5.青の旅路
夏の旅、その朝は、空気がどこか違っていた。
陽は目が覚めた瞬間にそれを感じた。
窓の外は、真夏の朝にしては涼しく澄んでいて、蝉の声が控えめに鳴いていた。
まだ少し早い時間なのに、陽の胸の奥はもう高鳴っていた。
遠足の前日にも似た、けれどそれよりもっと大切な、静かな期待。
荷物は昨夜のうちにほとんど詰め終えていた。
リュックのサイドポケットには、柚月に渡そうと思っているしおり。
行き先や地図、電車の時間、そしてふたりで決めた「やりたいことリスト」が書かれている。
それを思いながら、陽はそっと背負い直す。
駅の改札前。
早く着いたと思っていたのに、柚月はすでにいた。
淡い水色のワンピースに、細く編まれた麦わら帽子。
いつもより少しゆるく巻かれた黒髪が、肩の上でやわらかく揺れている。
見た瞬間、言葉が出なかった。
陽は、ほんの少しだけ呼吸を忘れていた。
「おはよう、陽くん」
その声に、ようやく現実に引き戻される。
けれどその現実は、昨日までの日常とは少しだけ違っていた。
「……おはよう。柚月、早かったね」
「うん。……ちょっと楽しみすぎたかも」
そう言って、柚月は目を細めて笑った。
その笑顔が、まるで今日という日全体を祝福してくれているように見えた。
電車の時間が近づいてきた。
改札を抜けてホームへ向かう。
朝の空気の中に、旅立ちのにおいが確かにあった。
ホームに立つふたりの間には、言葉は多くなかった。
けれど、言葉がなくても平気だという空気が、そこにはあった。
電車がゆっくりと滑り込んでくる。
金属の音、風の流れ、扉の開く音。
全てが今日だけの音に聞こえた。
車内は空いていて、窓側の並びに座る。
柚月が、景色を見やすいようにほんの少し背を伸ばすと、陽は何気なくバッグの中から冊子を取り出した。
「これ、旅のしおり。……作ってみた」
柚月は、意外そうに目を丸くする。
けれどすぐに、優しい表情に変わった。
「ほんとに作ってきたんだ……見せて」
ふたりの間に開かれた紙面に、書き込まれた地図と予定、そして「やってみたいことリスト」。
・湖の周りを歩く
・アイスを食べる
・木のベンチに座る
・おそろいの写真を撮る
そのひとつひとつを、柚月は指でそっとなぞった。
「……ぜんぶやろうね」
その声が、電車の窓を通して差し込む光に包まれて、少しだけ揺れた。
景色は少しずつ、街のざわめきから、田園の緑へと変わっていく。
遠くに連なる低い山々、その隙間を縫うように流れる川。
柚月は何度も、窓に頬を寄せてその風景を目に焼き付けていた。
その姿を隣で見ていた陽は、不思議な感覚を覚えていた。
ずっと隣にいるのに、彼女がこうして何かに見入っている姿は、どこか遠くにいるようにも思えた。
けれど同時に、自分のすぐそばでその景色を分かち合っているという事実が、
何よりもあたたかかった。
やがて電車が、目的地の駅へと近づいてくる。
小さなアナウンスが流れ、扉が開くと、
ほんのりと涼しい風と一緒に、木の匂いの混ざった空気が流れ込んできた。
「……着いたね」
「うん」
ふたりはゆっくりと駅を出る。
夏の空はどこまでも広くて、
その下で、いま確かにふたりだけの旅が始まった。
陽はそっと横を見る。
柚月の指先が、リュックの端をそっとつまむように触れていた。
それだけで、今日という日が、特別な一日になると確信できた。
駅を出ると、空気が一気に変わった。
街の喧騒が遠くなり、かわりに風の音と鳥の声が耳に届く。
アスファルトの道はやがて石畳になり、両脇には小さなカフェや手作りの看板を掲げた店が並びはじめた。
「……観光地っていうより、静かな町だね」
