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1.はじまりの春

たぶん、最初に出会ったのは春だったと思う。

桜がまだいくらか残っていて、風が少しだけ冷たかった。


図書館の窓辺の席に、彼女はいた。

黒髪のボブが風にそっと揺れていて、指先は静かにページをめくっていた。

それだけのことだったのに、目が離せなかった。


声をかける理由はなかった。

ただ、目が合って、そして彼女は視線を戻した。

自分は、何かを見透かされたような気がして、

けれどどこかで、それが嫌じゃなかった。


そのとき、彼女の名前も、笑い方も知らなかった。

でも、自分の中の何かが、確かに動いた。



四月の終わり、午後の図書館は静かだった。

新学期の慌ただしさも、入学式の浮き足立った空気も、もうすでに遠い出来事のように思える。


黒澤陽は、開いていた教科書を閉じて、そっと息を吐いた。

試験期間はまだ先だったが、部活の後に図書館に寄るのがいつの間にか習慣になっていた。


その理由が、自分でもはっきりわかっているのが少しだけ恥ずかしかった。


窓側の席に、今日も彼女はいた。

白石柚月。

同じクラス。けれど話したことは、まだなかった。


陽は、彼女の真正面に座るのは気が引けて、数列離れた席に腰を下ろした。

彼女はまっすぐ前を向いたまま、ページをめくり続けていた。


何を読んでいるのかまでは見えなかった。けれど、読み方には癖があるのか、時々ほんの少しだけ眉が動いた。

そして、まれに。ごくまれに、口元がわずかに緩むのだった。


それを見ると、陽の胸の奥で何かがあたたかくなる気がした。

そしてすぐに、自分の視線を本に戻した。


何もしていない。ただ静かに、同じ場所にいる。

でも、それだけで十分な気がした。

それが今のふたりにできる、唯一の関わりだった。


図書館の時計が午後五時を少し過ぎた頃、窓の外に薄い影が落ち始めた。

陽はノートを閉じて、軽く伸びをした。席を立とうかと視線を上げると、彼女が本を閉じて立ち上がるところだった。


その動きは静かで、音もなかったけれど、陽は自然と目を向けていた。

柚月は棚の間を通って、本を返却口に置く。小さく身をかがめるその姿に、どこか丁寧な所作が見えた。


そして、扉のほうへ歩いていく。


陽はその背中を視線で追いかけてから、自分の荷物をまとめ始めた。

同じクラスにいながら、一言も交わしたことがない。

けれど、声をかけるには何かが足りない気がしていた。


――名前。


思わず、心の中でつぶやく。

彼女の名前。

名簿では自分より少し離れたところにあって、出席確認の時もあまり意識していなかった。

なのに、“柚月”という音だけが、昨日の夜から何度も頭の中に浮かんでいた。


陽は図書館を出ると、校舎を抜けて自転車置き場へ向かった。

夕方の風は、昼よりも少し冷たかった。けれど、袖を通り抜けるその風が、どこか心地よかった。


ふと視線を向けると、正門のあたりに彼女の姿があった。

ひとり、制服のスカートの裾を押さえながら歩いている。

夕日が差して、髪がほんのりと橙に染まっていた。


声をかけようとは思わなかった。けれど、その姿を目に焼き付けるように、目を細めた。


あんなふうに夕日に照らされる彼女を見るのは、今日が初めてじゃない。

そんな気が、なぜかした。


翌日も、その翌日も、陽は放課後に図書館へ立ち寄った。

理由を説明する必要もないほど、自然に足が向いた。


そして同じ時間、同じ窓際の席に彼女はいた。

変わらず静かに本を読んでいて、周囲の音も視線も気にしていないように見えた。


話しかけたい、とまでは思わなかった。

ただそこにいてほしかった。

同じ空間に、自分の知らない誰かがいて、その存在に少しだけ救われる。

そんな感覚を、陽ははじめて知った。


英語の授業中、クラスで自己紹介カードを作る時間があった。

教室の後ろに掲示されたプロフィールの記入欄の中に、ふと目に留まった文字があった。


“好きな場所:図書館”


