プロローグ『嘘のような現実』
プロローグ
「事実は小説よりも奇なりで、嘘のような本当の話だ」
イギリスの詩人ジョージ・ゴードン・バイロンが後世に残した作品のひとつに出てくるワンフレーズである。
たしかに現実は奇妙なものであるが、そこまでぶっ飛んでいるわけでもなく、気にしなければ、刻々と時を刻み悠久の時の流れの中に全てを押し流していってしまう。
当たり前の日常、当たり前の光景。これを見て育ってきた人間には、バイロンの残したワンフレーズこそ信じがたい奇妙なものなのかもしれない。
しかし、それもほんの一瞬の出来事から、バイロンの残した言葉を信じることになるとは、当たり前の日常を生き、学校に通う普通の高校2年生の西條悠一は、この時まだ気づくはずもなかった……。
濛々とした暑さの片鱗を見せつつある初夏の夕暮れどき、いつものように悠一は学校からの帰路に着いてた。彼の通う雨ノ宮学園から自宅までは徒歩約10分の距離。普段ならまっすぐ家へと帰る彼なのだが、その日は何故か違っていた。
ある本を買いに帰宅ルートから少しはなれた場所にある書店に立ち寄るために寄り道をしていたからである。
悠一が手にとったのは、『機械仕掛けの恋歌』と書かれた文庫本で、表紙は至って質素でいくつかの歯車が描かれているだけ。いわゆるお硬そうな本だ。普段から、あまり読書という行為をしない悠一にとっては、全くを持って縁のない本である。
では、なぜそんな彼が本、しかも、お硬そうな本を買ったのかというと、2つ年下の妹、西條紫に頼まれたからなのだ。悠一はシスコンなのかという疑問が沸いてきそうだが、彼自身それを否定している。
というのも、西條紫という少女。本という物体以外に興味を示すことが滅多にない。そのため、口を開けば、「本が読みたい」や「お腹が減った」などという単語の2、3両編成ぐらいしか出てこない。
今年で、中学3年生。もっと様々なことに興味を持って欲しいと思う兄、悠一であるが、先ずは、妹の数少ない興味の先である本を買って帰ることにしたのだった。
何はともあれ、お目当ての本を買い、いつもの帰宅ルートへと戻っていく悠一を一台の真っ赤なスポーツカーが追い抜いていく。
あまり車に関して詳しくない悠一でも、その車をついつい横目で追ってしまうほどその車は他と違って異質だった。流線形の滑らかなラインを描く車が増えてきたこのご時世に逆行するかのような直線なデザイン。それでていて、大人女性のような妖艶さ。何よりもその低い車高は1台車を挟んでしまえば完全にそのスポーツカーが見えなくなってしまいそうなほどに低い。
「高そうな車だな……」
ポロっと悠一の口からその言葉が漏れた。このあたりでは見たことのないその紅い車はゆったりと減速していき、路肩にハザードを点灯させて停車した。
「……?」
このあたりは閑静な住宅街。店と呼べるような場所はなく、あるのは一般的な民家。そのような場所に場違いな真っ赤に輝くスポーツカーが停車したことに悠一は少なからず疑問を持たずにはいられなかった。
この近辺であのような車を見たことが無かったので、ここら辺の人ではないだろう。ではなぜ停車したのか……。
不思議に思いつつも自宅へと向かう道を歩いていく悠一。
プシューっという空気が抜けるような音ともにスポーツカーのドアが上向きに上昇する。ルーフを支点にドアが開く様は白鳥が羽ばたくことからガルウィングと呼ばれている。ますます異質さを放つその車の中から、スラっとした女性の足が伸びる。
紅いハイヒールに白い陶器のように澄んだ肌の脚。ひと目でそれが女性の足だと直ぐに分かってしまう。車の中から現れたのは、真紅に輝く長い髪の少女。身長は175センチもある悠一より少し小さいぐらい。紅い髪の毛を結ったポニーテール、少しキツそうに見えるつり目の瞳は赤とは対照的なサファイヤのように青く輝いていた。
何よりも、悠一が驚いたのはその容姿だった。どこから見ても分かる端正な顔立ちは彼と同い年のように思えるのだが、どこか大人の女性のような優美さを醸し出していた。
「あなた。西條悠一君であってるかしら?」
赤く妖艶な唇が発せられたその美しい声色に悠一はビクりと反応し、あと少しで右手に持っていた本が入った紙袋を落とすところだった。目の前の彼女のその青い瞳はしっかりと悠一を捉えて離さない。
悠一にとってやけに冷たく感じる風が通りをゴウッと吹き抜けていく。
「あなたに聞いているのよ? あれ? 日本語間違っていた?」
顎に白く澄んだ手を挙げて小首をかしげる少女をみて、こんな状況に置かれた悠一はどこか美術館で一枚の美しい絵を見ているかのような不思議な感覚に陥りながらも辛うじて生きている思考回路の一部で口を動かす。
「あ、ああ」
もはや、言葉とは言えない音が唯一出せた単語だった。
「なんだ。分かっていたのなら答えてよ。日本語が間違っていたかと勘違いしちゃって損したわ」
少しふてくされた様な表情を取りつつも赤髪の少女は良かったわといった感じに軽い足取りで悠一の元へと歩いていく。
「き、君は?」
「私? そうねぇ。私の名前はイリス」
「イリス……?」
「ええそうよ。イリス・ロードナイト。この世で初めて自我を持った車。この私に与えられたたった一つの名前よ。覚えてくれたかしら?」
腰に手を当て、自慢げにそう話すイリスの口から発せられたのはとてもじゃないが現実的ではなく嘘のような、まるで小説の中の奇妙な物語の始まりのように悠一には思えてならなかった。