青の小説
小説を書くということは、たくさんの時間をつぎ込むということだ。
苦しくない、わけないじゃないか。
『文学賞の作品を募集します、奮ってご応募ください』
ひと言の呟きを送っては流れていくSNSの画面を、初夏の夜に文人はただただ眺めていた。目に留まったのは、新しい文芸誌が新しい作家を発掘するために開催される文学賞についてのポストだった。文人は息をゆっくり吐く。そして、そのポストがどこかへ流れていってしまう前に、慎重に指でスマホをなぞる。そしてもう一度、画面の中に現れたチャンスを目で追った。
『文学賞の作品を募集します、奮ってご応募ください』
部屋の外から賑やかな蛙の合唱が流れていた。文人は、汗が浮き出てくる両手を服に擦りつけた。それから、「小説書くぞ」とスマホに意気込みを入力し、チャンスを引用したポストをSNSに流した。壁に掛けてある時計は、あと二時間で日付が変わる時刻だ。
「高校生作家デビュー!」
「完成したら読ませて!」
しばらくすると続々と「イイね」やコメントがスマホに咲き始める。静かな部屋、スマホの中では賑やかな声が響いていた。
昨夜、小説を書いて応募することを決めた。それにしても、今回の文学賞にはどのくらいの応募数があるんだろう、と文人は通学途中に不安になる。昨夜に同じく応募を決意した他の作家も同じ気持ちなのだろうか。空には鈍色の雲がどんよりと広がり、昼前には雨が降りそうだった。
文人は自宅から少し離れた県内の進学校に通っている。ついこの間の桜が咲いていたころに、文系の進路を迷わず選んだ。子供のころから本が好きで、小説家になることが夢だったからだ。文庫本の夏目漱石の『坊ちゃん』の表紙のイラストが好きで、お小遣いで買ったことが、読書のきっかけだった。とにかくどこへ行くにもその文庫本を持ち歩いていると、まわりの大人たちから褒められるようになった。気付いたころには、本がいつも傍にあった。自分にとっての本は、自分という人間をめんどくさい説明をしなくても表してくれるものなんだと思っていた。
予想した通りに雨が降っているから、昼休みの教室には人が多かった。文人は席から教室の窓の外を見ていると、中庭には雨に打たれている菖蒲があり、その香りがここまでしてきそうだな、と思った。
「その文芸誌、私もネットで見たことあるよ!小説書くの?すごいね」
ふいに、クラスの女子の声が耳に聞こえてくる。どうやら昨日の引用ポストの話題のことかな、文人は何でもない風を装って、答えるために声のしたほうへ顔を向けた。すると、特徴のある黒い眼鏡をかけた女子を、女子グループが取り囲んでいた。声をかけられていたのは、神代雫だった。
「別にすごくないよ」
話しかけられた神代雫は、質問にそっけなく答えて、席を立ち、教室を出て行った。机の上には、昨夜に文人が見たあの文芸誌と、まだ封を開けたばかりの原稿用紙が居心地悪そうに残されている。
「へえ、神代も小説書くんだ。そういえば、文人もあの文学賞に応募するんだろ」
その様子を見ていたクラスメイトが文人に声をかけてくる。
「ああ、書くよ」
そう言い、文人も席を立った。
神代雫は文人のクラスメイトだ。お互いに声を交わしたことは、まだない。神代雫は常に一人でいることが当たり前のような、そんな女子だった。彼女自身も一人を望んでいるかのような、またそれがとても似合う独特の空気を纏う女子だった。口数が少なく、たまにクラスメイトと言葉を交わすことがあっても、すぐに会話が終了してしまう。それでも彼女がいじめにあわないのは、纏う空気が、芸術家の放つ独特な空気のそれで、誰も近寄ることができないんじゃないかと文人は思っている。そして、神代雫が今度、自分と同じ文学賞に向けて小説を応募することを知った時は、得体のしれない感情も、文人はひそかに自身の中に感じていた。それは嫉妬だけではない、華やかな青や黄色、いろいろな色も混ざったような、くすぐったくなるような感情だった。文人は自分の文章力には自信があったが、神代雫が書く小説を、心のどこかで、読んでみたいと思った。
文学賞の締め切りまで、あと一か月。書く小説のイメージがまだ湧いていない。文人は放課後に、学校の図書室に寄って、小説の題材となるような本を探しに行こうと思った。放課後の図書室は、ほとんど人がいなく、そこは文人にとって、いつも一人で集中できる居心地の良い空間だった。
(とりあえず、小説の棚を見ながら、気になる本をチェックしてみるか)
文人は小説・作家の奥の棚へ向かう。すると、ちょうど通路から陰になったところに、神代雫が一人、床に座り込んで本を読んでいた。
「あ・・・」
文人は思わず、声が出てしまう。神代雫もそれに気づき、ちらりと上目づかいでこちらを見るが、ぺこりと軽く会釈をして、視線を本に戻し読んでいる。
