色こそ見えね 香やは隠るる
時は、王朝文化華やかなりし、頃。
都で権勢を誇る左大臣には、三人の子供がいた。
ひとりは、跡取りとして有能であり帝の覚えめでたき長男、頭中将。
ひとりは、華やかなる後宮にて、帝の寵愛深き麗景殿の女御たる一の姫。
ひとりは、ひっそりとしかし美しい姫と評判の、二の姫。
二の姫は一の姫に勝るとも劣らぬといわれるその美貌や教養で、素晴らしい方だと、噂に名高く、毎日文がひきもきらずとどいていたそうな。
「姫様、そろそろお文をお返しするだけでは限界でございますよ」
乳母である桂がそう声をかければ、姫は憂鬱そうに扇で顔を隠しながら溜息を漏らす。
「方々をお止めするにも、限界がございます。どうにかいたしませんと」
このままでは嫁き遅れになりかねない、と、言い募る乳母。
「……だって、こういっては失礼ですけれども、皆様――」
ぽつり、と、姫の鈴の音のような口から、言葉が零れる。
再び溜息。ゆるりと姫がかぶりを振れば、絹の如き黒髪が、流れるようにさらりと床に扇を描く。
「ええ、わたくしだってわかってます。わかってますの。知識としては理解しておりますの。でも! 理解しているのと、耐えられるかは別物です……」
ふらりと身を伏せ、儚げに震える様は、天女もかくやという風情。にも関わらず、口から零れるのは、不可思議な言葉。
それをうけ、しかし、どこか哀れむように乳母は頷く。
「姫さまのご配慮で我らもその恩恵に預かっておりまする故、お気持ちは幾許かはわかるつもりでございます。が、よそはそうも参りますまい。わがままをもうされるのもほどほどになさいませ」
「……桂ぁ」
しくしくと哀しげに顔を伏せながら震える姫に、乳母は容赦のない一言。
「かくなるうえはどなたかにお決めになり、その方のお屋敷にて北の方様としておさまられてのち、ご自由に采配を振るわれるしかございませんでしょう」
「けれど、父上様は、私を入内させたいとおかんがえなのよね」
「それは当然でございましょう。今をときめく左大臣様とはいえ、右大臣さまや大納言様たちの権勢も侮れませぬ。姉君さまの麗景殿の女御さまが帝のご寵愛を賜っているとはいえ、国母にはなりえませぬ。幸い今の東宮さまは未だお若い。東宮様の元へ入内と考えられても、なんらおかしなことではございませぬ」
「……でも、絶対、後宮ってく」
「それ以上はおっしゃいますな」
呆れたように乳母が言葉をさえぎれば、どこか不満そうに頭を揺らす。
「姫さま、そろそろ腹をお決めなされませ」
姫さまは御簾の影で、ひとり深々と溜息をついたそうな。
その夜。
西の対の姫の元へ、忍ぶひとりの影。
「おやめになりませんか……」
ひっそりと止める乳兄弟の言葉に笑いながら返す男がひとり。
「なんの、あれほど頭の中将が隠す妹姫よ、気にならぬわけがない」
「だからこそ、おやめになったほうがよいとおもうのですが……」
「秘されれば秘されるほどに気になるのが男のさがというものよ。香をたづねてぞ知るべかりける、とね。さて、姫の部屋はこちらかな」
「ああ……あとから頭の中将に文句いわれるの、私なんですからね」
機嫌よく歩を進める主の背後に従いながら、溜息を漏らすのだった。
「もし、姫よ。もし」
なかなか頷かぬ女房たちを懐柔し、やっと篭絡できたひとりの手引きで忍びいった姫の部屋の前。
御簾越し、更に記帳の向こうにいるらしき姫に向かい、男は静かに声をかける。
僅かに聞こえるは衣擦れの音。
人の身じろぐ気配に笑みを深め、男はそっと御簾に手をかける。
「美しき姫が居られると風の便りに聞きました。文を送り、夢路を渡るのみでは耐え切れず、こうして忍んでまいりました。どうかこの哀れな男に、声のひとつ、影のひとつなど見せてはくださいませぬか」
ことさらに優しく、そう声をかけ、ゆっくり御簾を上げて中へ入ろうとする、が。
「お許しくださいませ……どうか、どうか」
男は息を飲む。、まるで鈴の音のように涼やかな愛らしい声。それが震えながら聞こえてきたのだ。