柚月がつぶやくように言う。
陽はうなずきながら、彼女の歩幅に合わせて少しゆっくりと歩く。
「うん。賑やかすぎない方が、落ち着くかなって思って」
柚月は何も言わずに、けれどほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、声よりもよく陽に届いた。
坂道を上りきると、視界がぱっと開けた。
湖だった。
思わずふたりは立ち止まる。
夏の光を受けて、湖面がゆるやかにきらめいていた。
深い緑と空の青、その境界が曖昧になって溶け合うような光景。
風が通るたび、水面がさざなみを描いて、陽の光を散りばめたように揺れている。
柚月は小さく息を呑んだ。
「……きれい」
「でしょ。写真で見て、一目で決めた場所なんだ」
柚月は頷いて、目を細めた。
「思ってたより、ずっと静か。音が、透明って感じ」
陽はその表現に心のどこかが震えたように感じた。
“透明な音”――その言葉が、この場所と彼女によく似合っていると思った。
湖沿いにしばらく歩くと、ペンションが見えてきた。
白い壁に三角屋根。木のバルコニーには鉢植えの花が並んでいて、
庭にはブランコと小さなベンチが置かれていた。
入り口の扉を開けると、木の香りがふわっと漂った。
迎えてくれた女性スタッフは優しく微笑み、
「ちょうどチェックインのお時間ですね」と言って部屋へと案内してくれた。
角部屋のツインルーム。
湖がよく見える窓がふたつ並んでいて、光が柔らかく差し込んでいた。
柚月はスーツケースを置いて、カーテンをそっと開ける。
窓の向こうには、湖と、それを囲む木々の影。
少し遠くに、木造のボート小屋が見える。
柚月はその景色に目を奪われたまま、静かに呟いた。
「……ここに来てよかった」
陽は、彼女のその言葉を聞いて、小さく笑った。
「俺も。一緒に来れて、ほんとに良かった」
ふたりは、しばらくそのまま窓際に立ち尽くしていた。
時間の流れが少しだけゆるやかになったような感覚。
風がカーテンを揺らし、柚月の髪をやさしく撫でた。
その光景ごと、陽は胸に焼きつけるように見ていた。
夕方になると、空がほんのりと朱に染まり始めた。
ふたりはペンションの裏手、小さな木道の先にあるベンチに並んで座った。
誰もいない湖畔。
水音も鳥の声も、遠く小さくなって、ふたりの世界を包んでいた。
「……今日、すごく静かだね」
柚月がぽつりとつぶやく。
陽は頷きながら、同じように湖面を見つめた。
水のきらめきが、夕暮れの空を反射して揺れていた。
「静かなのに、不思議と、落ち着く」
「そう思ってくれてたら、嬉しい」
陽の声に、柚月は少しだけ顔を向けた。
その横顔には、日常のどこにもなかった穏やかさがあった。
「ねえ、陽くん」
「うん?」
「……こういう時間、前はちょっと苦手だった。
何を話せばいいのか分からなくて、沈黙が怖かった。
でも、今は――こうしてるだけでいいって、思える」
陽は何も言わなかった。
けれど、その言葉を心の中で何度も繰り返した。
静かに、深く、しっかりと。
柚月は視線を湖に戻し、小さく息を吐いた。
ふたりの間に沈む沈黙は、もう“怖い”ものではなくなっていた。
空がだんだんと夜の色に変わりはじめる。
橙色から群青へ、ゆっくりと。
ふたりはその空の下で、
言葉にしないまま、同じ景色を見ていた。
心の中に浮かぶ“まだ言えない言葉”を、そっと抱えたまま。
ペンションに戻る頃には、空はすっかり夜の色に変わっていた。
昼間の光に照らされていた湖は、今は静かに影を落とし、
水面にはぽつぽつと、対岸の明かりが反射していた。
食堂での夕食は、地元の野菜と魚を使った素朴な洋食だった。
