英雄の娘、剣を振るいます
恐ろしいことに、私が事情を告げるなり母は「ああ」と言い放って走り出したのだ。
まさかとは思うが、彼女の居場所を知っているのだろうか。そうとしか思えない。私は母の背中を追って走るが、さすがに俊足だ。下手な駄馬にまたがるよりも速いのでは、と思うほど母は素早く地面を蹴りつけて夜の闇の中へ消えていこうとする。
私はそれに追いすがろうとするのだが、見失わないだけで精一杯だ。全く我が母親ながら恐ろしい。これで四十前というのだから、恐れ入る。
しばらく走ったところで、彼女は一軒の家を発見して即座に殴りこんだ。既に剣は抜いている。躊躇がない。
下手をすればただの強盗と間違われ、斬殺されても文句はいえないというのに。怒りでそうしたことを忘却しているのかもしれない。あの母ならあり得る。
「母様」
「スムちゃん、そこで待って」
追いついた私を、母が止める。
まさか、間に合わなかったのだろうか。あの鍛えた女性剣士の顔は、既に焼かれてしまっていたのだろうか。
私は心配になったが、母の言うとおりその場に足を止める。くるりと彼女が振り返り、にっこり笑った。
「彼女はここにいないみたい。けど、誰かがきた形跡はある」
「それは」
すでに拉致されてしまったということなのではないか?
嫌な想像が私の頭をかすめる。しかし、母はそれを否定した。
「部屋は荒らされているけど、争った跡ではないわね。つまり、最初から彼女はこの部屋にいなかったということになるんじゃないかしら」
言いながら、エイナ・エテスはすたすたとこちらに戻ってきて、その途中でついと振り返って剣を抜いた。
「見張りを残していくくらいだから、きっとまだ彼女は無事よ。ルニカ・ダチェットはね」
「それが、彼女の名ですか」
「ええ、調べたもの。さ、出てきなさい見張りの人。私は見てのとおりスムの母親、エイナ・エテス。私の顔を酸で焼こうとしていたんじゃなかったの? かかってきなさい」
なんでもないことのように言って、彼女は暗がりの中に挑発的な言葉を投げた。
女性剣士、ルニカの帰りを待っていただろう襲撃者たちに対してわざわざ自分の正体を教えたのである。これで彼らはこちらにかかってこざるを得なくなった。そうしなければ彼らの依頼者への顔がたたなくなる。
とはいえエイナ・エテスの外見は非常に若い。ぱっと見ただけではどう見ても三十代前半がいいところなのだ。彼らとしてもあれがスム・エテスの母親であるとは信じられないであろうな。
そう思っていたが、彼らはあっさりと母に襲い掛かった。エイナ・エテスが若く見えるというのは子の欲目だったか。
あっという間に母に男たちが群がる。襲撃者は四名おり、それぞれが剣を手にしている。誰か一人は酸も持っているのだろう。
それでも母は全くあわてずに片手剣を軽く掲げて腰を落としただけだ。
エイナ・エテスはスリム・キャシャから直々に教えを受けた剣士なのだが、襲撃者たちをそれを知らないのかもしれない。
それも(本人が言うには)、最もスリムから寵愛を受けた彼の実子だというのに。
実際、母の持っている剣はそこらの武具屋で売っている数打ちに過ぎない。鎧を切り裂く力も、酸に抵抗するような力もない。しかし、彼女は最低限度の力で人を殺傷する術を知っている。知り尽くしている。
身の程を知らずに母を襲った四人は、その術を自らの身体で知ることになる。
最初に飛び掛った男はまず、咽喉を裂かれた。痛みを感じる暇もなく彼の身体は崩れ落ち、その場に倒れこむ。彼の身体が地面につかぬうちに、二番目の男がうなじを切り込まれた。
あっという間に二人が殺され、地面にへばりついてしまう。
残った二人はそれにすら気づかなかったのか、あるいは気づいていても突進する足を止められなかったか、母の横を通り過ぎていく。しかしすぐに足を止めて、周囲を見回す。四人同時に打ちかかったのに、先頭二人が突然倒れ、目標を見失ったのだ。うろたえるのも無理はない。
残念ながらそうした動きを母は見逃さない。背後から首筋を切られて、さらに一人が倒れる。
最後の一人は慌てて懐から何かを取り出そうとしている。恐らく、切り札の酸だろう。相手を殺傷することができずとも、これをひっかければそれだけで目的は達せられるのだから頼りたくなるのかもしれない。剣の一撃よりも、受け止めにくい酸の投擲は非常につらい。盾がなければ対処は困難を極める。
彼もそのように考えたのだろう。最後の一人になった襲撃者は、せめてエイナに酸をかけてしまおうと狙いを定め、広い範囲にばら撒くように投げた。
