1.はじまりの春
たぶん、最初に出会ったのは春だったと思う。
桜がまだいくらか残っていて、風が少しだけ冷たかった。
図書館の窓辺の席に、彼女はいた。
黒髪のボブが風にそっと揺れていて、指先は静かにページをめくっていた。
それだけのことだったのに、目が離せなかった。
声をかける理由はなかった。
ただ、目が合って、そして彼女は視線を戻した。
自分は、何かを見透かされたような気がして、
けれどどこかで、それが嫌じゃなかった。
そのとき、彼女の名前も、笑い方も知らなかった。
でも、自分の中の何かが、確かに動いた。
*
四月の終わり、午後の図書館は静かだった。
新学期の慌ただしさも、入学式の浮き足立った空気も、もうすでに遠い出来事のように思える。
黒澤陽は、開いていた教科書を閉じて、そっと息を吐いた。
試験期間はまだ先だったが、部活の後に図書館に寄るのがいつの間にか習慣になっていた。
その理由が、自分でもはっきりわかっているのが少しだけ恥ずかしかった。
窓側の席に、今日も彼女はいた。
白石柚月。
同じクラス。けれど話したことは、まだなかった。
陽は、彼女の真正面に座るのは気が引けて、数列離れた席に腰を下ろした。
彼女はまっすぐ前を向いたまま、ページをめくり続けていた。
何を読んでいるのかまでは見えなかった。けれど、読み方には癖があるのか、時々ほんの少しだけ眉が動いた。
そして、まれに。ごくまれに、口元がわずかに緩むのだった。
それを見ると、陽の胸の奥で何かがあたたかくなる気がした。
そしてすぐに、自分の視線を本に戻した。
何もしていない。ただ静かに、同じ場所にいる。
でも、それだけで十分な気がした。
それが今のふたりにできる、唯一の関わりだった。
図書館の時計が午後五時を少し過ぎた頃、窓の外に薄い影が落ち始めた。
陽はノートを閉じて、軽く伸びをした。席を立とうかと視線を上げると、彼女が本を閉じて立ち上がるところだった。
その動きは静かで、音もなかったけれど、陽は自然と目を向けていた。
柚月は棚の間を通って、本を返却口に置く。小さく身をかがめるその姿に、どこか丁寧な所作が見えた。
そして、扉のほうへ歩いていく。
陽はその背中を視線で追いかけてから、自分の荷物をまとめ始めた。
同じクラスにいながら、一言も交わしたことがない。
けれど、声をかけるには何かが足りない気がしていた。
――名前。
思わず、心の中でつぶやく。
彼女の名前。
名簿では自分より少し離れたところにあって、出席確認の時もあまり意識していなかった。
なのに、“柚月”という音だけが、昨日の夜から何度も頭の中に浮かんでいた。
陽は図書館を出ると、校舎を抜けて自転車置き場へ向かった。
夕方の風は、昼よりも少し冷たかった。けれど、袖を通り抜けるその風が、どこか心地よかった。
ふと視線を向けると、正門のあたりに彼女の姿があった。
ひとり、制服のスカートの裾を押さえながら歩いている。
夕日が差して、髪がほんのりと橙に染まっていた。
声をかけようとは思わなかった。けれど、その姿を目に焼き付けるように、目を細めた。
あんなふうに夕日に照らされる彼女を見るのは、今日が初めてじゃない。
そんな気が、なぜかした。
翌日も、その翌日も、陽は放課後に図書館へ立ち寄った。
理由を説明する必要もないほど、自然に足が向いた。
そして同じ時間、同じ窓際の席に彼女はいた。
変わらず静かに本を読んでいて、周囲の音も視線も気にしていないように見えた。
話しかけたい、とまでは思わなかった。
ただそこにいてほしかった。
同じ空間に、自分の知らない誰かがいて、その存在に少しだけ救われる。
そんな感覚を、陽ははじめて知った。
英語の授業中、クラスで自己紹介カードを作る時間があった。
教室の後ろに掲示されたプロフィールの記入欄の中に、ふと目に留まった文字があった。
“好きな場所:図書館”
陽は思わず、一歩引いてカードの全体を見返す。