図書室の窓が少し開いていて、風で白いカーテンが揺らいでいた。
「そういえばこの前、偶然聞こえたんだけど、神代も文学賞に応募するんだろ?」
神代雫は、眉をぴくりと動かした顔をつくったが、すぐにすました顔で「うん」とだけ呟いた。
「おれも小説書いててさ。同じ文学賞に応募するんだよ。まさか同じ学校に作家志望がいるとは思わなかったな」
「そうなんだ。そうだね」
「神代はもう、何を書くか決まってるの?」
「うん、書きたい物語はたくさんあるから。・・・決まってるの?」
「おれはまだ決まってないよ、これからだよ。まあ、ヒラメキが降りてくるのを待ってる感じかな。おれは天才ヒラメキ型だし」
「ふうん」
変わらず、本のページに目を通している。神代雫は相変わらずに謎めいてるな、と文人は思う。何を考えているのか、本心が見えない。でも、だからこそ余計にそんな神代雫が書く小説というのは、どこか気になるのだ。いったい本当の彼女には、どんな顔があるんだろう、と文人は内心、思った。
「ごめん、邪魔した。いつか完成したら読ませてな」
文人は棚を見ながら、ゆっくりアイデアを探すつもりでいたが、雫がここにいると気が散ってしまうから、また今度にしようと思った。
「お互いがんばろうな」文人がそう声をかけると、神代雫は本に目を落としたまま、こちらに親指を突き出してOKサインをしてみせた。風がふわっと吹いて、白いカーテンがやさしく揺らいでいた。
文学賞の締め切りまで、あと十四日。学校の合間に小説を書くのだから、そろそろ書き始めていないといけない、と文人は内心焦っていた。構想やプロットは頭の中で、何度もイメージを描けているのに・・・。いざパソコンの画面の中で文字にしようとすると、どのアイデアも空中分解してしまうのだ。情けない事だが、小説を書くことから逃げたくなっているのだろうか。それは認めたくない。でも、無意識にスマホに手が伸びてしまう。このままじゃいけないと思いながらも、気づけば画面の中のどうでもいい誰かの呟きの濁流に流されてしまうことも少なくない。文人は我に返り、はぁ・・・と息を深く吐いた。気分転換に、明日は街の図書館にある自習室へ行ってみることにしよう、と考える。夜七時には閉まるが、学校が終わってから向かっても一、二時間は書けるだろう。文人は、今日一日を無駄に過ごした罪に苛まれながら、雨の降るその夜は、罰を受けるかのように、もうベッドに入った。
閉館になる前の夕方は、図書館の自習室には人がほとんどいなかった。しかし、大きい共有机を一人で独占して原稿用紙を散乱させている女学生がいる。神代雫だ。それにしても、原稿用紙が散乱しているということは、まさかとは思うが、今の時代に手書きで書いているのだろうか。このまま見なかったことにしようか・・・と思った文人だったが、何もない平和な自習室のなかで、雫のまわりの空間だけが歪んで異世界にみえる。声をかけずにはいられなかった。
「神代・・・まさかとは思うけど、この時代にまさか手書きで書いてるわけじゃないよな?」
神代雫は一瞬、びくっと小さな肩を震わせたが、なんだおまえか、といったような目で文人を見て、答えた。
「うん。手書きだよ。このほうがアイデアがまとめやすいから」
「まじかよ・・・。いつの時代の文豪だよ」
雫は、素知らぬ顔で原稿用紙にペンを走らせている。
「それにしても・・・けっこうたくさん書いたんだな、何枚くらい書いたの?」
「ん、どうだろう? 枚数なんて、まだ数えてないからわかんないけど」
ぱっと見た感じだけでも二、三十枚はありそうだった。おそらく、もう既定の文字数はクリアしているんじゃないだろうか。
「一度、文字数を数えてみたほうがいいんじゃないか? もう文字数はクリアしてそうだけど」
「文字数の問題じゃない。今は書けるだけ書きたいんだ。それより・・・・、自分は書かなくていいのか?」
文人は瞬間、無意識に雫から目をそらしてしまった。雫は静かにペンを走らせている。自習室に備え付けられた古い空調機がブーンという音を出していた。
「あのさ、神代に聞きたいことあるんだけど」
文人は少し早口になりながら言った。
「なに?」
「なんかさ、おれ思ったんだけど、小説を書くって、たくさんの時間をそこにつぎ込むことになるだろ。もし、書いても書いても報われなかったら。・・・と思うと、無駄なことをしているんじゃないかって、何だかこわいというか、なんというか・・・。もっと他のことをしたほうがいいんじゃないかって。神代はそういうことは思わない?」
小説が書けない気持ちを、同じく小説を書く雫なら、きっとわかってくれるだろう。そうだよ。苦しくないわけないじゃないか・・・。文人はそう思っていた。雫はペンを止めて、ゆっくり文人をみる。