顔にかかれば最もよいが、そうでなくとも服につくだけでそれを焦がし、その下の皮膚にまで熱傷を負わせるのだ。酸は、強力な武器である。
だがエイナ・エテスはほんの一瞬で相手の懐にもぐりこんでいた。敵が腕を振るよりも素早く、彼女は踏み込んだのだ。
自分の手元にまでは酸を振りまけない。つまり、母は無事である。どこにも酸を浴びていない。彼女は容赦なく、敵の咽喉に剣を見舞った。それで襲撃者たちは全滅する。
「母様、お怪我は」
「かすり傷ひとつないわね、残念だけど」
母は大きく剣を振り上げて、鋭く血振りをした。この動作は、彼女が好んでする動きの一つだ。スリム・キャシャがやっていて、それに憧れてするようになったのだとか。
剣を鞘に戻し、母は私に向き直った。
「ルニカについて、スムちゃんは何か知らないの?」
「そうおっしゃられましても。……そういえば、ケウアーツァ殿下に彼女を推挙しました」
「それだわ、きっと」
ああ、とため息を吐いた。それから何か考える様子を見せた後、こう言い放つ。
「ルニカは恐らく、王女殿下に雇われてどこかで歓待されているわね。となると、これ以上心配しても無駄。
スムちゃん、リジフ・ディーを殺しにいきましょう」
「母様、彼がこの襲撃を指示した証拠がありません。私たちに彼を誅殺する権限はないと思われます」
「でもクサい臭いは元から断たないと、どうしようもないわ。あのクサレ外道は、スリムの血を引いているくせに女を壊そうとしているじゃない。女性を大事にするのが彼の教えであるというのに。
あいつは血族の恥ではないかしら?
スリム・キャシャの血を引く者として、私たちは彼を断罪しなければならないと思うの」
「しかし」
私はなんとか母の凶行を止めようとしたが、
「スムちゃん」
と呼ばれて、その行動の無意味を知った。
完全に母は怒っている。というよりも、堪忍袋の緒が限界らしい。
「メリタ嬢が顔を焼かれたのは、見たでしょう。あれは恐らく、跡が残るわ。もう取り返しがつかない」
「はい」
「彼女のことが好きなら、スム、あなたも怒ってみせなさい。それも男の気概です」
無論私も怒っている。怒っているが、あまりにも母が凄まじいので怒りを見せる暇がない。むしろ彼女を宥めなければならないと感じている始末だ。
メリタが傷を負わされたということに変わりはない。顔に深い傷跡が残るだろう。火傷の跡はひどく目立つ。
この事実だけでも胸が痛む。そしてこのような卑劣な真似をした襲撃者と、それを指示した人物に対して憎しみの炎が燃え上がるが、それが誰であるのかは確定できないのである。
エイナ・エテスのいうようにリジフ・ディーが怪しいのだが、確実ではない。怒りに任せて彼を切り殺し、その郎党を鏖殺したところで無実であることがわかるかもしれない。そうしたら、取り返しがつかないのである。
つまり今、私には母の提案に乗ることができない。といって、とめても無駄。
どうすればいいのかと考え、私は口を開いた。
「母様、城へ参りましょう」
「どうしてかしら」
「これほど大々的な攻撃を敵が行ってきたということは、ややもすれば王女の身すら危険でないといえません。また、我々の報復を彼らが予想していないとも限らず、闇雲に突撃したところで無為に終わるかと」
「そうね。そうかも。よろしい、城にはあなたが行きなさい、スム」
「母様は?」
「私はこれからのことを少し考えるわ……あなたの邪魔はしないつもりよ」
多少は落ち着きを取り戻したのか、母が首を振った。踵を返し、酒場に向かって歩いていってしまう。
「私一人では、親衛隊以上のことはできません。一緒に戻りましょう、イリスンやジャクも宿にいるはずですから」
「そう。じゃあそうしましょうか、スム」
私は少しだけほっとした。母の後を追いかけて歩き、宿に戻る。
メリタのことが気にならないわけではないが、親衛隊が来てくれているのだからそれほど心配するには当たらないだろうと考えられる。その程度で手薄になるほど王女も人手が足りていないわけではない。
ジャクとイリスンの近くにいるほうが有意義だし、今後のことを考えなければならない。
「キコナはどこに保護したのですか?」
「大丈夫よ、彼女は彼女で色々とツテがあるみたいだし」
適当なはぐらかしを受けた私はそれ以上の追及ができなかった。そのまま二人で宿まで無言だった。
母の怒りは消えておらず、私も様々な不安があったので周囲を警戒しながら歩くだけで時間が過ぎた。