フットネイル
「ねぇ」
「…………」
いつも通りの休日。いつもの通りの202号室。俺と里奈はバイトが午前中で終わり、特別することもなかったので、ダイニングのソファーでのんびりしている最中だった。
「ねぇ、ちょっと」
「…………」
もちろん、隣の声には気づいている。意図的な無視はやっぱり心苦しい。
先日の呼び方を決めた一件以降。部長たちから俺に〝お義兄ちゃん以外反応禁止令〟が出ており、その日の放課後からずっと室内は妙に重い空気が漂っている。
「ね、ねぇ。お、お義兄……ちゃん」
「なに?」
ついに諦めたのか、絞り出すようなか弱い声で里奈が呼ぶ。
しかし横を見た時にはすでにその目元は潤み、唇もかすかに揺れていた。あぁ……。
「……ぐすん」
「な、泣くなよ……」
饅頭クッションを抱きかかえて顔を隠し、ソファーの隅で丸くなる里奈。
気持ちはわかる。性格的に約束を守らないと、罪悪感が胸を絞めつけるからにちがいない。
とはいえ泣くほど悔しい? のなら、そこまで無理をする必要はないとも思う。
「悪かったって。家でも呼んでるかどうかなんてわからないし、今から普通な。な?」
「……やだ」
里奈はふるふると首を振り、そこだけは明確にかたくなな意志をもって拒絶する。
いや提案しといてなんだが、絶対にそう言うと思った。この頑固者め! ドMなのかっ!?
「や、やだっておまえね……約束は守りたいとか、そういうことなんだろうけどさぁ」
「うん……」
「そうかぁ。まぁ、わからんでもないわな。負けた気がするし」
「うん」
力強くうなずく。よほど負けたくないらしい。俺も里奈ほどではないが、頑固の素養はあるつもりで。だから今回ばかりは、時間が解決するのを大人しく待つべきなのだろう。
「しょうがない。なんか楽しそうなこともでもするかー、なにしたいよ?」
「こ、子ども扱いしないでっ」
いじけた小学生の自覚はあるようだった。クッションからはみ出た両目と視線が重なる。
「そう? じゃあ、先生にみたいに膝枕でもしてみるか? 里奈ちゃん」
ぽんぽんと膝を叩く。軽い冗談のつもりだった。もちろん本気ではない。けれど、
「んがぁああああっ!」
「うぉっ、と」
拒否の意思表示として手当たり次第にクッションが投げられ、すべてを受け止める。
ヘンに取り乱した里奈はあれだ。おもしれー女だった。やがてクッションもなくなる。
「んが!」
「もしかして投げるもんがないなったから寄越せと?」
「んがっ!」
「はいはい」
というわけでしばらく。クッションでキャッチボール? を続け――10分後。
やっと落ち着いたのか、里奈は唐突に立ち上がるとなにやら小道具を持ってきた。それは、
「ネ、ネイルセット……?」
「やって」
「え。いやなんで?」
「やって!」
「はいはい、わかりましたよ。お嬢様」
そうして差し出されたのは足だった。いわゆるフットネイル。一緒に持ってきたネイル台へ高飛車な雰囲気で足を乗せ、あとはよろしくとでも言いたげにクッションで顔を隠す。
「どういうギャル像を持ってるんだよ、おまえは……」
足のマッサージを普段イヤがるくせにこれなのだから、たぶんテンパって自分でもおかしな提案をしていると気づいていないのかもしれない。あわてんぼうにもほどがある。
「何色にすんの?」
「……ピンク」
「はいよ」
まずはヤスリで爪の形を整えていき、それから甘皮(爪の根元と皮膚の隙間にある薄皮)をプッシャーと呼ばれる棒状のもので押し上げ、濡らした綿棒で取り除いてゆく。
「……特に説明もなく丸投げしたのに、なんで普通にできちゃうのよ。ずるい」
「あー、それはだな。こういうの、菫先輩とか千雪先輩にやらされたことあるから」
「ふーん……」
里奈がちょこんとクッションから顔をのぞかせ、ネイルクレンザーを含ませたガーゼで爪の表面油分を拭き取るところを、なにやら意味深な視線でジッと見つめていた。
「えと、さ。中学生の一時期、お世話になってたんだっけ? ……訊いてもいいこと?」
「べつに大した話でもないぞ。なにもかもイヤになって家出してたってだけだし」
「それで〝狂牙の虎〟誕生、と……」
「うぐっ、それホントやめろ。聞くに堪えない名前だ! 誰だよつけたの、いやマジで」
薄いピンクのジェルポリッシュを爪の上半分から、先端の側面も忘れず塗っていく。
指摘したかったのか、ぐぬぬ顔が見えた。ふはは。LEDライトで30秒ほど硬化する。
「……アタシの中学でもね、ウワサになってた。高校生を百人半殺しにしたーとか、老若男女問わず病院送りが普通で、常人なら本能でためらうことも平気でできちゃう怪物だーって」
「ひゃ、百人は尾ひれつきすぎだろ……数の暴力って半端ねぇのよ?」
「でもわたし、知ってるもん。見たことあるんだ。いつも誰かのためだった。不注意なひとにぶつかられたおばあさんとか、乱暴されそうになってたひととか……いじめられっ子とか」
「だからって誰かを殴っていいわけないけどな。それにたぶん、べつに善いことがしたかったわけじゃない。殴ってよさそうなヤツだから憂さ晴らしに殴ってただけ。その繰り返し」
視線を爪に向けたまま答えると、里奈は小さく「そっか……」とうなずいた。
無言の時間が続く。やがて二度塗りも終わって、ムラのないネイルに仕上がった。
「ま、まぁまぁね」
「なるほどつまり、おまえより上手いってことだな?」
「そんなことないでしゅけどっ!?」
あまりの動揺っぷりに笑ってしまう。やっぱりなにひとつギャルじゃない。そう思った。
――以下、おまけ。
智「そういえば里奈おまえ、先月からエックスは更新できたの?」
里「あっ、うん。してみたよ、一応。最近読んだ本の感想とかつぶやいてみた」
智「あぁー、いいんじゃないの? 本のレビュアー路線。○○さんが面白いって言ってるから買うみたいなひとはいるだろうし、損したくないひとも多いだろ」
里「うーん……でも正直につまんないって書いたら売れなくなっちゃうのかな? やっぱり。アタシはつまらないも面白いも等しく読書体験だと思うんだけど……」
智「難しい問題だわな。最近の読書ってコスパが悪いみたいな印象だしなおさら」
里「多趣味? なひとって忙しいんだね、アタシとちがって。羨ましくはないけどさ」
智「で、話を戻すとだ。わりと近くに猫カフェあるらしいんだが、ちょっと行かん?」
里「――――っ! い、行く! 行きますっ! 行かせてくださいっっ!!」
智「お、おぉ? そ、そんなに猫好きだったのかおまえ。意外だ……じゃあまぁ、決まりで」
里「うん! ――どうしようかな。なに着てこうかな、なにがいいかなぁ~」
智(なんか、実はバイト先で敵情視察っぽいの頼まれたとは言い出せない雰囲気だな……)




