婚約破棄されたので、王国との取引を全て停止します ~大陸一の商会令嬢は、もう王太子に商品を卸しません~
夏至祭の夜会。王宮大広間には熱気が満ちていた。
天井から吊るされた無数のシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床に光の粒を散らす。貴族たちは色とりどりの衣装に身を包み、手には琥珀色のワインが注がれたグラスを傾けていた。弦楽四重奏の旋律が空気を震わせ、笑い声と歓談の声が幾重にも重なっていく。
わたしは大広間の端、白い柱のそばに佇んでいた。淡いクリーム色のドレスは、母が選んでくれたものだ。控えめな装飾だが、上質なシルクの輝きが品の良さを物語っている。
視線を巡らせれば、会場のあちこちにわたしたちエルダーツリー商会が納入した品々が目に入る。テーブルに並ぶ料理の食材、貴族たちが口にするワイン、壁を飾る花々、そしてこのシャンデリアを灯す魔石ランプの燃料まで。
これら全て、わたしたちが用意したものなのに。
胸の奥で、軋む感覚があった。
近くで、侯爵夫人たちの会話が聞こえてくる。わたしは聞こえないふりをしながら耳を傾けていた。
「今宵の料理は絶品ですわね」
「このワインはエルダーツリー商会のものですのよ。年代物の赤で、一本が金貨五枚もするそうですわ」
「まあ。それにしても、商人風情が作ったものを口にするなんて、少し複雑な気分ですわね」
「仕方ありませんわ。彼らには彼らの役目がありますもの」
一言一句、耳に届いていた。けれど面持ちは崩さない。商人の家に生まれて二十二年、こうした言葉には慣れている。貴族たちは商人を見下す。それは、この国の――いや、この大陸の常識だった。
それでも。
視線を上げると、大広間の中央に王太子ルパートの姿があった。栗色の髪を丁寧に整え、深紅の礼服に身を包んだ彼は、まさに王太子という呼び名に相応しい端整な容貌をしている。
その隣には、金髪を優雅に結い上げたミリセント・イザベラ・ハートフォード侯爵令嬢の姿。青いドレスが彼女の碧眼を一層際立たせている。二人は親し気に言葉を交わし、時折笑い声を立てていた。
わたしは、ルパート王太子の婚約者だった。正確には、今もそうだ。けれど、あの二人の光景を見ていると、その立場がいつまで続くのか、と疑問に思わずにいられない。
そう考えた矢先だった。ルパートがこちらに視線を向け、わずかに顎をしゃくる。人気のない場所へ来いという合図だ。わたしは頷いて、グラスをテーブルに置いた。
大広間を抜け、東棟へと続く回廊に足を踏み入れる。ここは夜会の喧騒から離れており、静寂が支配していた。窓の外には夏至の満月が浮かび、庭園の木々を白く照らしている。夜気に触れた肌がひやりと冷たい。
回廊の奥でルパートが待っていた。そして彼の隣には、ミリセントもいた。二人の前で立ち止まり、わたしは優雅に一礼した。
「何かお話でしょうか、殿下」
ルパートはわずかに眉根を寄せると、冷ややかな口調で告げた。
「クラリッサ、お前との婚約を破棄する」
予想はしていた。だから驚きはない。それでも実際に言葉にされると、胸の奥が凍りつく気持ちになった。わたしはできるだけ表情を変えずに問いかけた。
「……理由をお聞かせ願えますか」
「理由は簡単だ。商人風情が王太子妃など、分不相応だ。貴族の血を引くミリセントこそが、王太子妃に相応しい」
商人風情――か。その言葉が胸に突き刺さる。けれど、それでもわたしは表情を変えなかった。商人として、感情を表に出すことは交渉の場では不利になる。それは、父が幼い頃から教えてくれたことだ。
ミリセントが、わざとらしく同情めいた目を向けてくる。
「ごめんなさいね、クラリッサさん。でも、わたくしと殿下は真実の愛で結ばれていますの。商人のあなたには、理解できないでしょうけれど」
真実の愛――。わたしは、内心で苦笑した。政略結婚の世界に生きる貴族が、愛を語る。それも、他人の婚約者を奪っておいて。
