Grim Reaper - live
消え入りそうな声に気づく者はいない。
小さな姿の行く末に目を向ける人もない。
ひとつの命がなくなろうと、世界は何も変わらない。
柏木秀樹の手は汚れていた。
あたたかい血が冬の空気に触れて冷たくなってきた。膝の上の野良猫は、見かけよりも軽い。冬毛に生えかわっていたから、大きく見えたようだ。ふんわりとした毛並みはいま、身体に貼りついてしまっていた。ささえる秀樹の手のひらは、小動物の体温を近く感じとっていた。
ぬめる雫が靴の甲に赤い点を作る。
秀樹は歩道の脇の狭い花壇に腰掛けていた。道路からそこまで、野良猫を運んできたのだ。赤い線がガードレールをまたいでいた。
動物の事故。
以前なら、気にも止めなかった。車に引かれた動物なんて、すぐに記憶から消し去っていた。保健所にも連絡せず、汚いものを避けるように通りすぎていた。
そうしなくなったのは、自分の異常性に気づいてからだった。
秀樹の前を中年の男が通り過ぎる。彼の手の中に血塗れの猫がいると気づいて、気持ち悪いものを見たという顔で足早に遠ざかった。
その男の顔に、秀樹は二つの針を見ていた。
時計である。
物心付いたとき、秀樹には他人の顔にアナログ時計が見えていた。長針と短針の刻みが見えるのである。
そのことを話したとき、両親は困ったように首を振り、友だちはおかしなヤツだと言った。それ以来、口を閉ざした。だが、見えなくなりはしなかった。
膝の上の小動物にも時計があった。今にも止まりそうだった。それが、わかる。異臭が鼻につくようになっていた。
死を、見つめる。
間もなく、この世から消えてなくなる存在を見つめた。時の刻みがゆっくりとなる。
停止するその時まで、小さな生命を見つめ続けた。
やがて、時計が最後の時を刻んだ。
重い。
この世に残った死の重みが感じられた。野良猫の死を知る人間は自分だけだった。通りすぎる人も、学校のクラスメイトも、世界中の誰も、知らない。
秀樹は猫を抱えて立ち上がった。彼に気づいた通行人が、気持ち悪いと言い捨てて唾を吐いた。悲鳴を上げて逃げ出した女もいた。
彼らは、いつか自分が死ぬ現実を知ろうとしない。死んだものに対して、嫌悪の感情しか抱かない。死にたくないから、死から遠ざかろうとするのだろう。
秀樹は猫を埋められる場所を探して歩いた。近くに公園があったことを思い出し、足を向けた。
公園には、ホームレスがいた。彼らは、一様にうろんな目を向けてきた。
秀樹は彼らの顔を直視して会釈した。そんなことをされたことがなかったのか、彼らは戸惑いながらも頭を下げた。
「どうした坊主」
ひどい臭いのする老人が声をかけてきた。
「お墓を作りたいんです」
黒くすすけた顔が汚かった。よれよれの衣服が黒ずんだ汁を吸っていた。靴は風通しが良さそうだった。
「くせえな」
老人は秀樹が抱えた野良猫を見た。秀樹は黙って目を落とした。
「こっちに来い。埋めてやる」
「え……はい」
秀樹は顔を上げて返事をした。老人は先に立って歩いた。林の奥へと向かっていった。ホームレスの男たちが多く目に付いた。
「あ」
少し開けたところに、人だかりがあった。錆びたスコップを持った男が何人かいた。
「一緒に埋めてやる」
近づいていくと、青白い顔の男が横たわっていた。その横の穴は、人間の大きさだった。
「止まってる」
「あ?」
老人は怪訝な顔をしたが、それだけだった。男たちが死体を穴に入れた。
「ほれ」
秀樹は促され、無惨な姿の猫を死体の側に置いた。
「ヤツは、猫が好きだったからよ。ちょうどよかったぜ」
「そうですか」
秀樹は彼らが埋められていく様を見守った。どこかから引き抜いてきたのだろう、牡丹の花が添えられた。
「黙祷」
老人が低く呟くと、仲間たちが頭を下げた。秀樹もそれにならい、目をつぶった。名も知らないホームレスの男と、野良猫の安息を願った。
「ありがとうございました」
老人は何度か頷いて言った。
「手、洗っていけ。臭うぞ」
「はい」
冷たい水道水で手と、制服に付いた汚れを洗い流した。遠巻きに、家族連れやらカップルやらが、指を指していたが気にならなかった。
「帰れ」
老人はもう用は済んだとばかりに、秀樹を見もせずに手を振った。
「ありがとうございました」
秀樹は頭を下げて、公園を後にした。
手の中に、まだ野良猫の感触が残っていた。臭いも落とし切れていない。だが、何日かすればなくなってしまうものだった。
秀樹はふと気づいた。
死とは、忘れてしまうことではないのか。
忘れなければ、生き続ける。記憶の中で、生き続ける。時間は止まっても、覚えている限り、消え去りはしない。
秀樹は振り返り、老人とその仲間のホームレスたちの姿を目に留めた。いくつもの時計の針が時を刻んでいた。
誰もが目を背け、いないこととして扱う彼らのことを忘れないようにしたい。ほんの少し触れあっただけの彼らも、こうしてそれぞれの生を生きているのだ。自分が消えてなくなるその時まで、無数の命を忘れない。
自分のことも、誰か覚えていてくれるだろうか。
その問いかけは、冬の空に溶けて消えた。