる音が止んだかと思うと、一瞬だけバチリと音がして、それきり音はしなくなった。