けれど、わたしは何も言わなかった。代わりに、一瞬だけ悲しげな目元を見せる。それから、すぐに商人の顔に戻り、優雅に一礼した。
「……承知いたしました。それでは、政略結婚を解消させていただきますわ」
ルパートは、安堵して息を吐き出した。
「わかってくれて助かる。流石は商人だ、話が早い。まあ、お前の商会には今後も王家に忠実に仕えてもらうがな」
「そうですわ。エルダーツリー商会は優秀ですもの。これからも王宮に良い品を納めてくださいね」
二人は、勝ち誇ったように笑っている。わたしはその光景を眺めてから、にこやかに微笑んだ。
「あの、殿下? 一つよろしいでしょうか」
「何だ?」
「殿下は『商人風情』と仰いました。つまり、商人であるわたしとの関係を断つ、ということですわね?」
「当然だろう。婚約を破棄すると言ったはずだが」
「はい、承知しております。では、本日を以て――エルダーツリー商会は、アルビオン王国との全ての取引を停止させていただきます」
回廊に静寂が落ちた。ルパートとミリセントは、わたしの言葉の意味を理解していないようだった。ミリセントが小さく笑う。
「まあ、商人らしい意地の張り方ですこと」
「意地ではございませんわ。商人風情の私との関係を断つという殿下のお考えに、全面的に賛同しているだけです。ですので、商売上の関係も断たせていただきます。これは、とても論理的な帰結ですわ」
「好きにしろ。他にいくらでも商人はいる」
「そうですわね。では、殿下。ミリセント様。ごきげんよう」
わたしは深々と一礼した。そして、優雅に背を向けた。
回廊を歩き、大広間へと続く扉に手をかける。扉を開く直前、わたしは小さく呟いた。
「さあ、始まりますわ」
*
翌朝。
侍従長エドワード・グレイソンは、王族の私室がある西棟の廊下を早足で歩いていた。五十代の彼は、二十年以上も王宮で働いてきたベテランだ。どんな非常事態にも冷静に対処してきた自負がある。
けれど、今朝の事態は、彼の経験を超えていた。
本来であれば、王族の朝食が運ばれてくる時刻だ。しかし、料理長から「食材が届いていない」との報告を受けた。まさか、と思いながら厨房へ向かう。
厨房に到着すると、料理長のマーガレットが土気色の顔で立っていた。彼女の周りには戸惑った面持ちの料理人たちが集まっている。侍従長は、厳しい口調で問いかけた。
「なぜ朝食の準備ができていない!」
マーガレットは申し訳なさそうに頭を下げた。
「それが……エルダーツリー商会から食材が届かないのです。小麦粉、バター、卵、肉――全て、です」
「在庫は!?」
「……昨夜の夜会で使い切りました」
侍従長は言葉を失った。昨夜の夜会は、夏至祭を祝う盛大なものだった。二百人を超える貴族たちに豪華な料理を振る舞った。いつもより多く提供していたおかげで、厨房の在庫は底をついている。
通常であれば、明け方にエルダーツリー商会から食材が届くはず。毎日、決まった時間に、決まった量が届く。それが、百年以上続いてきた王宮の日常だ。それなのに届かない。
「何が起きたのだ……」
侍従長の背筋に、冷たいものが走った。
*
朝食の時間が過ぎた頃、侍従長は執務室で頭を抱えていた。机の上には、各部署から届いた報告書が山積みになっている。
医務室の責任者が、息を切らせて執務室に駆け込んできた。侍従長は顔を上げる。
「薬品の納入がありません! 消毒液、包帯、外科器具の補充など全てです!」
次いで、厩舎の管理人が慌てた様子で報告に来た。
「馬の飼料が届きません。昨日の分で在庫が尽きました。このままでは、馬が飢えてしまいます」
施設管理部の責任者が、上ずった声で告げた。
「石炭とランプ油の納入がありません。暖房と照明が維持できません」
納入しているのは、全て同じ業者だった。エルダーツリー商会。
侍従長は机に積まれた納入記録の帳簿を開く。過去一年分の記録が、几帳面な文字で記されているものを。
食料品――エルダーツリー商会。
