4.最初のひとつ
週が明けると、教室の空気にもすっかり夏の匂いが混ざっていた。
窓から差し込む日差しは一段と強くなり、陽の頬や腕を焼くような光に変わっていた。
扇風機の音と、教科書をめくる紙の音、そしてどこか浮き足立った会話が入り混じる昼休み。
陽は、自分の机の上でスマホを見つめていた。
昼休みに柚月から届いたメッセージが、まだ胸の奥にじんわりと残っている。
『ねえ、旅の話、今日できる?』
そのひと言だけで、心が一気に軽くなった。
陽はすぐに「放課後、図書館で」と返した。
放課後、いつものようにふたりは図書館の隅の席に座った。
けれど、今日はお互いに本を開かなかった。
机の真ん中に、陽の開いたノートが置かれていた。
そのページには、大きく「夏旅計画」と書かれている。
「……ほんとに書いてたんだ」
柚月は小さく笑った。
「うん。本気で考えてた。どこ行きたいかなって、いろいろ」
陽は照れくさそうに笑って、いくつか書き出した候補を指差した。
「ここ、電車で行ける海辺の町なんだけど、駅からの道がすごく雰囲気いいって聞いた。
それとここ、古本屋が多い商店街があるらしい。あと、これが――」
「待って」
柚月が、そっと陽の言葉を止めた。
「……陽くん、全部、私が好きそうな場所」
「……うん、まあ。そうかも」
陽は少しだけ肩をすくめて、照れ隠しのように笑った。
「自分が行きたいっていうより、柚月と一緒に行くならって考えたら、自然にそうなった」
柚月は何も言わなかった。
けれどノートを見つめるその目は、ほんの少し潤んでいるように見えた。
「……全部、いいかも」
彼女はそう言って、ページの隅を指先でなぞる。
「ひとつ選ばなきゃいけないの、もったいないくらい。
でも、どれかにしないと、夏が来ちゃうね」
陽はうなずいた。
「じゃあ、こうしようか。第一候補を決めて、次はまた秋でも冬でも、行けばいい」
柚月は顔を上げて、陽の目をじっと見た。
「……また、行けるかな?」
その問いに、陽は迷いなく答えた。
「行こう。絶対。何度でも」
柚月の目元が、ふっと緩んだ。
「……うん」
そしてふたりは、肩を寄せるようにしてノートのページを見つめた。
これから訪れる場所のことを、まだ知らない景色のことを、
ふたりで、ひとつひとつ、想像していった。
その時間さえも、旅の始まりのように思えた。
帰り道、陽と柚月は並んで歩いていた。
道の脇には紫陽花がゆれていて、夕暮れの光が空の端をゆっくりと染めていた。
ふたりの足取りはゆっくりで、けれど不思議と揃っていた。
ときどき吹く風が、柚月の髪をふわりと揺らして、陽の頬をかすめる。
曲がり角の手前で、柚月がふと立ち止まった。
陽もそれに気づいて歩みを止める。
柚月は、夕陽に照らされた舗道を見つめたまま、しばらく黙っていた。
その横顔はどこか考え込んでいるようで、でも焦りのようなものはなかった。
そして、ゆっくりと顔を上げて、陽の方を見た。
何も言わない。
ただ、じっと――まっすぐに、目を合わせる。
その視線に、陽は自然と呼吸を止めた。
胸の奥に熱が差し込んでくるような、不思議な感覚。
言葉はなくても、何かを、たしかに伝えようとしているのがわかった。
だから、陽は小さく笑って、ゆっくりと口を開いた。
「……もう少しだけ、待っててくれる?」
柚月はわずかに目を見開いたあと、すぐに静かにうなずいた。
それだけで、十分だった。
陽は続ける。
「ちゃんと、自分の言葉で伝えたいから。
タイミングを逃したくないんだ。
……そのときは、ちゃんと柚月に、聞いてほしい」
柚月の表情は、ほんの少しやわらいでいた。
目元がやさしくなり、口元にかすかな笑みが浮かぶ。
言葉はなかったけれど、その表情だけで――“わかってる”と伝えてくれていた。
ふたりはまた歩き出した。
沈黙は続いていたけれど、それはもう、何も言わなくても伝わるものがある沈黙だった。
夕陽が、道の先をあたたかく照らしていた。