ふたりともあまり多くを話さなかったが、不思議と沈黙が心地よかった。
フォークとナイフの音、グラスに注がれる水の音、
そのひとつひとつが、いつもの日常とは違うテンポで響いていた。
食事を終えたあと、スタッフに「星がよく見えますよ」と声をかけられ、
ふたりはペンションの裏庭に出た。
空気は昼よりもぐっと冷えていて、風が肌をなでるたびにひやりとする。
けれどその冷たささえも、どこか心地よく感じられた。
見上げた夜空には、星がいくつも瞬いていた。
街の明かりから離れたこの場所だからこそ見える、深い藍色の空と、数えきれない光の粒。
柚月がそっと息を呑む音が、すぐ隣から聞こえた。
「……すごい」
陽も同じように空を仰ぎながら、静かに頷く。
「ほんとに、全部がよく見える」
柚月は少しだけ顔を横に向けた。
陽の顔は暗がりに溶けていて、表情まではよく見えなかったけれど、
その横顔が、なぜかとても穏やかに見えた。
「こういうのって、写真だと絶対伝わらないよね」
「うん。空気とか、匂いとか……隣に誰がいるかとか。そういうのが一緒じゃないと、たぶん残らない」
柚月はその言葉を受けて、しばらく空を見上げたまま黙っていた。
そして、ぽつりとこぼすように言った。
「……なんか、ずっと忘れない気がする。今日のこと」
陽は、静かにその言葉を胸に受け止めた。
「俺も、同じこと思ってた」
ふたりはそのまま並んで立ち尽くしていた。
手が触れるか触れないかの距離。
けれど、踏み込むにはまだ早い気がして、どちらからも動かなかった。
風が、そっと柚月の髪を揺らした。
その髪が、ほんの一瞬だけ陽の肩に触れた。
それだけのことなのに、心臓が跳ねるのを感じた。
柚月は、うっすらと笑っていた。
その笑顔は夜空よりも静かで、星よりもやわらかかった。
ふたりの影が、外灯の下に長く伸びていた。
その間に流れる時間は、きっともう、日常には戻らない。
部屋に戻ると、ふたりは同じタイミングでベッドに腰を下ろした。
柚月は、チェックインのときに渡された小さな案内冊子を手に取りながら、陽に目をやる。
「……一日、あっという間だったね」
陽はうなずきながら、肩を軽く回した。
「うん。でも、ゆっくりだった気もする。不思議な感じ」
窓を少しだけ開けると、湖のほうから夜風が入ってくる。
部屋の灯りは控えめで、ベッドサイドのランプだけが、柚月の頬をやわらかく照らしていた。
彼女はリュックから文庫本を取り出して、ページを少しめくったあと、
パタンと閉じて、布地の上にそっと置いた。
「読もうと思ってたけど、なんか今日は、本じゃなくていいかなって思って」
「……俺も。今は、その感じわかる気がする」
ふたりの間に流れる静けさが、夜の空気と重なって、心地よく広がる。
「……ねえ、陽くん」
柚月が急に言葉を落とすように言った。
「ん?」
「今日の空とか、湖とか……言葉にできない感じって、あるよね。
たとえば、“きれい”とか“好き”っていう言葉が、逆に足りない気がするっていうか」
陽はそれを聞いて、ふっと笑った。
「ある。すごくある。
それこそ、今日一日ぜんぶ、そんな感じだった」
柚月は陽の横顔を見つめて、やがて目を伏せた。
「……じゃあ、たぶん私、今それなんだと思う」
その言葉に、陽は少しだけ息を呑んだ。
けれど、それ以上は聞かなかった。
聞いてしまえば、きっとその先の答えを求めてしまう気がしたから。
柚月もまた、それ以上は何も言わなかった。
けれど、言葉にしなくても通じ合える何かが、確かにふたりの間にあった。
ランプの明かりが、少しずつ心をほどいていく。
夜風がカーテンをやわらかく揺らし、虫の音が、静かなリズムを刻んでいた。