医薬品――エルダーツリー商会。
燃料――エルダーツリー商会。
馬の飼料――エルダーツリー商会。
寝具、衣類、文房具、清掃用品――全て、エルダーツリー商会。
侍従長が総納入額の統計を確認していくと、顔面蒼白になった。
「ま、まさか……」
王宮への物資供給の、実に八十パーセントが、エルダーツリー商会によるものだった。つまり、エルダーツリー商会が取引を停止すれば、王宮は機能しない。侍従長は、急いで他の商会に緊急発注の使者を送った。
*
侍従長は、執務室で使者たちの帰りを待っていた。
最初に戻ってきたのは、シルバーオーク商会への使者だった。使者は、疲れた様子で首を横に振る。
「駄目でした。支配人のトマス・ハリス殿が、こう申しておりました」
使者は、懐から手紙を取り出した。侍従長は、それを開いて読む。
『申し訳ございません。エルダーツリー商会様を敵に回すわけには参りません。我々の多くの取引先も、エルダーツリー商会と関係があります。彼らの怒りを買えば、我々も商売ができなくなります』
次に戻ってきたのは、ローズウッド商会への使者だった。侍従長は、手紙を受け取る。
「こちらも断られました」
『私どもの物流は、実はエルダーツリー商会の船を使っておりまして……彼らの物流網なしでは、商品を運ぶことができないのです』
メイプルリーフ商会からの返事も、同様だった。
『そもそも在庫がございません。全てエルダーツリー商会から仕入れていたもので。彼らは卸売りも行っております。つまり、私どもの商品の多くは、元を辿ればエルダーツリー商会の商品なのです』
侍従長はようやく理解した。エルダーツリー商会は、単なる一商会ではなかった。彼らは、大陸全体の物流網そのものを握っていた。十七カ国に支店があり、全ての商人が彼らに依存している。
エルダーツリー商会を敵に回すことは、商人として自殺行為。
侍従長は国王に報告すべく、急いで謁見の間へと向かった。
*
昼前。
セオドア国王は謁見の間で侍従長からの報告を聞いていた。厳格な顔立ちに、疲労の色が浮かんでいる。隣には王妃ウィルヘルミナ、そして王太子ルパートが控えていた。
侍従長の報告は、想像以上に深刻だった。食料、医薬品、燃料、王宮を支える全てが止まっている。そして、代替手段はない。
国王は深いため息をついた。息子の浅はかさが、ここまで国を危機に陥れるとは。
そのとき、謁見の間の扉が勢いよく開いた。軍司令官グレゴリー・フィッツロイだ。六十代の歴戦の将軍は、通常であれば冷静沈着な人物だ。けれど、今日の彼は明らかに動揺していた。
グレゴリーは、国王の前で膝をつく。
「陛下! 王太子殿下! 火薬と武器の納入が停止しております!」
国王は内心で悪い予感を覚えた。事態はさらに悪化していると。
「詳しく説明せよ」
「はっ。本日予定されていた火薬の納入が、全て停止されました。さらに、修理中だった武器や防具の返却も止まっております。加えて、北方国境で隣国との緊張が高まっております。陛下もご存じだと思いますが、このままでは戦争になる可能性があります。ただ、火薬と武器がなければ、我が軍は満足に戦うことができません……」
フィッツロイがルパートへ顔を向けた。
「よくない噂を聞きました。王太子殿下……一体、何をなさったのですか!?」
国王は息子へ厳しい目を向けた。
ルパートは、ようやく事態の深刻さに気づき始めたのか、顔から血の気が引いていた。
「くそっ! クラリッサの指図か! た、たかが商人のくせに! 納品しろと命令すれば済む話だろう!」
その瞬間、乾いた音が謁見の間に響いた。王妃ウィルヘルミナが、息子の頬を平手打ちしたのだ。
静寂が落ちた。
国王は、妻と息子の光景を咎めないまま見守っていた。妻の怒りは、彼も同じだ。いや、それ以上かもしれない。王妃は怒りと悲しみの入り混じった眼差しを向けている。