陽は思わず、一歩引いてカードの全体を見返す。

綺麗な字で「白石柚月」と書いてある。プロフィールの上に添えられた可愛らしい似顔絵も、彼女の面影を残している。

そのカードの主が白石柚月であることを確認して、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


その日、陽ははじめて彼女の名前を、心の中でしっかりと繰り返した。


白石柚月。

ようやく知ったその名前は、不思議なほどしっくりと胸におさまった。

まるで、ずっと前からそう呼ぶことが決まっていたみたいに。


その夜、陽はなかなか眠れなかった。

教室で彼女の名前を見たというだけなのに、

図書館での時間が、急に現実味を帯びて胸の中に広がっていた。


“柚月さん。”


声に出してみることはなかったけれど、

名前を意識した瞬間から、彼女の存在が輪郭を持って近づいてくる気がした。


次の日、図書館の席が珍しく空いていなかった。

柚月の姿が見当たらず、窓際の席には別の生徒が座っていた。


陽はいつもより少しだけ早く教室を出た。

校舎を出る前に、視線が昇降口の先にあるベンチに止まる。


そこに、いた。


柚月は制服のまま、バッグを膝に置いて、文庫本を読んでいた。

ページをめくる指がほんの少しだけ震えていた。

風のせいか、それとも――。


陽は、立ち止まった。

何か言えばいいのかもしれない。名前も知っている。

話しかける理由なら、いくつも思いつく。

でも、声にするには、まだ少しだけ勇気が足りなかった。


そのまま歩き出そうとした瞬間、柚月がふと顔を上げた。

視線が交差した。

一秒、二秒。

けれど彼女は何も言わず、ただ静かにまばたきをして、再び本に視線を戻した。


それだけだった。

けれど陽の心臓は、なぜか小さく跳ねていた。


彼女の指が、また一枚、ページをめくった。

風が止んで、空気が少しだけ温かくなった気がした。


その日から、陽は図書館に行かなくなった。

代わりに昇降口の近くを、ほんの少しだけ遠回りするようになった。


柚月がいつもいるとは限らなかった。

いたとしても、話すことはなかった。

それでも、彼女の存在を見つけるだけで、心が静かに波立つのを感じた。


そうして過ぎていく日々の中で、陽はふとしたきっかけで彼女の声を聞くことになる。

それは、思っていたよりもずっと普通で、

けれど耳に残る、落ち着いた響きだった。


「……ありがとう」


廊下で誰かに本を拾ってもらっている彼女の小さな声。

そのひと言だけだったのに、陽は瞬間的にその声に気づいた。


顔を向けると、やっぱり柚月だった。

彼女は軽く頭を下げて、拾ってくれた女子に微笑んでいた。


笑った。

初めて見た。

それは、ごく小さな笑顔だったけれど、

陽の中にある彼女の印象を、根本から塗り替えるほどの力を持っていた。


声と、笑顔と、名前。

まだそれしか知らない。

それだけしかないのに、もう、知らないとは言えなくなっていた。


それから数日が過ぎて、連休前の金曜日。

教室では、ゴールデンウィークの予定を話す声があちこちから聞こえていた。

陽は特に何も予定を立てていなかった。部活があるから、遠出もできない。

ただ、ふと、図書館の窓際に座る彼女の姿が頭に浮かんだ。


部活を終え、軽く汗を拭いたあとで、陽は校舎に引き返した。

久しぶりの図書館。

もしかしたら、今日も――。


ドアを開けた瞬間、思った通りの光景が目に入った。

窓際の席に、柚月がいた。

制服のまま、少しだけ猫背で、文庫本に目を落としていた。


陽は、彼女から見て斜め向かいの席に静かに腰を下ろした。

本を開くふりをして、ほんの少しだけ視線を向ける。


今日は、ページをめくる手が少しだけゆっくりだった。

眉も、心なしか曇って見えた。


何かあったのかもしれない。

けれど、陽にはその“何か”を聞ける言葉がまだなかった。


代わりに、自分のページを静かにめくった。

その音が、彼女に届くかどうかもわからないままに。


五分、十分、あるいはそれ以上の時間が過ぎたころ。

柚月がふと、顔を上げた。