柚月はゆっくりと、ベッドに横になった。
「……おやすみ、陽くん」
その声は小さくて、でもはっきりと耳に残った。
陽はベッドの上で、天井を見上げながら返した。
「……おやすみ、柚月」
言葉にしなかった想いだけが、
そっと夜の静けさの中に溶けていった。
朝、窓から差し込む光で目が覚めた。
カーテン越しに透ける湖の青が、まだ夢の続きのように揺れている。
陽はゆっくりと上体を起こし、隣のベッドに目を向けた。
柚月はまだ眠っていた。
シーツの中で静かに呼吸を繰り返す彼女の横顔は、昨日よりも少しやわらかく見えた。
この旅が、彼女にとってどんな時間だったのか。
自分と同じように、忘れたくない一日になっていたのなら、それだけで十分だった。
しばらくして、柚月が目を覚ました。
少し眠たそうに髪をかき上げてから、陽の姿を見て小さく笑った。
「……おはよう、陽くん」
「おはよう。よく眠れた?」
柚月はこくりと頷いて、まだ少し夢の名残を残したような目で窓の外を見た。
「朝の湖、きれい……。昨日と全然ちがう」
「うん。……朝は空気が透き通ってる感じがする」
ふたりは顔を洗って、支度を整えて、食堂で軽い朝食を取った。
チェックアウトの時間まで、まだ少しだけ余裕があった。
だからもう一度、湖のほとりへ向かうことにした。
早朝の湖は、昨日とは別の表情をしていた。
風は弱く、水面はほとんど揺れていない。
空の青がそのまま写り込んでいて、湖というよりも鏡のようだった。
ふたりは昨日と同じ木道を歩き、同じベンチに腰を下ろした。
言葉はなくても、景色を共有しているだけで心が満たされる。
「……今日、帰るんだね」
柚月が、ぽつりとつぶやいた。
「うん。あっという間だった」
「でも……すごく、長く感じた。時間じゃなくて、濃さっていうか」
陽はゆっくり頷いた。
柚月の言う“濃さ”は、たぶん自分も同じように感じていた。
「ねえ、陽くん」
「ん?」
「……また来ようね。いつか」
陽は、柚月の言葉を胸の中でゆっくり噛みしめた。
「うん。絶対、来よう」
その約束だけで、心の奥がぽっとあたたかくなった。
ふたりはしばらく黙って湖を見つめた。
風がそっと通り過ぎ、木々の葉が小さく揺れた。
チェックアウトの時間が近づき、ペンションに戻ったふたりは、荷物をまとめて最後の確認を済ませた。
駅へ向かうバスを待つ間、木陰で並んで腰を下ろした。
そのとき、陽はバッグのポケットから、小さな包みを取り出した。
「……渡したいものがあるんだ」
柚月が驚いたように目を見開く。
「これ、旅のしおりの改訂版。
帰ったあと、思い出として見返せるようにって……少しまとめてみた」
柚月はそっとそれを受け取った。
包みを開いて中を見ると、昨日のページに、新しく手書きで書き加えられた文字があった。
「また来よう。——柚月と、一緒に。」
柚月は目を伏せ、ページの端をそっと撫でる。
「……ありがとう。すごく、嬉しい」
そしてそのまま、ふたりはバスに乗った。
静かに動き出した車窓から、湖が遠ざかっていく。
景色がゆっくりと小さくなっていくその瞬間、
陽の心は、ひとつの言葉を飲み込んで、でも確かに育てていた。
帰り道のどこかで、それを渡すと決めていた。
バスが駅に着く頃には、空の色が少しだけ柔らかくなっていた。
午前中の鋭さを残しつつも、どこか帰り道の光が混ざっている。
ホームへと続く階段を上がり、ふたりは改札の手前で足を止めた。
電車の時間まで、あと十五分ほど。
駅舎の脇にあるベンチに腰を下ろすと、
線路の向こうに広がる山並みが、旅の余韻を映すように静かにたたずんでいた。
陽は、となりで座る柚月の横顔をそっと見た。
