あの時世界にいたちっぽけな僕
電車がホームに到着する。
プシューという間の抜けた音と共にドアが開く。
乗り込もうとした瞬間、目の前の女性が目に映る。
ピンク色のコートに、白い清潔なブラウス。
一見しただけで、その女性が泣いていることがわかる。
目を真っ赤に腫らし、微かに震えているようでもある。
気づいたように我に返り電車から降りる。
一度だけ会ったもう二度と会わない人、
その人の人生にあの時何があったのか僕は知らない。
そして、心を駆け抜けた一瞬の旋律はもう僕の身体を通り過ぎている。
僕は小さい頃からのガキ大将だった。
東北にある田舎町には、娯楽と呼べるものがほとんどなく
無尽蔵に溢れている自然をうまく格好の遊び場にする能力を持った、
そしてそれを引っ張っていくお山の大将がどうしても必要だったのだ。
僕は気がついたらそのポジションにいた。
立候補したわけでも、悪友に推薦されたわけでもない。
リーダーは生まれたときからリーダーだって確か偉い人が言っていたけど
おそらくそういうことなのかもしれない。
東京の人は田舎に対してある種の偏見を持っている。
それは、田舎の人は村人全員と顔見知りだとか、隣家までの距離が遠いから
その分声が大きくなるとか、あるいは大抵の停留場は誰々さん家前という名前がついているとか。冷静に考えるとあほらしいことを都会の人はぼんやりと思い描いている。
そんなわけ無いのに。
でもそんな都会の人が持っている偏見の中で唯一正しいものがある。
それは、「田舎の人は、東京の人はほとんど無愛想で冷酷だと思っている」ってことだ。
それは間違いない。
僕は小さい頃からばあちゃんにうんと聞かされた。
もし東京にいくことがあったら、あそこに住んでいる人は大抵が血も涙も無いロボットのような人ばっかりだから、十分に用心しーしゃいって。
あれから、12年僕は今でもその教えが間違っていなかったって思う。
東京に来て初めての日、僕は近くの銭湯にいった。
そこでは背中に落書きをした不機嫌そうな大人がたくさんいて
僕は思わずたじろいでしまった。
田舎では一番強いのは僕だった。
いっこ上の竜兄よりも、同い年で身体が一番大きかったたけひこよりも
僕は喧嘩には自信を持っていて、実際誰にも負けなかった。
そんな僕が、思わずひるんだ。
でもそれも当然だ。ばあちゃんの話だとこの人達はいつもピストルを持ち歩いていて
機嫌が悪いとすぐ人を撃っちゃうらしいのだ。そんな人にびびらないはずがない。
僕は弱虫じゃない。
女の人にだまされたのは、東京に来てから一年近くが経とうとしていた冬の終わりだった。
僕は闇の中に閉じめられた小動物のように身動きが出来なくなり、
ありとあらゆる生気を奪い取られた上で捨てられた。
何もかもがばあちゃんの言うとおりだ。
そう思えた。
杖をついたおばあちゃんに道を聞かれても
逃げるように素通りした。
電車の車掌さんでさえ、身なりを整えた詐欺師のように思えた。
警官が、公然とうろつくマフィアに見えた。
町全体が淀み、軋み、メリメリと音を立てて崩れていくように感じた。
全てはパレットで作ったようにリアルの無い色合いで構成され、
必死に自己主張する原色のように、不自然で不恰好に思えた。
中央線中野駅のホーム。
ごった返す人ごみの中、背を丸めうずくまる。
誰も僕に声を掛けてくれるな、と願いながら。肩を震わせる。
何がリアルで何が信じられるのか。
雑踏の中、必死に耳を凝らした。
聞こえてきたのは、空気中を浮遊する心の無い笑い声、怒り、悲しみ。
重みの無い足音が近づき、僕の肩をトントンと叩く。
あの時、泣いていたピンクのコートを着た女性のように
僕はあなたの人生のどれほどなのだろう。
めくられゆく日めくりカレンダーと同じように
使われ、破られそして忘れられていく。
世界の主人公だと思っていた自分は、エンドロールにすら
名前が載らないエキストラで、
自分が発したメッセージは、周りの雑音にかき消されていく。
あの時世界にいたちっぽけな僕は、今でも変わらずちっぽけなままで
ただちっぽけだと気づいた分だけ、大人になっただけ。
色を持ちすぎた世界は、鼻をつまんでしまうほど強烈な異臭を放ち、
色を失った世界は、人が生きている実感をまざまざと奪う。
自分の部屋に帰り、台所に嘔吐する。
酸っぱさに混じった懐かしさが、故郷のばあちゃんを思い出させる。
「ちゃんと食べてるかえ。」
頭の中をリフレインするその声だけが、
僕にとってこの世界における唯一のリアルだった。
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