そして、ほんの一瞬だけ陽と目が合った。


今までなら、それだけで終わっていた。

けれど今日は――


「……同じクラスだよね?」


初めて、彼女の方から、声が届いた。


陽は一瞬、返事をする言葉がうまく口から出てこなかった。

柚月の声は、静かで少し低めだったけれど、思っていたよりもずっと柔らかかった。


「あ……うん。黒澤、って言います」


言ってから、そのかしこまった口調に少しだけ照れくさくなった。

柚月はそんな陽の様子をじっと見ていたが、すぐに視線を落とした。


「白石、です」


それだけ言って、彼女はまた本に目を戻した。

会話はそれで終わった。けれど、ふたりの間に流れる空気が、少しだけ変わった気がした。


陽は本を読むふりをしながら、頭の中でその声を何度も反芻していた。

“白石さん”。いや、“柚月さん”。

呼び方ひとつで、距離がぐっと縮まる気がした。


けれどまだ、その名前を口に出すには、勇気が足りなかった。


静かなページの音が、図書館の空気に溶けていく。

窓の外では、春の夕陽が少しずつ傾いていた。

そしてその日を境に、陽と柚月は、図書館で言葉を交わすようになった。


会話といっても、最初のうちはほんのひと言、ふた言だった。

「今日、暑かったね」

「その本、面白い?」

「テスト、やばかった」


そんな他愛もないやり取りが、ふたりの間にゆっくりと積み重なっていった。


陽は、それ以上多くを話そうとはしなかった。

柚月もまた、話しかけられることには慣れていないようだったが、陽の声にはきちんと耳を傾けてくれた。

ときどき、返事の代わりに小さく笑うこともあった。

その笑顔が、陽にとっては何よりの言葉だった。


放課後の図書館で、隣の席に座ることが自然になった。

話しながら本を読む日は少なかったけれど、無理に会話を続けなくても気まずくならない空気が、そこにはあった。


陽は気づいていた。

誰とでも気軽に話せる自分が、柚月とだけは話しすぎないようにしていることに。

彼女の沈黙は、壊しちゃいけない静けさのように思えた。

言葉よりも、一緒にいる時間そのものを大事にしたかった。


ある日、陽がふと本を閉じると、柚月が目を上げた。


「……君って、部活、陸上だよね?」


不意に投げかけられた言葉に、陽は驚いたように瞬きをした。

柚月の方から、初めて話題をふってくれたことが嬉しくて、けれどそれを悟られたくなくて、笑いながらうなずいた。


「うん、短距離。100メートルとか、200とか」


柚月は小さく「へえ」と頷いた。

それだけで、また本に目を戻すかと思ったのに、しばらく沈黙したあと、また口を開いた。


「走るのって、好き?」


陽は少し考えてから、答えた。


「うん。好きだよ。走ってるときって、頭、真っ白になるんだ。

 なんか、ぜんぶから解放される感じがする」


柚月は目を伏せたまま、小さく「わかる」と言った。


「本、読んでるとき、少し似てるかも。

 現実が薄くなる、みたいな」


「うん、それ。なんか、似てるのかもね」


そう言ってふたりは、同じタイミングで笑った。

初めて、ぴったりと呼吸が合った気がした。

その笑顔は、図書館で読んだ本のどんなページよりも、陽の記憶に残った。


それから、陽はますます図書館に足を運ぶようになった。

部活のあとに急いで汗を拭いて、少しでも早くその席にたどり着けるように。

何を話すわけでもない日もある。

ただ隣で、本を読んでいる。

その沈黙すらも、心地よかった。


ふたりの距離は、確かに少しずつ縮まっていた。

言葉の数よりも、共有する時間がそれを物語っていた。


ある日、陽が読んでいた本のしおりがふと滑り落ちて、床に落ちた。

拾おうと屈んだとき、柚月が手を伸ばし、先にそれを拾ってくれた。

指先がかすかに触れた。


「……ごめん、ありがとう」


陽が照れくさそうに言うと、柚月はふとしおりを見つめて、小さく微笑んだ。


「このしおり、なんか……似てる」


「似てる?」


「私のと。色も、形も」


柚月は、自分の本からそっとしおりを取り出した。

それは、陽のものとよく似た、細いレースの縁取りがついたしおりだった。