ああ、どれほどの美しい姫がおられるのだろう。その声で名を呼ばれればどれほどの幸福か。
おさえきれぬ思いのまま、ぐっと踏み入った男の視界の端で、姫が奥へと逃れようとする姿。
さらりと流れるはぬばたまの髪。美しきそのさまは、闇の中にあってなお、男の目に艶やかに映る。
「ああ、どうか怯えないでください。貴方を怖がらせたいわけではないのです」
優しく声をかける、が、応えはなく。
微かにみえる人影は、ふるふると震えるばかり。
「お許しくださいませ……どうか、それ以上は」
涙に濡れたその声に、男はこれ以上進むことを断念する。
その涙に濡れるさまを抱きしめて、慰めて差し上げたいと想う反面、これ以上怯えさせてしまうのも本意ではない。
ひとによってはそのまま押し切るのかもしれないが、それは男の趣味ではなかった。
今日はその声をきき、その美しき髪をみることがでいただけでも重畳というものか。
男はひとつ溜息を漏らすと、長く緩やかに床に流れ離れた男の元までもある美しき黒髪の、その端にそっとふれる。
びくり、と、震える姫の様子が目に映る。
その髪にそっと唇を寄せる。――漂うは麗しき香のかおり。なじみあるそれのはずなのに、どこか柔かなその香りに、男の胸がうずく。
――このまま抱きとめて、浚ってしまいたい。
沸きあがる衝動をぐっと飲み込み、男は口付けを終えて離れる。
「文、を、また差し上げたく存じます。――どうか、返歌をくださるとお約束くださいませ」
姫が頷くのが気配でわかる。
静かに男は微笑むと、ゆっくりとその場を離れる。
まっていた乳兄弟の元まで歩み寄ると、僅かに苦笑を浮かべる。
「色こそ見えね 香やは隠るる――か」
、呟きながら、男はその場をあとにした。
――そんな艶めいた男の心もしらず。
(ああ……っ、びっくりした、けどっ! それ以上に辛かった、凄く辛かった。あの距離でギリギリ限界、超限界。わかってる、わかってはいるのよ? そうそうお風呂に入れないというか、そもそも湯船につかる、という文化がまだないのよ。行水と、恵まれた所で蒸し風呂よね。だから香文化が発達したわけで。それでも公家の皆様はマシなんだろうとは想うわ。我が家だって。兄上さまたちとか父上さまは、私のおねだりで大分改善されてるし。でも、割りと気合でお風呂はいれる環境つくっちゃったけど、それでも毎日は難しいし。他所だとどんな状態やら――っ、やっぱ無理、無理無理無理。私この世界で、結婚とか絶対むりだって! 夜這われた段階で拒絶してしまう。気を失うくらいならいいよ? いや気をうしなったらヤられちゃうからあまりよくないかもだけど! そもそも私、この時代の姫にしては栄養バランスいいはずだからそうそう気絶でいないけど! もし、夜這われて、耐え切れなくなって殴っちゃったり、あまつさえけっちゃったりしたらどうしたらいいのよーぅ!! もうもうもう、私、尼寺にいくしかないのかしら? そうね、それがいいわ、そうしよう、明日にでも乳母にそうだんしましょう。尼になれば髪もきれるし! そしたら、髪を洗うの楽になるし、お寺ならお風呂設備ある場合多いし! 最初我慢して、徐々に環境整えればきっとマシになるはずだし! それが一番だわ!)
そう、決意していたそうな。
左大臣家の二の姫である彼女は、実は現代日本から転生だかタイムトリップだか、憑依だか、詳しくはわからないけれども、とにかく、気がついたらこのまるで平安時代のような平安時代もどきのような世界に、赤ん坊として生まれていた。色々苦痛やら不自由の多いこの時代を、我慢したり我慢したりこっそり周囲だけ改善したり我がままいったりしながら生き抜いて、早幾時。
なんとかいろいろをかいくぐってここまで来たけれど、今、人生最大の危機(彼女的に)をむかえていた。
果たして、姫の出家はかなうのか。
男は一体誰なのか。
それは、神のみぞしるところであるのでした。
おわり。
◆引用した和歌◆
古今和歌集 凡河内 躬恒
月夜にはそれとも見えず梅の花
香をたづねてぞ知るべかりける
春の夜の闇はあやなし梅の花
色こそ見えね香やはかくるる