その光の先には、ふたりだけの夏が、もうすぐ始まろうとしていた。
次の日、放課後の図書館は少し蒸し暑くて、いつもの静けさに微かに夏の匂いが混ざっていた。
窓の外では扇風機の音に混じって、遠くの部活の掛け声が風に乗って届いていた。
柚月と陽は、いつもの席に座っていた。
今日はどちらからともなく本を開き、そのまま言葉を交わさずに並んでいた。
けれど、沈黙は不思議とやさしかった。
本のページをめくる音と、筆記用具の小さな動き――それだけが静かにふたりの間をつないでいた。
柚月は時折ページをめくる手を止めて、少しだけ空を眺めた。
陽もその横顔をちらりと見ては、すぐに目を戻した。
“伝えたいこと”は、まだ言葉になっていない。
けれどふたりの間にあるものは、確かに変わっていた。
陽がふと、カバンから折りたたんだメモ帳を取り出して柚月に見せた。
「この前の旅の案、まとめてきた。候補、三つくらいに絞ってみたんだ」
柚月はメモを覗き込み、小さくうなずいた。
「……楽しみにしてる」
その言葉には、旅の話以上の気持ちが込められているように感じた。
陽もまた、自然と頬がゆるんだ。
「梅雨、もうすぐ終わりそうだね」
柚月がぽつりとつぶやいた。
「うん。……夏、すぐそこまで来てる」
柚月は窓の外を見て、陽の言葉をなぞるように小さく笑った。
「……そうだね。すぐそこだね」
ふたりの視線が、少しだけ重なった。
何も言わなくても、夏がふたりに何をもたらすか――
どこかで、もうわかっているような気がした。
静かな夕暮れの中で、図書館の時計の針が、確かに次のページへと進んでいた。
数日後、梅雨明けが発表された。
空は驚くほど青く、蝉の声がどこからともなく聞こえてきた。
夏が本格的にやってきたことを、校舎のガラス窓越しにすら感じられる。
陽は教室の窓際で、ペットボトルの水を口に含みながら、
まるで旅立ちの前のような静かな高揚感を胸に抱えていた。
放課後、図書館ではなく、今日はふたりで駅前のカフェに寄る予定だった。
旅の行き先と日程を、最後に決めるため。
約束の時刻、待ち合わせ場所にはすでに柚月がいた。
彼女はいつもの制服ではなく、淡いベージュのブラウスに、シンプルなスカート姿だった。
陽が近づくと、彼女は気づいて、ゆっくりと笑った。
「……こんにちは、陽くん」
「うん、待たせた?」
「ぜんぜん。今来たところ」
その言葉に、陽はふっと笑った。
夏の日差しの中、ふたりは並んでカフェに入った。
窓際の席に座り、メニューの後ろから陽が取り出したのは、
丁寧にまとめ直された旅のノート。
「改めて……この3つの中から決めようか」
1.海辺の町と灯台
2.古本屋の並ぶ商店街
3.小さな湖と静かなペンション
柚月はページをじっと見つめたまま、
ときどき指先で文字をなぞりながら、どれも大切そうに見ていた。
「どれも……すてきだね。ひとつに決めるの、もったいないくらい」
陽は小さく笑って言った。
「じゃあ、“最初のひとつ”を決めようか」
柚月はふと顔を上げて、陽の目を見た。
その目には、どこかふわりとした熱が宿っていた。
「……陽くんは、どこがいいと思う?」
「俺は、全部行きたいけど――」
少し間を置いて、穏やかに答える。
「一番最初は、……君と一緒に静かに過ごせる場所がいい。
あんまり観光地っぽくなくて、のんびりできるところ。
何も話さなくても、楽しいって思えるような、そんな時間が流れてる場所」
柚月は目を細めて、その言葉を噛みしめるように頷いた。
「……じゃあ、湖のペンション、にしようか。
静かで、涼しそうで……陽くんと行くなら、ちょうどいい気がする」
「……うん、そう思う」
決まった。それだけなのに、
ふたりの間に、目に見えない確かな温度が流れた。
会話のあとは、ゆっくりとアイスティーのグラスが空になっていった。
街の喧騒が遠くなって、ただ夏の光と風だけが残っていた。
旅の準備は、すべて整った。
あとは、その日を迎えるだけだった。