どこか名残惜しそうに遠くを眺めていて、言葉は何も発していなかった。
けれど、空気が変わったのは、ふたりとも気づいていた。
陽は、ゆっくりと息を吸った。
胸の奥でずっとあたためていたものを、ようやく口にする時が来たとわかっていた。
「……柚月」
柚月は、その名を呼ばれた瞬間、小さく振り向いた。
目が合う。
その瞳の奥に、静かな期待と、少しの緊張が揺れていた。
陽は、そのまま言葉を重ねた。
「この旅、すごく楽しかった。
一緒にいる時間が、こんなに自然で、こんなにあたたかいなんて……思ってなかった」
柚月は何も言わなかった。
けれど、視線は陽の言葉の先をまっすぐに捉えていた。
「最初に話した時から、たぶん俺、もう気づいてたんだと思う。
静かに笑ったり、本をめくる仕草とか……気づくたびに、どんどん惹かれていった」
陽の声は、風の音に混じって、でもしっかりと柚月に届いていた。
「……好きだよ、柚月」
そのひと言は、今まで言えなかったすべてを、やさしく包むように放たれた。
柚月は、少しだけ目を見開いた。
そして、まぶたを伏せるようにゆっくりと笑った。
それは、静かで、深くて、でも何よりも嬉しそうな笑顔だった。
「……私も」
陽の胸が、きゅっと音を立てるようにしぼんだ気がした。
「私も、陽くんと一緒にいると、言葉じゃ足りないくらい、
安心して、あたたかくて、……好きっていう気持ちが、自然にそこにあった」
ふたりは、ほんの少しだけ距離を詰めた。
触れ合っていないのに、心が重なっているのがわかった。
ホームに電車の音が近づいてくる。
ふたりは目を合わせたまま、小さくうなずき合う。
「……これからも、隣にいていい?」
「……うん。ずっと」
電車がゆっくりとホームに入ってくる。
ふたりは立ち上がり、並んで乗り込んだ。
旅の終わりに、やっと伝えられた言葉が、
これから始まる日々の入口に、そっと灯っていた。
車窓に映る景色が、少しずつ元いた日常へと戻っていく。
高原の緑は街の並木に、空の広さはビルの輪郭に溶けていく。
それなのに、陽も柚月も、ひとつもさみしくはなかった。
窓際の席に並んで座ったまま、ふたりは多くを語らなかった。
けれど、肩と肩の間に流れる空気が、もう前とは違っていた。
言葉よりも近く、沈黙よりもあたたかく――ふたりの気持ちは、確かに隣り合っていた。
電車の振動に合わせて揺れるカーテン。
柚月の黒髪が少しだけ揺れて、陽の袖にふれた。
それをきっかけに、陽はそっと声を落とす。
「柚月」
彼女はすぐに振り向いた。
「なに?」
「今、すごく幸せって思ってる。
だから、たぶん……何度も思い出すと思う。
今日のことも、湖の景色も、君のことも」
柚月はしばらく陽の顔を見つめて、
やがて、少しだけ恥ずかしそうに目をそらした。
「……私もだよ。
多分、ぜんぶ思い出す。
陽くんが“柚月”って名前で呼んでくれる声も、電車の音も、
静かだった夜の湖も、ぜんぶ」
陽は、そっと彼女の手を取った。
無言のまま、指先を重ねる。
柚月は驚いた様子で少しだけ目を開いたが、やがてその手を握り返した。
外の景色が夕方の色に染まりはじめる。
ふたりが言葉を交わすたび、旅の終わりは遠ざかっていくようだった。
告白という瞬間で終わるのではなく、そこから始まる時間を、ふたりはゆっくりと選び取っていた。
「……これから、もっとたくさん一緒に思い出作っていこうね」
「うん、作っていこう。静かでも、賑やかでも、ふたりでならきっと大丈夫」
手のぬくもりが、まるで何かを約束するように、やさしく重なっていた。
電車は次の駅へ向かって、静かに走り続けていた。
