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3.夏めく予感

六月の初め。

梅雨の気配が空気に混ざり始めた頃、陽の陸上部では、県大会に向けた強化練習が始まった。

放課後の練習時間が長引く日が続き、図書館で柚月に会える時間はだんだんと減っていった。


「……今日も来られなかったか」


柚月は窓際の席に座りながら、静かにページをめくっていた。

けれど、視線は本の上を滑るばかりで、内容はほとんど頭に入ってこなかった。


陽が図書館に顔を出せたのは、週の終わりの金曜日だった。

彼女はもう帰ったかもしれない、そう思いながら扉を開けた陽は、

いつもの窓際にぽつんと座る柚月の姿を見つけた。


その瞬間、胸の奥がふわりとほどけるような気がした。


「……柚月」


呼びかけると、柚月は顔を上げた。

そして、ほんの少しだけ驚いたような顔をして、それから微笑んだ。


「……久しぶり、陽くん」


「うん、ごめん。大会前で、練習、ちょっと大変で」


「わかってる。……がんばってるって、思ってたよ」


その言葉に、陽は救われるような気持ちになった。

柚月の言葉はいつも静かで短いけれど、確かな優しさを含んでいた。


「来週、県大会なんだ。土曜日に、県立競技場で」


「……そっか。行ってもいい?」


その問いに、陽は一瞬だけ目を見開いた。

驚きと嬉しさが一度に胸にこみ上げてきて、うまく笑えなかった。


「もちろん。……来てほしい」


柚月は、そっと頷いた。

窓の外では、小さな雨粒がガラスを叩き始めていた。

けれど、その音すら心地よく感じられた。


ふたりの心は、確かに、次の扉へと向かおうとしていた。


大会当日の朝、空は曇っていた。

けれど雨は降っておらず、空気は思ったよりも涼しかった。


県立競技場のスタンドには、陽の学校の仲間たちや保護者が並び、

応援の声と笛の音が遠くから響いていた。

スタンドの上段の隅、少し離れた場所に、柚月はひとりで座っていた。


少し丈の長いカーディガンに、肩掛けの布バッグ。

いつもの制服姿とは違うけれど、どこか“彼女らしさ”が滲み出ていた。


手には、読みかけの文庫本。

けれど、ページはほとんど進んでいない。

視線は時おりフィールドに向かって、探すように動いた。


アナウンスが、次のレースを告げた。


「男子二百メートル、予選第五組。各組一着および上位タイムの選手が決勝へ進出します」


柚月は、ぐっと指先に力を込めて本を閉じた。

視線をフィールドに向ける。

スターティングブロックに腰を下ろす陽の姿が、やっと見えた。


ジャージの上を脱ぎ、スタートラインに立つ陽の背中は、まっすぐに前を見据えていた。

耳には届かない距離だけれど、柚月は静かに口の中でつぶやいた。


「……がんばって」


号砲が鳴る。


その瞬間、陽は弾かれるようにスタートを切った。


一歩、また一歩。

加速するたびに、空気が裂ける音がスタンドまで響いてくるようだった。

腕の振り、肩の伸び、脚のしなり――すべてが、一瞬ごとに進化していくような走りだった。


その姿を、柚月は息を飲んで見つめていた。

言葉はいらなかった。

ただ、その“まっすぐさ”に、胸を打たれていた。


陽がゴールラインを駆け抜けると、スタンドに歓声が沸き起こった。

タイムを確認する陽の顔に、汗が光っている。

そして、口元が、少しだけ笑った。


「……よかった」


柚月は、小さく、ほんの小さくつぶやいた。

胸の奥が、じんわりと温かくなる。

それは、勝敗よりももっと大事な“何か”を感じた証だった。


その日、陽は予選を突破し、決勝に進出した。

帰り際、競技場の出口で陽が柚月を見つけたのは、偶然ではなかった。

視線が合うと、陽は真っ直ぐに歩いてきて、額の汗を袖で拭いながら言った。


「……見てくれてた?」


柚月は頷いた。

そして、少しだけ息を整えるようにして、短く返した。


「うん。……かっこよかった」


陽の顔が、ほんの少し赤くなった。

でもその表情には、まぎれもない嬉しさがにじんでいた。