「愚か者! エルダーツリー商会がどれほど重要か、理解していなかったのですか! わたくしの実家も、エルダーツリー商会と取引がありました。あの商会は、大陸の流通を支配しているのです。十七カ国に支店があり、全ての商人が彼らに依存しています。そして――クラリッサは、とても誠実な商人でした。貴方が愚かでなければ、彼女は素晴らしい王太子妃になったでしょうに!」
ルパートは、頬を押さえたまま、呆然と母を見つめていた。
国王は息子の失態に絶望を覚えていた。王としての誇りと、父としての情が、胸の中で激しくぶつかり合う。息子を叱責したい。だが、それでは何も解決しない。今必要なのは、エルダーツリー商会との関係修復だ。そのためには、プライドを捨てなければならない。
国王はそう感じていた。
*
同じ頃。
侍従長は執務室で新たな報告書を受け取っていた。今度は、貴族たちからの苦情だ。侯爵夫人からの手紙には、こう書かれていた。
『次の舞踏会用に新しい宝飾品を注文していたのですが、納品が止まってしまいました。どうすればよいのでしょうか。婚約破棄のせいだとの噂もあって、困り果てています』
別の子爵令嬢からは、悲鳴のような文章が届いている。
『取引きが停止されて、困ってます。愛用の香水は全てエルダーツリー商会のものです。もう買えないのでしょうか? 差し出がましいですが、何かあったとの噂が出回っています』
ある伯爵家からは、深刻な訴えがあった。
『娘の嫁入り道具を全てエルダーツリー商会に発注していました。結婚式が一ヶ月後に迫っているのに、在庫が確保できないとの知らせがあって、返金されました。補完の紹介からも全て断られて、一体どうすればよいのでしょうか。妙な噂も出てますが、真偽はどうなってます?』
侍従長は机に積まれた苦情の手紙を見て、頭を抱える。
まずい。貴族たちも気づきはじめた。
噂という名で真実を流布するという、巧妙なやり方。エルダーツリー商会はこの手で、一つの国を滅ぼしたという話がある。
侍従長はそんな商会を「商人風情」と見下していたことに深い溜息をついた。
*
王宮の一室。
ミリセントは窓辺に立って外を眺めていた。庭園では侍従たちが慌ただしく行き来している。異様な空気が王宮全体を包んでいた。
背後で扉が開く音がした。下を向きながらルパートが入ってきた。彼の顔には、疲労の色が濃く浮かんでいる。
ミリセントは不安を押し殺して笑顔を作る。しかし、その笑顔はどこか引きつっていた。彼女はルパートに近づいて、その腕に縋りついた。
「ねえ、殿下……これ、わたくしのせいではありませんわよね?」
ルパートは何も答えなかった。ただ、ミリセントを見る目が、昨夜とは違って冷ややかになっていた。
ルパートがクラリッサに婚約破棄を告げたとき、ミリセントは嬉しそうに笑っていた。だが、今のルパートには、その笑顔を思い出す余裕もなさそうだった。
ミリセントはその眼に気づいて言葉を失った。
*
同じ頃、エルダーツリー商会本店。
わたしは執務室で平常通り業務を続けていた。机の上には、各支店からの報告書が積まれている。一枚一枚、丹念に目を通していく。
扉がノックされ、副支配人のオズワルドが入ってきた。
「お嬢様、他国からの使者が次々と到着しております」
「通してください」
応接室に向かうと、すでに三人の使者が待っていた。最初に口を開いたのは、レイヴンスブルク王国の使者だ。三十代の外交官は、恭しく頭を下げる。
「クラリッサ様、我が国は貴女を歓迎いたします。取引額を現在の三倍に増やす用意がございますので!」
続いて、トリア公国の使者が進み出た。
「こちらは五倍でいかがでしょう。さらに、独占的な取引条件も検討させていただきます」
ヴェネ共和国の使者は、より熱心だった。
「独占契約を結びたいのですが。我が国の港を貴商会の専用港として提供いたします」
わたしは、三人に向けて微笑む。
「ありがたいお話ですわ。前向きに検討させていただきます」
使者たちが去った後、わたしは窓の外を眺めた。王宮の尖塔が遠くに見える。
さあ、アルビオン王国、どう出ますか?