綺麗な字で「白石柚月」と書いてある。プロフィールの上に添えられた可愛らしい似顔絵も、彼女の面影を残している。
そのカードの主が白石柚月であることを確認して、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
その日、陽ははじめて彼女の名前を、心の中でしっかりと繰り返した。
白石柚月。
ようやく知ったその名前は、不思議なほどしっくりと胸におさまった。
まるで、ずっと前からそう呼ぶことが決まっていたみたいに。
その夜、陽はなかなか眠れなかった。
教室で彼女の名前を見たというだけなのに、
図書館での時間が、急に現実味を帯びて胸の中に広がっていた。
“柚月さん。”
声に出してみることはなかったけれど、
名前を意識した瞬間から、彼女の存在が輪郭を持って近づいてくる気がした。
次の日、図書館の席が珍しく空いていなかった。
柚月の姿が見当たらず、窓際の席には別の生徒が座っていた。
陽はいつもより少しだけ早く教室を出た。
校舎を出る前に、視線が昇降口の先にあるベンチに止まる。
そこに、いた。
柚月は制服のまま、バッグを膝に置いて、文庫本を読んでいた。
ページをめくる指がほんの少しだけ震えていた。
風のせいか、それとも――。
陽は、立ち止まった。
何か言えばいいのかもしれない。名前も知っている。
話しかける理由なら、いくつも思いつく。
でも、声にするには、まだ少しだけ勇気が足りなかった。
そのまま歩き出そうとした瞬間、柚月がふと顔を上げた。
視線が交差した。
一秒、二秒。
けれど彼女は何も言わず、ただ静かにまばたきをして、再び本に視線を戻した。
それだけだった。
けれど陽の心臓は、なぜか小さく跳ねていた。
彼女の指が、また一枚、ページをめくった。
風が止んで、空気が少しだけ温かくなった気がした。
その日から、陽は図書館に行かなくなった。
代わりに昇降口の近くを、ほんの少しだけ遠回りするようになった。
柚月がいつもいるとは限らなかった。
いたとしても、話すことはなかった。
それでも、彼女の存在を見つけるだけで、心が静かに波立つのを感じた。
そうして過ぎていく日々の中で、陽はふとしたきっかけで彼女の声を聞くことになる。
それは、思っていたよりもずっと普通で、
けれど耳に残る、落ち着いた響きだった。
「……ありがとう」
廊下で誰かに本を拾ってもらっている彼女の小さな声。
そのひと言だけだったのに、陽は瞬間的にその声に気づいた。
顔を向けると、やっぱり柚月だった。
彼女は軽く頭を下げて、拾ってくれた女子に微笑んでいた。
笑った。
初めて見た。
それは、ごく小さな笑顔だったけれど、
陽の中にある彼女の印象を、根本から塗り替えるほどの力を持っていた。
声と、笑顔と、名前。
まだそれしか知らない。
それだけしかないのに、もう、知らないとは言えなくなっていた。
それから数日が過ぎて、連休前の金曜日。
教室では、ゴールデンウィークの予定を話す声があちこちから聞こえていた。
陽は特に何も予定を立てていなかった。部活があるから、遠出もできない。
ただ、ふと、図書館の窓際に座る彼女の姿が頭に浮かんだ。
部活を終え、軽く汗を拭いたあとで、陽は校舎に引き返した。
久しぶりの図書館。
もしかしたら、今日も――。
ドアを開けた瞬間、思った通りの光景が目に入った。
窓際の席に、柚月がいた。
制服のまま、少しだけ猫背で、文庫本に目を落としていた。
陽は、彼女から見て斜め向かいの席に静かに腰を下ろした。
本を開くふりをして、ほんの少しだけ視線を向ける。
今日は、ページをめくる手が少しだけゆっくりだった。
眉も、心なしか曇って見えた。
何かあったのかもしれない。
けれど、陽にはその“何か”を聞ける言葉がまだなかった。
代わりに、自分のページを静かにめくった。
その音が、彼女に届くかどうかもわからないままに。
五分、十分、あるいはそれ以上の時間が過ぎたころ。
柚月がふと、顔を上げた。
そして、ほんの一瞬だけ陽と目が合った。
