風邪
(……嘘だろ、ちょっと雨に濡れただけで風邪引くとか漫画か?)
早朝。日課のランニングをこなすべく靴を履く直前。
妙に身体がだるいと思い、玄関側の和室に戻って体温を測ると38度超えを記録していた。
(しかも自覚した途端、怠さが増してきた気が……)
もしかすると知らずにいれば、いつものように過ごせたのかもしれない。
とはいえ後の祭り。今日は諦めて、大人しくしているべきだと結論した。
(と、とりあえず動けるうちに色々やっとかねぇと。えー、と何からすればいいか)
いつぶりかも忘れた風邪で判断が鈍い。和室からダイニングキッチンへ向かう。
風邪薬を出し、パジャマに着替えて、おかゆを作り、寝る。そのつもりだった。しかし、
「――えっ、なな、なにっ!?」
(やっちまった……)
着替える途中で倒れてしまったのだ。しかも先に着替えなかったのは完全な二度手間。
頭が回っていない証拠だ。徐々に慌ただしい音が聞こえ始め、やがて頭上から声が届く。
「うわっ、ど、どうしたの」
「風邪を、引いた、らしい」
「え? か、風邪?」
片言になりながら説明すると、里奈の呼吸が焦りを生む。だがそれも一瞬で。
「……理由はわかったけど。でもなんで、ひとりで何とかしようとしてるのよ」
「それ、は」
声に含まれるわずかな怒り。申しわけなさで思考と視界がぐるぐる回り始める。
「それはじゃないでしょ、ばかじゃないの」
「……はい」
「そんなに頼りないかな……わたし」
言葉もなかった。素直に里奈を呼びに行くほうがどう考えても正しい。
両親もおらず、ふたりで暮らしているからこそ助け合う。それが当たり前なのだ。
「歩ける?」
頷いてはみせたが、実際には肩を借りてもふらつき、あっけなくまた足がもつれた。
その結果。ボタンが外れたパジャマ姿のまま里奈へ体重を預けることに。
「きゃっ、うっ、ぜ、ぜぜ全然ダメじゃないのっ、もう……」
「ごめん……」
「ほら、ベッドまで頑張って。アタシも頑張るから」
「いや、ソファーで、俺は」
「だーめっ。いいから言うこと聞く!」
抵抗する気力もないので、大人しく連行されていく。この家にある唯一のベッドへ。
ついさっきまで里奈が寝ていたこともあり、そこは自分以外の匂いであふれていた。
一方で里奈は俺の代わりに先生を起こしに行き、たまたま出くわしたアパートの大家さんにいない間の看病を頼んでくれたらしい。ありがたいことこの上なかった。
それから熱さまシートをおでこに張られ、急いで作った大根ときのこのおかゆを食べさせてもらい、薬を飲んだところを見届けられた俺はゆっくりと横になる。
「今日は部活も休んで帰ってくるから、ちゃんと寝ててよ。いい、わかった?」
「俺は、おまえの、子供か」
「はいはい、ばぶばぶ。あ、常夜灯つけよっか? じゃないと眠れないもんね」
「それ、は、おまえ、だろ」
里奈は薄く笑って電気を消し、簡単に支度を済ませて登校していった。
俺が弱っているのもあるのだろうが、いつになく里奈が強情に見える気がする。
そんなことを考えていたのも束の間、ふとした時にはもう夢の世界で。昼に見に来てくれた大家さんも背中を拭いてくれたのはありがたいが、しれっと尿瓶を用意していて焦った。
そうして、夕方。帰宅した里奈がエプロン姿でひょっこりと部屋に顔を覗かせる。
「なんだ、起きてたの。どう、大丈夫?」
「一回寝たらわりと調子出てきたから昼も食らべれたし、平気だと思う」
「そっか。たしかに顔色もずいぶんいいし、よかった」
素直に安心されると少し照れくさい。里奈はテーブルにあるタオルと桶を見て言う。
「背中も拭いてもらえたんでしょ? でも……その時だけ無駄に元気になってそう」
「おまえは俺をどんな奴だと思ってんだ。まぁ、緊張はした」
「――で、一回寝たらわりと調子出てたひとに聞きたいんだけど。これ、何?」
ベッドからは完全な死角。拾い上げられたのは尿瓶だった。しかもわずかに濡れている。
「えっ、はっ!? いやっ、トイレは自力で行けたから使ってない……というか、大家さんの忘れもんだから! 常識で考えて使ったのを、そんなほったらかしにしないだろ普通!」
「へー、はー、ほー。まぁ、理屈だとそうかもね。理屈だと」
「だ、だろ?」
つまりそれは、感情の部分ではまだ不満があると言われているようなものだった。
(ぜ、絶対わざと置いて帰ったじゃん、あのひと……しかも濡らして)
いつも「あらあら~」と間延びした感じだけども、意外と油断も隙もない大家である。
「せ、制服にエプロン。に、似合ってるぞ?」
「ふーん。どうも。ところで夕飯は、豚キムチ炒めと麻婆豆腐どっちがいい?」
「お、おかゆでよろしくお願いいたします……」
こうしてひとは潜在的な上下関係を悟るのだろうか、とそんなことを実感する。
まぁ、身内が風邪を理由に尿瓶を使わせたかも、と考えたら引くので気持ちはわかる。
そういう理解もあって俺は、里奈に大人しくおかゆを食べさせられていた。
普段なら絶対に言わない、「たぁんと召し上がれ」なんて台詞を聞けば当然だろう。
冷や汗が止まらない。俺そんな悪くないのに。明日も風邪だったら里奈のせいだと思う。
「ほら、寝る前にその、もう一回。背中拭くから。あっち向いて」
食事を乗り越えてしばらく。俺は促されるままシャツを脱ぎ、里奈に背を向けた。
汗で濡れた背中を丁寧に拭われ、タオル地と肌が擦れる音だけの沈黙が数分と続く。
「――なぁ、里奈」
「なによ」
「今日、ありがとな。おまえがいてくれて助かった」
「え、あ。う、うん……どう、いたしまして……ぇへへ」
それはきっと無意識で。耳を澄まさなければ聞こえない、かすかな微笑みだった。
「……ね、今も緊張、するの?」
「いやこれで緊張してたら、風呂上がりに半裸でうろつくわけないでぁああああっ!?」
刹那、冗談ではない速さで背中を擦られる! これが全力全開。里奈、恐ろしい子……。
――以下、おまけ。
由『え、今日ペポ休みなの』
千『残念だねぇ、お大事に』
菫『えー。男子の目がない女子だけの部活なんて、すぐ下ネタであふれちゃうよー』
里『というわけで今日は、部活をお休みさせてもらいます』
由『おっけー』
千『ペポくんによろしくね、りーちゃんママ』
菫『ままがんばえー。おっぱいぱーい』
里『わかりました。出ません』
千『けどりーちゃん、もし赤ちゃんプレイがしたいって言われたらどうするの?』
里『それならもう、今朝やりましたよ』
先輩一同『!?』
里『冗談です(笑)』
由『り、りーぽんお前、文字だけだといきなりぶっ込んでくるよな……』