*
三日後。
侍従長はまたしても、執務室で頭を抱えていた。王宮は完全に機能不全に陥っている。食事は質素なパンと水だけ。明かりは日中のみで、夜は蝋燭の僅かな灯りだけ。医療は最低限の応急処置のみ。
貴族たちの不満の声が、連日のように届いていた。
「このままでは生活できない!」
「王太子の責任だ!」
「クラリッサ嬢に謝罪すべきだ!」
侍従長は再び国王に進言した。エルダーツリー商会に使者を送るべきだ、と。少しやつれた国王はそれを承認せざるを得なかった。
*
エルダーツリー商会の応接室。
わたしは王宮からの使者を迎えた。彼は国王の親書を手に、恭しく頭を下げた。
「エルダーツリー商会様。国王陛下より、取引再開のお願いでございます」
「使者様、一つお尋ねしてもよろしいですか?」
「はい、何でしょう」
「わたしは『商人風情』でしょうか?」
使者は言葉に詰まった。わたしは努めて穏やかな口調で続ける。
「王太子殿下は、わたしを『商人風情』と仰いました。そして、婚約を破棄されました。にもかかわらず、商売だけは続けろと?」
使者は何も答えられなかった。わたしは机の上に置かれた分厚い書類の束を手に取り、使者に渡した。
「これをお持ちください。過去五年間の、王宮への納入記録です。納入額、利益率、全て記載されています。わたしたちは、極めて薄利で王宮に奉仕してまいりました。それは、王太子妃という立場への、誠意でした。しかし、その誠意を『商人風情』と侮辱されました。商いとしての判断で――あなた方と取引継続の価値はございません」
笑顔を作ると、書類を抱えたままの使者は何も言えずに頭を下げた。
*
その夜、王宮の執務室にて。
セオドア国王は、ルパートを呼び出していた。執務室には、この二人だけ。国王は疲れた面持ちで息子を見つめた。
「ルパート、行け。エルダーツリー商会に行き、頭を下げろ」
ルパートは信じられないという面持ちで父を見つめ返す。
「父上! 商人に頭を下げろと!?」
「選べ。プライドを取って王国を滅ぼすか。頭を下げて王国を救うか」
国王の声は冷たい。唇を噛んだルパートを見つめながら、国王は息子の返答を待っていた。
*
翌日、エルダーツリー商会の応接室。
わたしは応接室の上座に座っていた。隣には父ハンフリー、向かいには副支配人オズワルドが控えている。扉が開き、ルパートとミリセントが入ってきた。二人とも、居心地悪そうだ。ルパートは、椅子に座ると、ぎこちない口調で切り出した。
「クラリッサ、取引を再開してほしい」
わたしは、穏やかに問いかけた。
「それは業務上の依頼ですか? それとも、個人的なお願いですか?」
「……業務上の依頼だ」
わたしは書類を取り出した。
「では、業務として対応させていただきます。まず、前回の『商人風情』という発言について。これは明確な侮辱であり、商会の名誉を傷つけました。謝罪と名誉回復を求めます」
ルパートは歯ぎしりをした。けれど、何も言い返せなかった。反省していない。わたしは、その反応を静かに観察してから続けた。
「取引再開の条件を提示します。第一。王太子殿下から、公式の謝罪文。内容は『商人を侮辱したこと』への謝罪。これを、王国の官報に掲載。第二。今後の取引価格は、適正な利益率を確保します。従来の三倍の価格となります」
ルパートは、顔を真っ赤にして立ち上がる。
「公式に……謝罪? しかも取引価格が三倍だと!?」
わたしは隣に座るオズワルドに目配せをした。彼が帳簿を開いて見せる。
