2.名前で呼ぶ日
翌日の放課後、ふたりはまた、図書館で顔を合わせた。
何も約束したわけではなかったけれど、当然のように、そこにいた。
「……昨日は、ありがとう」
柚月が椅子に腰を下ろしながら、小さな声で言った。
陽は少しだけ驚いたように目を見開いてから、笑ってうなずいた。
「こっちこそ。……お邪魔しました」
柚月はうなずいて、それ以上は何も言わなかった。
けれどその頬が、ほんの少しだけ赤くなっているのを、陽は見逃さなかった。
そのあとふたりは、特に何を話すでもなく、それぞれの本を開いた。
陽は何度か、柚月の指先や視線をこっそり追いかけては、慌てて目を戻した。
でも、それももう自然な流れの一部になっていた。
図書館の窓の外には、春の終わりを告げるような風が吹いていた。
季節は、確かに進んでいた。
けれどふたりの間には、まだ柔らかくゆっくりとした時間が流れていた。
ふと、陽がそっと口を開いた。
「……柚月さんって、さ。最初から、ここに来てた?」
柚月は本から顔を上げて、少しだけ考えるように間を置いた。
「うん。……入学してすぐくらい。
人が多いところ、あんまり得意じゃなくて。
静かな場所のほうが、落ち着くから」
「そっか……なんか、わかる気がする」
陽はそう言って、ふと、窓の外に目をやった。
そして、ぽつりとつぶやく。
「なんでだろうな。
初めて話したときより、最初に見たときのほうが、よく覚えてるんだ」
柚月は静かに目を伏せて、小さく笑った。
「……君、最初に私のこと見たの、いつ?」
陽は少しだけ照れたように、笑って答えた。
「図書館。たぶん、春のはじめ。
窓際で、本読んでた。風で髪、少し揺れてた」
柚月はその言葉を聞いて、ふっとまばたきをした。
「……そうなんだ。
私も、なんとなく……君のこと、見た気がする」
ふたりは目を合わせた。
それは、ほんの数秒のことだったけれど、
その視線の奥には、言葉にならない何かが、確かに通っていた。
本を読む音が、また静かに響き始めた。
けれどその日、ページをめくる手は、いつもより少しだけゆっくりだった。
週が明けるたびに、ふたりの関係はほんの少しずつ形を変えていった。
並んで座る距離は変わらないのに、心の距離は気づかないうちに近づいていた。
それは、名前の呼び方ひとつで、もっと実感できるのかもしれない。
陽は、何度か“柚月”と呼んでみようと思った。
けれど、そのたびに口の中で言葉が引っかかってしまう。
彼女がどんな風に思うのか、まだ少し怖かった。
けれど、呼びたい。ちゃんと、名前で。
そう思えば思うほど、タイミングを失っていく。
そんなある日の放課後、図書館に柚月の姿はなかった。
教室で見かけていたから、今日は来ないということではないはずだった。
陽は席についてしばらく本を開いていたが、ページをめくる気になれず、閉じて立ち上がった。
帰り道、昇降口を出たところで、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
校舎の裏手、小さな植え込みの近く。
柚月は、ひとりでベンチに腰かけていた。
制服のまま、カバンを膝にのせて、うつむいている。
陽は少しだけためらったけれど、歩み寄った。
「……どうしたの?」
声をかけると、柚月は驚いたように顔を上げた。
そして、少しだけ表情をゆるめた。
「……なんでもない。ちょっと、疲れただけ」
陽はその隣に、静かに腰を下ろした。
しばらくの沈黙が流れる。
「……嫌なこと、あった?」
「……少し。
……でも、こうしてると、大丈夫」
柚月はそう言って、小さく息をついた。
夕暮れの風が、ふたりの間を通り抜ける。
言葉はなくても、それだけで伝わるものがある気がした。
陽は、ゆっくりと口を開いた。
「……柚月、さん」
柚月が、はっとして陽の方を見る。
その瞳に、わずかな驚きと、戸惑いが混ざっていた。
陽は照れくさそうに笑った。
「ごめん、急に。……でも、名前で呼びたくて。
ずっと、呼びたくて」
柚月は、何か言いかけて、やめた。
そして、視線を少しだけ落とし、頬に赤みを帯びながら、
そっと、ひとことだけつぶやいた。
「……嬉しい、かも」
その声は、とても小さくて、
でも陽には、今まででいちばん強く届いた気がした。
その言葉が胸の奥で静かに溶けていくのを、陽はしばらく黙って感じていた。
何も返せなかったけれど、返す必要もなかった。
それだけで十分だった。
ベンチに並んで座るふたりの間には、静かな夕風が吹いていた。
さっきまで少し曇っていた空も、気づけば柔らかく晴れ始めていた。
柚月は膝の上で手を重ねたまま、小さく深呼吸をした。
その仕草が、どこかいつもより寂しげに見えて、陽は何となく口を開いた。
「……俺さ、柚月さんと話すようになってから、ちょっとだけ、変わったかも」
柚月はそっと顔を向けた。
陽はそれを見て、小さく笑う。