色は淡い水色。

陽のは、少しだけ濃い青だった。


「これ、祖母がくれたの。高校入学のお祝い」


「俺のも。母さんが買ってくれたやつ、だけど……なんか、偶然だな」


ふたりはしばらく、それぞれのしおりを手に持って見比べた。

何も特別じゃない、ただの文房具なのに。

その重なりが、少しだけふたりの間の距離をあたためた。


柚月がふと、本を閉じて立ち上がった。


「……今日は、もう帰るね」


「うん。また明日」


そう言いながら陽は、自分の席から見える彼女の後ろ姿を目で追った。

図書館の扉が閉まるまで、ずっと。


残されたしおりが、本の上でゆっくり揺れた。

その動きまで、どこかあたたかく感じられた。


週が明けても、図書館でのふたりの習慣は変わらなかった。

並んで座り、互いの気配を感じながら本を読み、たまに会話を交わす。

その静かな時間が、陽にとっては一日の中でいちばん穏やかなものになっていた。


授業中、ふと柚月の横顔が浮かぶようになった。

名前を呼んでみたいと思う瞬間があった。

けれど、呼び方がわからなかった。

“白石さん”と呼ぶのは、なんだか距離があるような気がして、

“柚月さん”は、少し踏み込みすぎている気がした。


だからこそ、呼べずにいた。


そんなある日の放課後、図書館の窓の外にぽつりと雨が落ちた。

陽が窓に視線を移すと、気づかないうちに空が暗くなっていて、遠くで雷の音が鳴っていた。


「……降ってきたね」


柚月がぽつりと呟いた。

彼女から先に話しかけてくるのは、少しだけ珍しかった。


「傘、ある?」


陽が尋ねると、柚月は小さく首を振った。


「……朝は晴れてたから。君は?」


「俺も。今日、走るのが気持ちよくてさ、傘のこと完全に忘れてた」


柚月は、少しだけ笑った。

ほんの一瞬の笑み。それでも、陽の胸の奥がふわっとあたたかくなる。


「じゃあ、走る?」


「図書館から?」


「うん。……無理か」


柚月は自分で言って、また少し笑った。

その笑い方があまりにも自然で、陽はなんでもないふりをしながら、心の中で何度もその表情を記憶に刻んだ。


「……ねえ、うち、学校から近いの。五分くらい。よかったら、雨やむまで来る?」


一拍の沈黙。

その間に、陽の心臓は確実に跳ねていた。


「……いいの?」


「うん。どうせ濡れるし。……でも、散らかってるかも」


そう言いながら柚月は立ち上がり、バッグを肩にかけた。


「急ぐ?」


「ううん。……走る?」


陽は笑いながらうなずいた。

そしてふたりは、窓の外の雨の中へ、小さな歩幅で駆け出した。


柚月の家までは、本当に五分とかからなかった。

通学路から少し奥まった、静かな住宅地の一角。

グレーの門扉と白い塀が印象的な、小さな二階建ての家だった。


玄関に駆け込んだときには、ふたりとも前髪がしっとりと濡れていて、呼吸が少しだけ上がっていた。

柚月は靴を脱ぎながら、玄関の奥に声をかけた。


「ただいま。……おばあちゃん、まだ出かけてるみたい」


陽は小さく頷き、静かに靴を揃えた。

緊張で手のひらがじんわり汗ばんでいるのを感じた。


「濡れてる服、少し拭いた方がいいかも。……タオル、持ってくるね」


柚月はそう言って奥に消えた。

陽は、控えめに一歩だけ上がって、玄関先で待った。

目に映る廊下や階段は整然としていて、けれどどこかぬくもりがあった。

柚月の“生活”がここにある、そんな実感がじわじわと胸に広がる。


やがて、淡いピンクのタオルを持った柚月が戻ってきた。

「あ、ありがと」


「上がっていいよ。……部屋、こっち」


案内された先の階段を上がると、すぐ右手の扉の向こうに、彼女の部屋があった。


扉を開けた瞬間、ふわっとした紙と木の香りが鼻をくすぐった。

部屋は思っていたよりも広くはなかったが、整っていて、落ち着いた空気に満ちていた。


ベッドの横に本棚があり、窓際に小さな机と椅子。

机の上にはペン立てと、読みかけの本が一冊。


陽は無意識に、室内をぐるりと見渡した。


柚月はベッドの端に腰を下ろし、髪を手ぐしで整えながら言った。