夕暮れが街の輪郭をやわらかく染めていた。
窓の外、オレンジ色の光がアスファルトを照らし、
ビルの影が長く伸びて、電車の中まで静かに差し込んでくる。
ふたりの手は、まだ繋がったままだった。
重ねた指の間に言葉はいらなくて、
むしろ言葉があれば壊れてしまいそうなほど、静かで、あたたかな時間だった。
「もうすぐ、駅に着くね」
柚月がそう言ったとき、陽は小さくうなずいた。
「うん。……でも、不思議だね。
家に帰るっていうより、“またここから始まる”って気がする」
柚月は驚いたように目を見開いてから、ゆっくりと笑った。
「……私も。
旅が終わったのに、終わった気がしない。
むしろ、これから毎日がちょっとずつ、旅の続きみたいな気がする」
電車が減速を始めた。
車内にアナウンスが流れ、ふたりはゆっくりと立ち上がった。
改札を抜けると、街の喧騒がほんの少し耳に戻ってきた。
でもそれさえも、どこか遠く感じた。
「……じゃあ、また明日、学校で」
陽が言うと、柚月は少しだけ首をかしげた。
「ううん。ちょっとだけ、もう少し一緒に歩かない?」
「……うん」
駅前の広場を抜けて、住宅街へ続く道。
歩く速度も、呼吸の間も、旅のときと何ひとつ変わらなかった。
夏の風が、街路樹をゆらして通り抜けていく。
柚月はふと立ち止まり、空を見上げた。
「……ほんとに、変わったね。いろんなこと」
陽は横で静かにうなずく。
「変わった。でも、全部ちゃんと、君がいたから変われた気がする」
柚月はその言葉に、ほんの少し頬を赤らめて、うつむいた。
「……じゃあ、これからもそばにいてね。
変わっていくことも、変わらないものも、一緒に見ていたいから」
「うん。ずっと、隣にいるよ」
ふたりの影が、街灯に照らされて長く伸びていた。
それは夏の旅の余韻ではなく、これからの日々のはじまりを、
静かに照らしていた。
帰り道の角を曲がったとき、柚月がふと立ち止まった。
見上げた空は、すっかり夜の色になっていた。
でも、不思議と暗くはなかった。
街灯の下、淡く照らされた表情には、白昼のやわらかさと、夜の落ち着きが混ざっていた。
「ねえ、陽くん」
「ん?」
「……好きって、言葉にしたあとって、なんだかちょっと、照れるね」
陽は一瞬驚いた顔をして、すぐに小さく笑った。
「うん。俺も、ちょっと思ってた。
言えてよかったって思ってるけど……やっぱり、何度言っても照れくさい」
柚月はそれを聞いて、足元に視線を落としたまま、少しだけ肩を揺らして笑った。
「ねえ」
「うん?」
「……もう一回、言ってみて」
陽は少しだけ考えて、それからまっすぐに彼女を見た。
「好きだよ、柚月」
柚月は、一瞬だけ目を閉じるようにして、その言葉を受け取った。
そして、まるで受け取った想いをそのまま返すように、小さな声で返した。
「私も、陽くんのことが……好き」
ふたりの間に流れた沈黙は、とても穏やかだった。
風が通り、木の葉を揺らし、街の音が遠くでかすかに響いている。
柚月が、そっと陽の手を取った。
駅で繋いでいた手とは違って、今度は自分から。
そのぬくもりは、まるで夏の夜の記憶がかたちになったようだった。
「……名前、もっと呼びたいけど、やっぱりまだちょっと照れる」
「じゃあ、照れながら、少しずつ呼んでいこう」
「うん、少しずつ」
並んで歩く足音が、住宅街の静けさにやさしく重なっていく。
もうすぐ家に着いてしまう、その感覚が少しだけもったいなく感じられた。
でも、ふたりにはもう約束はいらなかった。
次に会える確信と、心の中に灯った想いが、
何より確かに、明日へとつながっていた。
夜の空に星がにじみはじめる。
その下で、ふたりの歩幅はぴたりと重なっていた。