「これまで、利益率は五パーセントでした。しかし他国との取引では、利益率十五パーセントが標準です。つまり、これまで王国は不当に安い価格で購入していたのです。我々は王太子妃という立場への配慮から、赤字すれすれの価格で納入しておりました。しかし、その配慮の理由はもはやございません」
ルパートは何も言い返せなかった。その無力な姿を見ながらさらに続けた。
「第三。商人への差別的発言を禁止する法令の制定。第四。これらを全て、契約書として締結。わたしの血統魔法『契約の天秤』で保証します」
ミリセントが、耐えられないという面持ちでルパートに縋りついく。わたしは、その光景を冷静に眺めてた。
これは愚かさの代償。
「こんな……こんなはずでは……殿下、結婚式はいつですの?」
「……しばらく延期だ」
ルパートは、冷ややかな声で答えた。ミリセントは、その言葉に絶望の色を浮かべた。
二人の崩れゆく関係を見ても、心は動かなかった。これは商談だ。感情を挟む余地はない。わたしは契約書を取り出した。
「では、こちらにサインをお願いします」
ルパートは震える手で羽根ペンを取り、契約書にサインをした。
テーブルの上の契約書に手をかざす。
「これが『契約の天秤』です。この契約は公正であると、わたしの魔法が保証します。違反した場合、自動的に、全ての取引が永久停止されます」
魔法陣が浮かび上がり、契約書を包み込む。淡い光が部屋を満たし、やがて契約書に吸い込まれていった。
*
半年後。
わたしは、執務室で父と母と向かい合っていた。ここには三人しかいない。
エルダーツリー商会の業績は、さらに拡大していた。レイヴンスブルク王国との取引が主力となり、新たに三カ国との独占契約を結んだ。商会の利益は、前年比で百五十パーセント増加している。
アルビオン王国は、約束通り法改正を完了した。商人への差別的発言を禁止する法令が制定され、商人の社会的地位は大きく向上した。
先日、王都で開かれた舞踏会に顔を出した。そこで、ルパートとミリセントの姿を見かけた。ルパートは、明らかに疲弊していた。政務に追われ、顔色は悪く、目の下には隈ができていた。
彼はもはやあの傲慢な王太子ではない。ミリセントは舞踏会の隅でひとり立っていた。かつて彼女の周りには多くの貴族が集まっていたが、今は誰も近づかない。
ミリセントのハートフォード侯爵家は、経済的打撃を受けて没落しつつある。娘の価値も、それに伴って下がった。二人の婚約は正式に破談となっていたのだ。
彼らを見て、わたしは何かを感じるべきだったのかもしれない。同情、あるいは優越感。けれど、わたしの心は凪だった。
彼らは自らの選択の結果を受け入れているしかない。
向かいの父、ハンフリーが温かい笑顔を浮かべた。
「よくやった、クラリッサ。お前は立派な商人だ」
母フェネラも、優しく微笑んだ。
「誇りに思うわ」
「ありがとう、父上、母上」
商会の前には、各国からの商人たちが列を作っている。彼らはエルダーツリー商会との取引を望んでいる。
「商いは信用。ゆえに、信用を失った者に明日はありません。わたしは、わたしの誇りを守りました。そして――これからも、守り続けます」
自然と笑みを浮かべていた。
机の上には、レイヴンスブルク王国第二王子からの正式な求婚状が置かれていた。けれど、わたしはまだ返事をしていない。
まずは商会をもっと大きくしたい。大陸最大ではなく、大陸唯一の、誰もが頼らざるを得ない商会に。
わたしは新しい事業計画書を開いた。
(了)
読んでいただいてありがとうございます!
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