「濡れたまま座ると、冷えるよ。……そこ、ハンガー使って」


「うん……」


ハンガーに上着をかけながら、陽は妙に鼓動が速くなるのを感じていた。

さっきまで図書館で話していたのに、こうして彼女の部屋にいるだけで、まるで別の世界に入り込んだみたいだった。


「……なんか、不思議だな」


「何が?」


「いや、学校で会ってたのに、こうやって家にいると、

 ……なんか、距離、違う感じがする」


柚月は少しだけ目を見開いたあと、窓の外の雨に視線を移した。

そしてぽつりと呟いた。


「……そうだね。たぶん、わたしも、同じこと思ってた」


陽は柚月の言葉に、胸の奥がじんわりとあたたまるのを感じた。

同じことを思っていた。

それだけのことなのに、心が少しだけ震えた。


窓の外では、雨の音がゆっくりと優しくなっていた。

部屋の中に、静かな沈黙が流れる。

けれどそれは、気まずさではなく、

言葉がなくても成立するような、心地よい静けさだった。


柚月は、窓のほうを向いたまま、ふとつぶやくように言った。


「……本の中にしかないって思ってた。こういう時間」


陽は少しだけ首をかしげて、彼女の言葉の意味を探る。

柚月はその気配を感じたのか、続けた。


「誰かといて、何もしないで、ただ落ち着くっていうか……

 空気が、自分に合ってる感じ、っていうのかな。

 本の中では読んだことあったけど、実際に感じたの、初めてかも」


陽は黙ってうなずいた。

その言葉に、自分も救われていた。

図書館の静けさも、並んで読む時間も、たぶん彼女も同じように感じてくれていたことが、

言葉の端々から伝わってくる。


「俺も、似たようなこと思ってたよ」

陽は静かに言った。


「なんか、柚月さんといると、……無理に何かしなくていい感じがする。

 静かでも、大丈夫っていうか」


柚月は、少しだけ照れたように目を伏せた。


「……柚月さん、って言うんだね」


陽は「あっ」と思って、慌てて言い直そうとした。


「ご、ごめん。なんとなく、名字で呼ぼうとしたけど……違和感だったら」


柚月は小さく首を振った。

そして、陽の方をまっすぐ見て、ほんの少しだけ口元を和らげた。


「……ううん。いいよ。

 ……“柚月さん”って、言われるの、なんか……ちょっと、いいかも」


その声が、雨音に紛れながら、陽の胸の奥にすっと届いた。


そしてふたりは、再び言葉を交わさず、

窓の外の空が明るくなるのを、ただ静かに眺めていた。


雨は、気づけばもう止んでいた。

雲の切れ間からは夕方の光が差し込み、柚月の部屋の壁を淡く染めていた。


「……そろそろ、帰るね」

陽がそう言うと、柚月は静かにうなずいた。

「うん。……送ろうか?」


「いや、大丈夫。もう濡れないし」

陽は上着を手に取り、そっと袖を通す。

柚月は立ち上がり、玄関まで並んで歩いた。


靴を履きながら、陽はもう一度だけ柚月の顔を見た。

彼女は相変わらず無表情に近いけれど、どこかやわらかい光をまとっていた。


「今日は、ありがとう。……急にお邪魔してごめんね」


「いいよ。……雨、止んでよかったね」


「うん。……また、図書館で」


「……うん」


陽が扉を開けると、濡れたアスファルトの匂いがふわりと香った。

空はまだ少し曇っていたけれど、その奥には確かに晴れ間が見えていた。


歩き出すとき、背中で扉が静かに閉まる音がした。

けれど、それは終わりの音じゃなかった。

むしろ何かが、ひとつ前に進んだ気がした。


玄関先に残った柚月は、ドアに手をかけたまま、しばらく立ち止まっていた。


胸の奥が、かすかに高鳴っていた。

自分の中のどこかが、ほんの少しだけざわめいている。


名前を呼ばれたこと。

誰かが自分の部屋にいて、同じ空気を吸っていたこと。


「……陽くん、か」


小さく、ひとりごとのようにつぶやく。

言葉にしただけで、顔が熱くなるのがわかった。


胸の奥に広がった温度を抱えたまま、柚月はそっと扉を閉めた。

その音は、どこか優しく響いた。

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