今までなら、それだけで終わっていた。
けれど今日は――
「……同じクラスだよね?」
初めて、彼女の方から、声が届いた。
陽は一瞬、返事をする言葉がうまく口から出てこなかった。
柚月の声は、静かで少し低めだったけれど、思っていたよりもずっと柔らかかった。
「あ……うん。黒澤、って言います」
言ってから、そのかしこまった口調に少しだけ照れくさくなった。
柚月はそんな陽の様子をじっと見ていたが、すぐに視線を落とした。
「白石、です」
それだけ言って、彼女はまた本に目を戻した。
会話はそれで終わった。けれど、ふたりの間に流れる空気が、少しだけ変わった気がした。
陽は本を読むふりをしながら、頭の中でその声を何度も反芻していた。
“白石さん”。いや、“柚月さん”。
呼び方ひとつで、距離がぐっと縮まる気がした。
けれどまだ、その名前を口に出すには、勇気が足りなかった。
静かなページの音が、図書館の空気に溶けていく。
窓の外では、春の夕陽が少しずつ傾いていた。
そしてその日を境に、陽と柚月は、図書館で言葉を交わすようになった。
会話といっても、最初のうちはほんのひと言、ふた言だった。
「今日、暑かったね」
「その本、面白い?」
「テスト、やばかった」
そんな他愛もないやり取りが、ふたりの間にゆっくりと積み重なっていった。
陽は、それ以上多くを話そうとはしなかった。
柚月もまた、話しかけられることには慣れていないようだったが、陽の声にはきちんと耳を傾けてくれた。
ときどき、返事の代わりに小さく笑うこともあった。
その笑顔が、陽にとっては何よりの言葉だった。
放課後の図書館で、隣の席に座ることが自然になった。
話しながら本を読む日は少なかったけれど、無理に会話を続けなくても気まずくならない空気が、そこにはあった。
陽は気づいていた。
誰とでも気軽に話せる自分が、柚月とだけは話しすぎないようにしていることに。
彼女の沈黙は、壊しちゃいけない静けさのように思えた。
言葉よりも、一緒にいる時間そのものを大事にしたかった。
ある日、陽がふと本を閉じると、柚月が目を上げた。
「……君って、部活、陸上だよね?」
不意に投げかけられた言葉に、陽は驚いたように瞬きをした。
柚月の方から、初めて話題をふってくれたことが嬉しくて、けれどそれを悟られたくなくて、笑いながらうなずいた。
「うん、短距離。100メートルとか、200とか」
柚月は小さく「へえ」と頷いた。
それだけで、また本に目を戻すかと思ったのに、しばらく沈黙したあと、また口を開いた。
「走るのって、好き?」
陽は少し考えてから、答えた。
「うん。好きだよ。走ってるときって、頭、真っ白になるんだ。
なんか、ぜんぶから解放される感じがする」
柚月は目を伏せたまま、小さく「わかる」と言った。
「本、読んでるとき、少し似てるかも。
現実が薄くなる、みたいな」
「うん、それ。なんか、似てるのかもね」
そう言ってふたりは、同じタイミングで笑った。
初めて、ぴったりと呼吸が合った気がした。
その笑顔は、図書館で読んだ本のどんなページよりも、陽の記憶に残った。
それから、陽はますます図書館に足を運ぶようになった。
部活のあとに急いで汗を拭いて、少しでも早くその席にたどり着けるように。
何を話すわけでもない日もある。
ただ隣で、本を読んでいる。
その沈黙すらも、心地よかった。
ふたりの距離は、確かに少しずつ縮まっていた。
言葉の数よりも、共有する時間がそれを物語っていた。
ある日、陽が読んでいた本のしおりがふと滑り落ちて、床に落ちた。
拾おうと屈んだとき、柚月が手を伸ばし、先にそれを拾ってくれた。
指先がかすかに触れた。
「……ごめん、ありがとう」
陽が照れくさそうに言うと、柚月はふとしおりを見つめて、小さく微笑んだ。
「このしおり、なんか……似てる」
「似てる?」
「私のと。色も、形も」
柚月は、自分の本からそっとしおりを取り出した。