「……ありがと。来てくれて」


「……来てよかった」


ふたりは、少しだけ立ち止まって、

その場の空気を共有するように、並んで歩き出した。


雨は、もう降りそうになかった。

空はまだ曇っていたけれど、ふたりの間に差す光は、

はっきりと、あたたかかった。


その日の帰り道、ふたりは競技場近くの並木道を歩いていた。

沿道には紫陽花が色づきはじめていて、湿った空気のなかに、少しだけ夏の気配が混ざっていた。


陽は、まだどこか熱の残る身体をクールダウンするように、ゆっくりと歩いていた。

柚月はいつもより少し口数が多く、レースのことや、応援のタイミング、スタンドからの眺めなどを話してくれた。


そのどれもが、陽にとっては夢みたいだった。


「……ほんとに、嬉しかったんだ」

陽がふと立ち止まり、柚月の方を向く。

「走ってる時さ、なんとなくわかった。見てくれてるって」


柚月は少しだけ目を見開いたあと、ゆっくりと笑った。

「……なんとなくじゃなくて、ちゃんと見てたよ」


その言葉の響きが、陽の胸にすっと届いた。


「俺、柚月に見ててもらえるの、すごく嬉しい。……なんでだろうな。

 他の誰よりも、そう思うんだ」


柚月は、肩にかけていたバッグのストラップをぎゅっと握った。

足元に目を落としながら、しばらくのあいだ何も言わなかった。

そして、歩き出した。数歩だけ進んで、陽の方を振り返る。


「……じゃあ、私も、ちゃんと伝えた方がいいのかな」


「え?」


柚月は陽の目を、まっすぐに見つめた。

どこか覚悟を決めたような、それでいて柔らかな瞳だった。


「私ね、陽くんが走ってるとこ、すごく好き。

 いつもと違う顔してて、でもすごく陽くんらしくて。……見てて、安心するの」


陽は、言葉を失った。

口を開きかけて、でもすぐには何も出てこなかった。


「……ありがとう」


やっとのことで、それだけを返した。


柚月は、ふっと目を細めた。

そしてまた、歩き出す。


「……ねえ、陽くん」


「うん」


「夏、どこか行こうか」


陽は、一瞬で胸の奥が熱くなるのを感じた。


「……ほんとに?」


「うん。……行きたい。陽くんと、どこか」


陽は、すぐには返事をしなかった。

けれど、気づけば笑っていた。

顔が熱くなるのも構わずに、心からの声で答えた。


「……行こう。絶対、行こう」


ふたりの足音が、紫陽花の小道にやわらかく響いた。

その音は、これから始まる新しい季節の、はじまりの合図のようだった。


その夜、陽は布団の中で何度も柚月の言葉を思い返していた。

「行きたい。陽くんと、どこか」

そのひと言が、頭の中で何度もこだましていた。


部屋の明かりはとっくに消していたけれど、眠気は一向にやってこなかった。

窓の外からは、遠くで虫の声がかすかに聞こえる。

初夏の夜風が少しだけ開いた窓から入り込み、肌にやわらかく触れた。


“夏、どこか行こうか”


夢のように思えていたことが、現実になる。

柚月とふたりで、旅をする。

それだけのことが、こんなにも心を浮き立たせるなんて。


陽はベッドの中で身じろぎして、スマホを手に取った。

画面を点けると、ふたりで使っているチャットアプリがすぐに目に入った。

「どこに行きたい?」と送ろうかと思ったが、言葉がうまくまとまらない。

だから代わりに、こう打った。


『今日、来てくれてありがとう。ほんとに、嬉しかった。』


送信。

既読はすぐについた。


しばらくして、画面に返事が届く。


『こちらこそ。すごく、かっこよかったよ』


陽の胸がふっとあたたかくなる。

この感覚が、なんとも言えず心地よかった。


その下に、もうひとつメッセージが届く。


『旅のこと、またゆっくり話そうね』


その言葉を見て、陽はスマホを胸元にそっと置いた。

頬が緩むのを止められないまま、目を閉じる。


夏が、すぐそこまで来ている。

そしてそれは、ふたりにとって、たったひとつの“はじまり”だった。

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