瓢箪蹴り
子供の頃、毎日のように遊んだ京都・伏見区に実在する、桜町大神宮を舞台にした短編です。桜町大神宮はかつて豊臣秀吉が花見の酒宴を催したという記録が残っています。史実とフィクションを織り交ぜた作品です。
師走の風が冷たかった。
ハンドルを握りながら、僕はぼんやりと考えごとをしていた。地元、晩年の豊臣秀吉ゆかりの「伏見桃山城桜まつり」のイベントまで、あと四ヶ月しかない。会場の許可申請、協賛企業への挨拶回り、チラシのデザイン、スタッフの手配——頭の中は付箋だらけのホワイトボードのようで、どこから手をつければいいのかもわからなくなっていた。
信号が青に変わったことに気づかず、後ろからクラクションを鳴らされた。
伏見の路地は細い。昔から変わらない。子供の頃に自転車で駆け回ったあの道幅のまま、今は軽自動車がやっと通れるくらいの隙間を、僕はゆっくりと進んだ。左右の家々は建て替えられたものも多いが、路地の曲がり方だけは変わっていない。体が覚えている。
そのとき、道の向こうから何かが転がってきた。
銀色に光る、細長い円柱。ジュースの空き缶だ。
それを追いかけるように、子供が飛び出してきた。
僕は反射的にブレーキを踏んだ。タイヤが鋭い音を立てて、車が止まる。心臓が跳ね上がった。フロントガラスの向こうに、小さな男の子が立っていた。七歳か八歳か、目を丸くしてこちらを見ている。
僕は車を端に寄せてエンジンを止め、外に出た。膝を折って、子供と目線を合わせる。
「大丈夫か?」
少年はこくりとうなずいた。頬が赤い。
「缶、取りに来たんか?」
また、うなずく。僕は道端に転がった缶を拾い上げて、子供に渡した。
その瞬間だった。
手のひらの上で、缶はひんやりと冷たかった。その冷たさが、何かを呼び覚ました。遠い記憶が、アスファルトの道の底から泡のように浮かび上がってくる。
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桜町大神宮で、僕はいつもオニだった。
境内の隅に生えた大きな楠の根元を定位置にして、目を閉じて数を数える。「いーち、にーい、さーん……」声を出すたびに息が白くなった。春先の境内は、まだ少し肌寒かった。
あの頃、僕は誰よりも小さかった。クラスの男子の中で一番背が低くて、足も遅かった。だから缶蹴りをするといつもオニにされた。誰かが缶を蹴るたびに僕は走って拾いに行き、定位置に置いて、またゼロから数え直す。隠れた友達を一人も見つけられないまま、何度も何度も缶を拾いに走った。
悔しくなかったといえば嘘になる。でもあの神社が好きだった。石畳の冷たさ、楠の根っこの複雑な形、鳥居をくぐるときのあの独特の空気の変わり方。境内にいると、どこか別の場所にいるような気がした。
あの日も、上級生の一人が思い切り缶を蹴った。
「ほら行けー!」
笑い声が飛ぶ。缶は高く舞い上がり、境内の隅の茂みの中に消えた。
僕は走った。茂みの手前で速度を落とし、細い枝をかき分けながら中に入る。足元には石ころと枯れ葉が積もっていた。少し進むと、銀色の缶が落ちているのが見えた。
手を伸ばして缶を拾い上げ、振り返った。
そこで、僕は足を止めた。
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茂みの向こうが、おかしかった。
さっきまでとは空気が違う。石畳が広くなっている。楠の木がさらに大きくなっている。鳥居の向こうに、見たこともない建物が立ち並んでいる。
そして、桜だった。
桜が、咲いていた。
さっきまで春先の肌寒い朝だったのに、気がつけば辺り一面が桜色に染まっていた。花びらがはらはらと舞い落ち、石畳の上に積もっている。その桜の木々の下に、色とりどりの幔幕が張り巡らされ、大勢の人が宴を開いていた。幔幕には、瓢箪の紋があった。
着物だ。全員が、見たことのない着物を着ていた。
僕は茂みの陰に隠れて、息を潜めた。
笛の音が聞こえる。太鼓の音も。人々の笑い声、酒の匂い、炭火で焼かれる何かの香ばしいにおい。桜の花びらが、その上をゆったりと漂っている。
宴の中心に、一人の男が座っていた。
小柄な男だった。しかし、その男の周りの空気だけが明らかに違っていた。誰もがその男の方を向いていた。男が笑えば場が沸き、男が口を開けば全員が耳を傾けた。頭には見たこともない派手な烏帽子をかぶり、金色の装飾をまとっていたが、その顔は——どこかで見かける、そうだ、駅前のコーヒー屋のおじさんに似た顔だった。丸い目と、上向きの鼻と、よく動く口元。愛嬌のある顔だった。