「こわいの? 小説を書くのが? だったら、書かなきゃいいんじゃないの?」
独り言を呟くような声だった。
「え?」
「君がなんで小説を書きたいのか、私にはわからないけれど、本当に小説を書きたいと思っているんだったら、『書く』とか、口でいう前に書いてるものなんじゃないのかな」
空調のブーンという音が聞こえる。まるで頭の中をミキサーでかき回しているようだ。雫は文人の顔から目をそらさずに正面から言葉を続ける。
「君は自分が小説を書きたいって言うけれど、本当は他の誰かから自分がそう見られたいだけじゃない?」
空調のブーンって音がうるさい。
雫はまっすぐに見つめ返してくる。文人は何も言えずに、言葉に詰まっていると、母親と同じ年齢くらいの図書館員がカウンターからこちらに小走りで近寄ってくるのがみえた。静かな声で「すみません、お静かにお願いします」と注意された。その後、家に帰ってからも、空調のブーンって音が、文人の頭の中で響いていた。
文学賞の締め切りまで、あと五日。放課後の誰もいなくなった教室に、文人はいた。教室の窓から見える夕暮れを見ながら、ぼんやりしていると、その空気を壊すようにガラっと勢いよく教室のドアが開く音がした。
「なんだ、いたのか」
教室に入ってきたのは雫だった。
「ああ、夕暮れがきれいだなって。神代こそ、こんな時間にどうしたんだ?」
文人は目を合わせずに言った。
「私は、さっきまでパソコン室にいたんだ。小説が完成したからパソコンに打ち込んできたところだ」
文人の目がちくりと湿る。
「手書きしたものをまたパソコンに打ち込むって非効率じゃね? 最初からパソコンで書けばいいのに」
「私はパソコンを持ってないからなあ。それに物語は実際に手を動かしたほうが、進みやすい」
雫は答えては言葉を続ける。
「もう書けたのか?」
グラウンドから野球部の声が聞こえる。初夏のこの時期は夜になるまで明るく、窓にはいよいよ鮮やかなオレンジ色が差し込んでいる。
「・・・書いてないよ」
「そうか」
変わらず野球部のかけ声が、教室の静寂を埋めている。
「いっぱい構想も考えたし、物語の道すじも出来てて、頭のなかでは書けてるんだけどなあ」
「そうか」
「でも文学賞には、きっとたくさんの小説が集まって、選ばれるのはほんの一握りの作品で、おれがどれだけ時間をつぎ込んでも、報われないかもって、思うと情けないけどさ、書けないんだよ」
「そうか」
「この前さ、神代に言われたことを考えたんだけど・・・」と文人は続ける。
「もしかしたら、おれは小説が書きたかったわけじゃなかったかも、と思ったんだ。神代が言うように、本当に書きたかったら、神代みたいに書いてるわけだし」
雫は、ただただ静かだった。文人はそのまま構わずに、言葉を続ける。
「なんかさ、おれが思ってた「おれ」は、本当の「おれ」じゃなかったのかなって。本当の自分は小説家になりたいんだと思ってた。でも、そうじゃなかったんだって思い知らされたよ。神代に言われたように、誰かからも、ひょっとしたら自分からもそう見られたかっただけだったんだって。やっぱさ、どんなに取り繕っても、本当の素顔ってさ、行動にでるんだよな」
窓の外から野球部のかけ声が聞こえている。
「あきらめるのか?」
「・・・もう今からじゃ間に合わないだろ」
「もしも、素顔というものが、自分の行動にあらわれるというのなら・・・。今からでも書けば、いつかそれが素顔に変わるじゃないか」
窓から差し込まれたオレンジ色は、放課後の教室を照らしている。雫は言葉を続ける。
「それでも、書かないのか?」
野球部の威勢の良いかけ声が、後押しするように教室に響いていた。
文学賞の応募が終わり、少し経ったころ。文人と雫は学校から図書館に向かう道を歩いていた。
「ところで、文学賞の結果はどうだった?」
文人は雫に聞いてみる。あれから文人は締め切りまでの残り数日でなんとか形だけの小説を書き上げた。もちろん推敲も十分できる時間はなかったから、一次予選で落ちてしまったのだが。
「私は、どうやら二次予選で落ちたようだ」
「そっか、でも二次予選まで行けたのがすごいよな!」
「ありがとう、落ちてしまったが、テーマの着眼点が斬新だったって褒められた」
「へえ! そうだ、神代の書いた小説を読ませてよ。実はずっと気になってたんだ」
「ん、どうしようかな」
『なんてタイトル?」
『タイトルは『青の小説』』
「絶対、読ませてくれよな」
「文人の小説もな」
歩く二人の横を車が通りすぎた。雫にさりげなく名前を呼ばれた気がしたが、通り過ぎた車のブーンという音のせいにして、文人はそのまま聞こえなかったふりをした。夕暮れのオレンジがきれいに照らし、雫が静かに微笑んでいるようにみえた。