それは、陽のものとよく似た、細いレースの縁取りがついたしおりだった。
色は淡い水色。
陽のは、少しだけ濃い青だった。
「これ、祖母がくれたの。高校入学のお祝い」
「俺のも。母さんが買ってくれたやつ、だけど……なんか、偶然だな」
ふたりはしばらく、それぞれのしおりを手に持って見比べた。
何も特別じゃない、ただの文房具なのに。
その重なりが、少しだけふたりの間の距離をあたためた。
柚月がふと、本を閉じて立ち上がった。
「……今日は、もう帰るね」
「うん。また明日」
そう言いながら陽は、自分の席から見える彼女の後ろ姿を目で追った。
図書館の扉が閉まるまで、ずっと。
残されたしおりが、本の上でゆっくり揺れた。
その動きまで、どこかあたたかく感じられた。
週が明けても、図書館でのふたりの習慣は変わらなかった。
並んで座り、互いの気配を感じながら本を読み、たまに会話を交わす。
その静かな時間が、陽にとっては一日の中でいちばん穏やかなものになっていた。
授業中、ふと柚月の横顔が浮かぶようになった。
名前を呼んでみたいと思う瞬間があった。
けれど、呼び方がわからなかった。
“白石さん”と呼ぶのは、なんだか距離があるような気がして、
“柚月さん”は、少し踏み込みすぎている気がした。
だからこそ、呼べずにいた。
そんなある日の放課後、図書館の窓の外にぽつりと雨が落ちた。
陽が窓に視線を移すと、気づかないうちに空が暗くなっていて、遠くで雷の音が鳴っていた。
「……降ってきたね」
柚月がぽつりと呟いた。
彼女から先に話しかけてくるのは、少しだけ珍しかった。
「傘、ある?」
陽が尋ねると、柚月は小さく首を振った。
「……朝は晴れてたから。君は?」
「俺も。今日、走るのが気持ちよくてさ、傘のこと完全に忘れてた」
柚月は、少しだけ笑った。
ほんの一瞬の笑み。それでも、陽の胸の奥がふわっとあたたかくなる。
「じゃあ、走る?」
「図書館から?」
「うん。……無理か」
柚月は自分で言って、また少し笑った。
その笑い方があまりにも自然で、陽はなんでもないふりをしながら、心の中で何度もその表情を記憶に刻んだ。
「……ねえ、うち、学校から近いの。五分くらい。よかったら、雨やむまで来る?」
一拍の沈黙。
その間に、陽の心臓は確実に跳ねていた。
「……いいの?」
「うん。どうせ濡れるし。……でも、散らかってるかも」
そう言いながら柚月は立ち上がり、バッグを肩にかけた。
「急ぐ?」
「ううん。……走る?」
陽は笑いながらうなずいた。
そしてふたりは、窓の外の雨の中へ、小さな歩幅で駆け出した。
柚月の家までは、本当に五分とかからなかった。
通学路から少し奥まった、静かな住宅地の一角。
グレーの門扉と白い塀が印象的な、小さな二階建ての家だった。
玄関に駆け込んだときには、ふたりとも前髪がしっとりと濡れていて、呼吸が少しだけ上がっていた。
柚月は靴を脱ぎながら、玄関の奥に声をかけた。
「ただいま。……おばあちゃん、まだ出かけてるみたい」
陽は小さく頷き、静かに靴を揃えた。
緊張で手のひらがじんわり汗ばんでいるのを感じた。
「濡れてる服、少し拭いた方がいいかも。……タオル、持ってくるね」
柚月はそう言って奥に消えた。
陽は、控えめに一歩だけ上がって、玄関先で待った。
目に映る廊下や階段は整然としていて、けれどどこかぬくもりがあった。
柚月の“生活”がここにある、そんな実感がじわじわと胸に広がる。
やがて、淡いピンクのタオルを持った柚月が戻ってきた。
「あ、ありがと」
「上がっていいよ。……部屋、こっち」
案内された先の階段を上がると、すぐ右手の扉の向こうに、彼女の部屋があった。
扉を開けた瞬間、ふわっとした紙と木の香りが鼻をくすぐった。
部屋は思っていたよりも広くはなかったが、整っていて、落ち着いた空気に満ちていた。
ベッドの横に本棚があり、窓際に小さな机と椅子。
机の上にはペン立てと、読みかけの本が一冊。
陽は無意識に、室内をぐるりと見渡した。