その男が、ふと視線を動かして、茂みの陰に隠れた僕を、真っ直ぐに見た。
逃げなければ、と思った。でも足がすくんで動けなかった。
男は傍らの家来らしき大男に何かを耳打ちすると、ゆっくりと立ち上がり、こちらに歩いてきた。家来たちがざわめく。男は手を軽く振って、それを制した。
男は茂みの前で立ち止まり、僕を見下ろした。
「へんな着物を着ておるのう。おい、子供。どこから来た」
低い声だったが、怖くはなかった。
僕は何も答えられなかった。
男の目が、僕の手の中の缶に向いた。不思議そうに、しかし怖がることなく、じっと見つめる。
「……なんじゃ、これは」
男は缶をそっと手に取った。くるくると回し、底を見て、側面を見て、また僕に渡した。
「……缶蹴りの缶」
「かんけり?」
男は声に出してみた。
「蹴るのか?これを」
「うん」
「やり方を教えてくれ」
家来の一人が慌てて進み出た。「殿、お戯れを——」
男は一喝した。「黙っておれ」
そして僕に向き直り、子供のような目で言った。「教えてくれるか」
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家来たちは最初、狼狽していた。
見知らぬ子供が突然茂みから現れたことも、そしてその主人が子供に頭を下げんばかりにして缶の蹴り方を教わっていることも、彼らには理解できなかったのだろう。
しかし男は本気だった。
僕が缶を定位置に置き、目を閉じて数を数えるやり方を説明すると、男は真剣な顔で聞いていた。オニのこと、隠れること、缶を蹴って仲間を助けること。
「なるほど。オニは大変じゃな」
「……いつもオニなんだ、僕」
「なぜじゃ」
「小さいから」
男はちらりと僕を見た。遠くを見るような目だった。
「そうか」
それだけ言って、男は缶を地面に置いた。少し離れたところに立ち、助走をつけて、思い切り蹴る。
缶は高く舞い上がり、桜の木の向こうへ飛んでいった。
「おお!」
男が歓声を上げた。子供のような、張りのある声だった。
「わしが蹴ったぞ。おぬしがオニじゃ」
「わかりました」
僕は走った。缶を拾い、定位置に戻す。その間に男は楠の木の陰に隠れ、袖で口を押さえてくすくすと笑っていた。
気づけば、家来たちも参加していた。
最初は戸惑いがちに、しかしだんだんと夢中になって、彼らは走り、隠れ、缶を蹴った。幔幕が揺れた。桜の花びらが、走る人々の周りをくるくると舞った。笛も太鼓も止まって、代わりに笑い声と足音が境内に響いた。
男は、よく笑った。
大声で、腹の底から笑った。
汗をかきながら缶を追いかけ、隠れ場所を見つけるたびに「おったぞ!」と叫んだ。烏帽子が傾いても気にしなかった。着物の裾が乱れても、誰かに直させることもなかった。
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日が傾き始めた頃、男は桜の木の根元に座り込んで、大きく息をついた。
僕も隣に座った。なぜそうしたのか、今でもわからない。僕らの後ろには、立派な桜町大神宮の本殿、さらに向こうには、とても豪華な天守閣が見えた。
しばらく、二人とも黙っていた。夕方の優しい光の中を桜の花びらが、ちらちらと舞っていた。
「おぬし、名前はなんじゃ」
男が聞いた。さっきまでの「おい、子供」とは、声の色が違った。
「わたるです」
僕は自分の名前を言った。
「いい名前じゃ」
「おじさんは誰?」
男は一瞬、止まった。
それからゆっくりと、腹の底から笑い出した。
「わっはっは!天下を治めるわしを知らぬか!……まあいい。お前の友じゃ、わっはっは!」
笑い声が境内に響いた。家来たちが顔を見合わせた。
笑いが収まると、男はまた桜を見上げた。今度は静かに、長い時間をかけて。
「……わしはな」
ぽつりと、言った。
「大切にしておったものを、自分の手で壊してしもうた。取り返しのつかぬことをした。それも一度や二度ではない。遠い国の民にも、近しい者にも」
男の手が、膝の上で静かに握られた。
「力を持てば、何でもできると思うておった。思い通りになると思うておったんじゃ、じゃがな……」
言葉が途切れた。桜の花びらが一枚、男の手のひらに落ちた。男はそれをじっと見た。
「力を持てば持つほど、大切なものが遠くなる。わかるか」
僕はわからなかった。首を横に振った。
男はそれを見て、少し笑った。
「そうじゃな。お前にはわからんな」
