第零の夢境の輪廻(1)
寒い。
また……私ひとりだけなのか?
目の前が霧に包まれたようにぼやけている。
痛い、痛い、痛い。
骨が折れたのか。四肢もまったく動かせない。
助けを求める声すら出せなかった。
意識が、徐々に闇へと沈んでいく……。
「私の哀れな子よ、アカシャ。」
「ついに、帰っ・て・き・た・な。」
誰かが、話している……?
だが、もう何も聞こえなかった。
**
アカシャは夢を見た。
十年前、七歳だった夏の日の夢。
あの日は曇り空だったことを、今でも覚えている。
「アカシャ〜! 一緒に西の森で遊ぼうよ〜! 来る?」
空には、時折小雨がぱらついていた。
アカシャは力強く頷いた。
先頭に立っていた子供が笑う——
今日は、大人たちが「霧に呑まれる」と警告する森へ「探検」に行くのだ。
「『神様』が侵入者に災厄を下す? そんなの、ただ俺たちを森に入れたくないだけだろ!」
「うん! 心配しないで、何かあっても、私がみんなを守るから!」
「ハハハハ……! ありえないって! あそこはただ霧が濃いだけだろ?」
子供たちは笑い声を上げる。
だが、アカシャだけは真剣な表情をしていた。
「はいはい、もういいから、行くぞ!」
**
村の西に広がる森は、一年中霧に覆われている。
周囲の景色はほとんど見えない。
風は異様に冷たく、木々の葉が陽の光を遮り、森の中には一筋の光すら差し込まなかった。
子供たちは寄り添いながら慎重に森を進む。
アカシャと先頭の少年——デルが、先頭を歩いていた。
「……僕たち、どこに行くの?」
幼い子供が震える声で尋ねた。
「……デル兄?」
「『神様』を探すんだ!」
デルは得意げに言った。
「なんで俺たちを森に入れたくないのか、問い詰めてやろうぜ! それに、本当に『神様』がいるかどうか、確かめるんだ!」
ちょうどその瞬間だった。
森の葉がざわめき、一斉に揺れた。
「……何の音……?」
「ぎゃあああああ!!」
背後から、鋭い悲鳴が上がった。
アカシャは目を見開いた。
——忘れたことなど、一度もない。
霧の奥に浮かぶ、血のように紅い双眸。
四方八方から、黒い霧と名状しがたい何かが絡み合い、枯れ枝のような、腐敗した瘴気をまとった黒い爪となって迫ってくる。
「……逃げろ!!」
デルが声を振り絞る。
全員がパニックに陥り、我先にと逃げ出した。
アカシャも必死で駆け出す。
影のようなものが霧の中で蠢き、黒い爪が獲物を求めて狂ったように揺れる。
怖い、怖い、怖い……!!
アカシャはもともと体が細く、足も速くなかった。
背後の「それ」は、確実に自分を狙っていた。
圧倒的な悪意と死の気配が、肺の奥まで満たしていく。
逃げなきゃ、でも、みんなも無事に森を出ないと……!
その時——
足元の根に引っかかり、アカシャは無様に倒れた。
「……あ……」
終わった。
——その瞬間。
前を走っていたデルが、アカシャの叫びに気づき、振り返った。
アカシャは、一瞬、彼が助けてくれる と思った。
だが——
「置いていけ!! でないと、全員死ぬぞ!!」
アカシャの瞳が大きく見開かれる。
信じられなかった。
いつも快活で勇敢だったはずのデルが、今は恐怖に染まり、悲鳴のように叫んでいた。
そして、振り返ることなく、霧の中へ走り去った。
アカシャは、倒れたまま呆然とした。
伸ばしかけた手が、力なく地面に落ちる。
背後から忍び寄る気配——
骨の髄まで凍りつく冷たい風。
耳障りな、不快な囁き声。
地面を覆い尽くす黒い影。
そして——
自分と同じくらいの速さでしか走れない、何人かの子供たち。
「……来い……」
黒い霧と鋭い爪が、アカシャの横をすり抜け、後ろの子供たちへと迫る。
だが——
アカシャは動いた。
「俺を……俺を捕まえろ!!」
渇いた唇を噛みしめ、霧の中の紅い瞳へと叫んだ。
膝も掌も、すでに血だらけだった。
それでも、彼は地面から這い上がり、両手を広げた。
デルの言う通りだ。
私を置いていけば、みんなは逃げられる。
どうせ私は速く走れない……。
一瞬、誰かがこちらを見た気がした。
だが、次の瞬間、皆デルと同じように走り去った。
英雄になりたかった。
たとえ、それが一瞬の出来事だったとしても。
アカシャは幼い頃から、英雄の物語をたくさん聞いてきた。
村の老人たちはよく言っていた。
「英雄とは、人々を守り、敬われ、誰からも愛される輝かしい存在だ」と。
普段、他の子供たちからあまり好かれていなかった自分にとって、
英雄になることは、唯一の夢だった。
そして——
アカシャの記憶は、そこで途切れた。