やがて、柚月の家の前にたどり着いた。
門の前でふたりは立ち止まり、互いに顔を見合わせる。
帰ってきたはずなのに、どこか夢からまだ醒めていないような気持ちが残っていた。
「……じゃあ、また明日」
陽がそう言うと、柚月は小さく頷いた。
けれど、すぐには玄関のほうを向かなかった。
「陽くん」
「ん?」
「……今日、ほんとに、ありがとう。
旅に誘ってくれて、一緒にいてくれて……気持ち、ちゃんと伝えてくれて」
陽はその言葉を静かに聞いて、微笑んだ。
「俺の方こそ、来てくれてありがとう。
一緒に過ごしてくれて、名前で呼んでくれて……好きになってくれて」
柚月はふっと笑って、でもすぐに目線を落とした。
「……なんかね、こうして玄関の前で話してるだけでも、胸がいっぱいで。
“好き”って一度言っただけなのに、頭の中が君のことでいっぱいなの、ちょっと不思議」
陽はその言葉を、愛おしい気持ちと一緒に胸に刻んだ。
そして、ゆっくりと顔を近づけて、そっと額を彼女の額に重ねた。
「……俺も、そう。ずっと、柚月のこと考えてた」
柚月は驚いたように目を見開いて、でも逃げようとはしなかった。
額が触れ合ったまま、目を閉じて、そっと息を吐いた。
「……陽くん」
その名を呼ぶ声は、今まででいちばんやわらかかった。
そして、そこにはもう照れも戸惑いもなかった。
ふたりは額を離し、そっと名残惜しそうに見つめ合った。
そして、ようやく一歩ずつ離れていく。
「じゃあね、陽くん。……また明日」
「うん、また明日」
柚月が家に入っていくのを見届けてから、陽はその場にしばらく立ち尽くした。
静かな夜風が通り過ぎ、どこかで蝉がひと声鳴いた。
“夏が、ちゃんと来たんだな”
陽はそんなことを思いながら、ゆっくりと歩き出した。
いつもより少し軽くなった足取りで、
その背中には、夏の記憶と、これからの季節がそっと重なっていた。
翌朝、柚月は少し早めに目を覚ました。
枕元には、旅に持っていった文庫本と、小さなしおりの束が置かれている。
いつも通りの部屋、見慣れた天井。
けれど、胸の奥は昨日までとは明らかに違っていた。
起き上がってカーテンを開けると、差し込む朝の光が柔らかく彼女の頬を撫でた。
その瞬間、昨日の湖の静けさと、陽の声が同時によみがえってくる。
――「好きだよ、柚月」
そのひと言を思い出すだけで、胸の奥がぽっと熱を帯びる。
けれど不思議と、浮ついた気持ちはなかった。
ただ、何かが自分の中にそっと根を下ろしたような、そんな安定した温度が残っていた。
柚月は、机の引き出しから旅のノートを取り出して開いた。
陽がくれたしおりの中には、「また来よう」と書かれたページが挟まれている。
そこに、静かに自分のペンで一行だけ書き足した。
――「きっと、また」
陽はというと、いつもと同じように朝練のために学校に向かっていた。
けれど、走る足取りは軽かった。
まだ肌に残る旅先の風の感触、柚月の手のぬくもり。
すべてが心の中に生きていて、それが彼を少しだけ強くしていた。
練習が終わる頃、陽は汗を拭いながら空を見上げた。
雲ひとつない、まっさらな夏の空。
この空の下で、彼女とまた日常を始める。
それが、昨日までとは違う今日をつくっていた。
始業前の教室、窓際の席に柚月が座っていた。
陽が教室に入ると、彼女はふと目を上げて、ほんの少しだけ目を細めた。
「……おはよう、陽くん」
その声は、日常の中に差し込む特別な光みたいだった。
「おはよう、柚月」
照れも、ぎこちなさも、少しだけ混ざっていたけれど、
そのすべてが、今のふたりらしいと思えた。
新しい季節が、静かに始まっていた。