また黙った。風が吹いて、桜が一斉に揺れた。
「残していくものが、心配じゃ。まだ幼い。わしがおらんようになった後、誰が守ってやれるのか」
僕はまだわからなかった。でも男の顔が、さっきの缶蹴りの顔とは全然違うことはわかった。
「……ああ、悪かった」
男は気づいたように言った。
「お前には関係ない話じゃ」
そして僕を見て、また笑った。今度は静かな、柔らかい笑顔だった。
「お前はいくつじゃ」
「八つ」
「そうか。八つか」
男はしみじみとした声で言った。
「わしも昔、小さかった。お前よりずっと貧しかった。米も食えん日があった。それでも走った。転んでも、また走った」
男は遠くを見た。
「走り続ければ、いつか缶を蹴る側になれる。……なれたわ、わしは。なれたが」
そこで、また言葉が止まった。
なれたが、その先は言わなかった。
僕はなんとなく、聞いてはいけない気がした。
二人でしばらく、桜を見ていた。
男がふと「そういえば」と言った。
「わしも昔、瓢箪を蹴って遊んだことがある」
「瓢箪?」
「ああ。丸くて、蹴るとおもしろい形に転がってな」
男は懐かしそうに目を細めた。
「缶蹴りと、似ておるな」
「瓢箪蹴り?」
「そう言えばそうじゃな」
男はくくっと笑った。「瓢箪蹴り、か。悪くない」
やがて男は立ち上がった。家来たちが駆け寄る。
男は僕に向かって、深くはないが確かな礼をした。
「今日は楽しかったぞ、友よ」
そして空を見上げた。満開の桜が、夕日に染まっていた。
「夢のまた夢じゃ」
小さく、しかしはっきりとそう言った。
次の瞬間、目の前が白くなった。
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気づいたら、僕は茂みの中に立っていた。
手の中に缶を握ったまま。
友達の声が聞こえた。「おーい、どこ行ってたんや!」
境内は元通りの、小さな神社だった。桜はまだ咲いていなかった。でも、空気の中に、かすかに花の香りがした気がした。
僕はその日から、あまりオニをやらなくなった。理由は自分でもわからない。ただ、走ることが怖くなくなった気がした。
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子供に缶を渡した。
少年は「ありがとう」と言って走り去った。
僕は車の脇に立ったまま、しばらく動けなかった。そこには、あの時と変わらない桜町大神宮の鳥居と、その向こうに、昭和に再建された、伏見桃山城の少しこぢんまりした天守閣が見えた。あの桜の色、あの笑い声。「お前の友達じゃ」という声。「夢のまた夢じゃ」という声。
そしてこの瞬間、僕はもう決めていた。
桜まつりのイベント。何にしようか、ずっと迷っていた。
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四ヶ月後。
伏見桃山城の広場は、明日のイベントに向けて慌ただしかった。テントが並び、スタッフが走り回り、マイクのテストの声が響いている。桜はすでに満開で、夕方の風に花びらが舞っていた。
「第一回・伏見桃山城 大缶蹴り大会」
のぼりが風にはためいていた。
僕は本部テントで資料を確認していた。明日の進行表、参加者名簿、来賓へのご挨拶——また頭の中がホワイトボードになりかけていた。
そのとき、若いスタッフが声を上げた。
「あ、これ見てください!すごいですよ!」
スタッフが手にしていたのは、古い資料のコピーだった。秀吉関連の文献を調べていたらしい。
「晩年の秀吉が、瓢箪を蹴って遊んでいたって記録があるんです。瓢箪蹴り!なんか缶蹴りみたいじゃないですか!すごい偶然!もしかして知ってたんですか?」
スタッフが笑いながら言った。
「知るわけないじゃん」
僕も笑いながら答えて、手を伸ばした。「ちょっと見せて」
古い資料の束を受け取ったとき、その紙と紙の間から、一枚の花びらがひらりと落ちた。
桜の花びらだった。
僕はしばらく、それを見ていた。
スタッフはもう別の資料に目を移していた。誰も気づいていなかった。
広場の向こうに、城郭が見えた。再建された伏見桃山城天守閣だ。本物ではない。でも今日はなぜか、それが眩しかった。
桜の花びらが、また一枚、風に乗って流れていった。
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終わり
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