柚月はベッドの端に腰を下ろし、髪を手ぐしで整えながら言った。
「濡れたまま座ると、冷えるよ。……そこ、ハンガー使って」
「うん……」
ハンガーに上着をかけながら、陽は妙に鼓動が速くなるのを感じていた。
さっきまで図書館で話していたのに、こうして彼女の部屋にいるだけで、まるで別の世界に入り込んだみたいだった。
「……なんか、不思議だな」
「何が?」
「いや、学校で会ってたのに、こうやって家にいると、
……なんか、距離、違う感じがする」
柚月は少しだけ目を見開いたあと、窓の外の雨に視線を移した。
そしてぽつりと呟いた。
「……そうだね。たぶん、わたしも、同じこと思ってた」
陽は柚月の言葉に、胸の奥がじんわりとあたたまるのを感じた。
同じことを思っていた。
それだけのことなのに、心が少しだけ震えた。
窓の外では、雨の音がゆっくりと優しくなっていた。
部屋の中に、静かな沈黙が流れる。
けれどそれは、気まずさではなく、
言葉がなくても成立するような、心地よい静けさだった。
柚月は、窓のほうを向いたまま、ふとつぶやくように言った。
「……本の中にしかないって思ってた。こういう時間」
陽は少しだけ首をかしげて、彼女の言葉の意味を探る。
柚月はその気配を感じたのか、続けた。
「誰かといて、何もしないで、ただ落ち着くっていうか……
空気が、自分に合ってる感じ、っていうのかな。
本の中では読んだことあったけど、実際に感じたの、初めてかも」
陽は黙ってうなずいた。
その言葉に、自分も救われていた。
図書館の静けさも、並んで読む時間も、たぶん彼女も同じように感じてくれていたことが、
言葉の端々から伝わってくる。
「俺も、似たようなこと思ってたよ」
陽は静かに言った。
「なんか、柚月さんといると、……無理に何かしなくていい感じがする。
静かでも、大丈夫っていうか」
柚月は、少しだけ照れたように目を伏せた。
「……柚月さん、って言うんだね」
陽は「あっ」と思って、慌てて言い直そうとした。
「ご、ごめん。なんとなく、名字で呼ぼうとしたけど……違和感だったら」
柚月は小さく首を振った。
そして、陽の方をまっすぐ見て、ほんの少しだけ口元を和らげた。
「……ううん。いいよ。
……“柚月さん”って、言われるの、なんか……ちょっと、いいかも」
その声が、雨音に紛れながら、陽の胸の奥にすっと届いた。
そしてふたりは、再び言葉を交わさず、
窓の外の空が明るくなるのを、ただ静かに眺めていた。
雨は、気づけばもう止んでいた。
雲の切れ間からは夕方の光が差し込み、柚月の部屋の壁を淡く染めていた。
「……そろそろ、帰るね」
陽がそう言うと、柚月は静かにうなずいた。
「うん。……送ろうか?」
「いや、大丈夫。もう濡れないし」
陽は上着を手に取り、そっと袖を通す。
柚月は立ち上がり、玄関まで並んで歩いた。
靴を履きながら、陽はもう一度だけ柚月の顔を見た。
彼女は相変わらず無表情に近いけれど、どこかやわらかい光をまとっていた。
「今日は、ありがとう。……急にお邪魔してごめんね」
「いいよ。……雨、止んでよかったね」
「うん。……また、図書館で」
「……うん」
陽が扉を開けると、濡れたアスファルトの匂いがふわりと香った。
空はまだ少し曇っていたけれど、その奥には確かに晴れ間が見えていた。
歩き出すとき、背中で扉が静かに閉まる音がした。
けれど、それは終わりの音じゃなかった。
むしろ何かが、ひとつ前に進んだ気がした。
玄関先に残った柚月は、ドアに手をかけたまま、しばらく立ち止まっていた。
胸の奥が、かすかに高鳴っていた。
自分の中のどこかが、ほんの少しだけざわめいている。
名前を呼ばれたこと。
誰かが自分の部屋にいて、同じ空気を吸っていたこと。
「……陽くん、か」
小さく、ひとりごとのようにつぶやく。
言葉にしただけで、顔が熱くなるのがわかった。
胸の奥に広がった温度を抱えたまま、柚月はそっと扉を閉めた。
その音は、どこか優しく響いた。