「なんかこう、焦らなくていい時間っていうの? そういうの、ちゃんと大事にしたいって思えるようになった」
柚月は少し目を細めて、その言葉を噛み締めるように聞いていた。
そして静かに言った。
「……私も、かも。
最初は、誰かと話すのって、どうしたらいいかわからなくて……でも、陽くんといると、変に頑張らなくていいから」
“陽くん”。
その呼び方に、陽の心臓がふいに跳ねた。
いつもは「君」と呼ばれていた。
けれど今、確かに「陽くん」と――名前で、呼ばれた。
陽は目を見開いて、少しだけ驚いた顔をした。
柚月はその表情に気づくと、急に目を逸らし、ほんのわずかに肩をすくめた。
「……今の、忘れて」
「なんで?」
「……慣れてないから。名前で呼ぶの。男子のこと、ちゃんと呼ぶの、多分初めてで」
陽は、彼女の赤くなった耳を見ながら、堪えきれずに笑ってしまった。
けれどそれはからかう笑いじゃなく、どこか愛おしさを含んだ、やわらかい笑みだった。
「じゃあ……もう一回、言ってくれる?」
柚月は、ぎこちなく、でもほんの少しだけ笑いながら、息を整えた。
「……陽くん」
そのたった四文字の音が、春の夕暮れの空気に、優しく溶けていった。
そしてふたりの心の中にも、そっと灯りをともしたように感じられた。
帰り道、ふたりは並んで歩いた。
少し肌寒さの残る風の中を、言葉も少なく、けれど沈黙を気まずく感じることはなかった。
踏みしめるアスファルトの音と、時おり聞こえる鳥の声だけが耳に残る。
陽は、ときどき横目で柚月を見た。
彼女はどこか落ち着かない様子で視線を前に向けたまま、口元に手を添えていた。
呼び名を変えたことが、やっぱりまだ照れくさいのだろう。
そんな彼女の横顔が、やけに愛おしく思えた。
「……じゃあさ」
唐突に陽が言った。
柚月は少し驚いたように顔を向けた。
「“柚月”って、呼んでもいい?」
柚月は、すぐには答えなかった。
道沿いの花壇に咲いた名前の知らない白い花を、しばらくじっと見つめていた。
「……呼びたい?」
「うん。呼びたい。たぶん、ずっと前から」
柚月はほんの少しだけ歩みを緩め、
そして、かすかに笑った。
「……じゃあ、おあいこ、だね」
その答えに、陽の心がふっと軽くなった。
嬉しさと照れくささが一度に押し寄せてきて、うまく顔に出せなかった。
「……柚月」
初めて、口にしたその名前。
どこか呼び慣れない音だったけれど、不思議とよく馴染んだ。
柚月はその声に、ほんのわずかにまばたきをして、
けれどすぐに、小さくうなずいた。
「……うん」
そのとき、夕陽がふたりの影を、まるでひとつにするように伸ばしていた。
風がまた、少しだけ強く吹いたけれど、
そのぬくもりは、揺らがなかった。
次の日、教室で陽が「おはよう」と声をかけると、柚月は一瞬だけきょとんとしてから、ふっと笑った。
「……おはよう、陽くん」
周囲の友人たちは特に気にすることもなく、それぞれの朝の会話を続けていた。
けれど陽にとっては、そのひとことが、いつもより少し特別に響いた。
“陽くん”という呼び名が、教室の空気に自然に混ざっていく。
それがどこかくすぐったくて、嬉しかった。
放課後、ふたりはいつも通り図書館へ向かった。
名前を呼び合うようになったからといって、何かが劇的に変わるわけではなかった。
けれど、名前を口にするたびに、ふたりの間にあった薄い壁が、少しずつ溶けていくような感覚があった。
その日、陽は本を読みながらふと手を止めた。
隣の柚月が、じっとページを見つめたまま、なぜか動かない。
何かに引っかかっているような顔をしていた。
「……どうしたの?」
陽が尋ねると、柚月は少しだけ唇を結んで、そっと本を閉じた。
「……悲しいシーンだったの。
この登場人物、きっと誰にもちゃんと気持ちを伝えられなかったんだと思う。
好きって、言葉にしないと、相手に届かないことってあるんだなって、ちょっとだけ思った」
その言葉に、陽はページを閉じ、しばらく何も言わずに柚月の横顔を見つめた。
彼女はまだ視線を下げたままで、何も言い足さなかった。
けれど、陽の中にはその言葉が、静かに沈んでいった。
言葉にしないと、伝わらないこと。
それは、きっと本の中の話だけじゃない。
陽は、本の表紙に指を置いたまま、そっとつぶやくように言った。
「……俺も、伝えたいこと、あるよ。
でもたぶん、もう少しだけ待っててほしい」
柚月は驚いたように顔を上げた。
そして、ほんの少しだけ目を見開いたあと、ゆっくりと頷いた。
「……うん。待つよ」
その返事は、どこまでも静かで、どこまでもあたたかかった。
ふたりの間に、新しい何かが芽生えていくのが、確かに感じられた。
それから数日、ふたりは変わらず図書館で顔を合わせた。
名前を呼び合い、他愛もない会話をして、隣で静かに本を読んだ。
そんな時間がいつまでも続くように思えたけれど、季節の移ろいは確実に、ふたりの背中をそっと押し始めていた。