ことわざ
いつも通りの放課後。古賀ちゃん先生だけ不在の和室。
膝上にちょこんと収まり、うとうとする部長が「ふわぁ」と眠そうに口をあけた。
「また大きなあくびですね」
「ぅ、うるちゃいな。いいだろべつに」
「ごめんなちゃい、部んぐぉっ!?」
ふんっ、と肘が腹に突き刺さる。わりと痛い。読んでいた漫画が部長の頭に落ちた。
部長はそれをコタツ布団に置き、身体で覆い隠して抱え込んでしまう。
「つーわけでこれはちょっとだけ没収!」
「えっ、えー。今いいとこなんですよ、返してくださいよ」
「ダメだ。ばかにするからだろ」
テコでも動かぬ、という感じだった。周りに助けを求めてみても、皆それぞれ佳境らしい。
「部長ぉー」
「ダメだ」
「世界一かわいい部長ぉー」
「ダ、ダメだっ」
ちょっと惜しかった気もするけど、ダメか。となるともう、強引な手しかない。
「ならこうです!」
「え? ――んぐゎあああっ!?」
がしり。小さな頭を挟むように掴む。髪に手を入れ、両手の指先に力を込めた。
ほどほどに痛覚を刺激し、無事に漫画を取り返す。けれど読もうとする度、こっちをジッと見る膝上の部長がお腹に小パンチを繰り出すようになり、まったく集中できない。
「じゃれてるねぇ」
「ねー。何か退屈しのぎの案があったりするー、りなりな」
「……じゃあ、それぞれに合うことわざや慣用句を挙げてみる、はどうでしょう?」
今度の保育補助バイトで使うらしい、紙芝居作りの手を休めてひとつ息をつく。
少し疲れが見えた。保育園は近所の神社の敷地内にあるけれど、里奈はそこで巫女見習いもやっている。きっとまだ生活のリズムができていないのかもしれない。
「お、なかなかいいんじゃね? それ」
軽めの猫パンチみたいな攻撃が止み、部長が嬉しそうにぐるりと皆を見て考え始めた。
「んじゃ、まずりーぽんは……そうだな〝泥中の蓮〟とか?」
けがれた境遇にあっても清らかなまま、という意味だったと思う。しかしそうなると、
「この部活、泥だったんですか?」
「ちげーよ、なんでだよ! お前とふたり暮らしなんてけがれてるだろ、やましいだろ!」
「べつにやましくなんかないですよ。なぁ?」
「……ん」
「ほら。里奈はむしろあれですよ、〝堅い木は折れる〟とかその辺です」
「あー、なんかわかる。雨に打たれてるところを拾われそうなヒロインって感じ」
納得した部長が頷く。ふと脳内にアパートの前で「今日……帰るところ、ないの……泊めてくれたら――」なんて膝を抱えている里奈のイメージが浮かび、すぐに振り払った。
本当は頑固者にたとえてもよかったけど、帰ったら苦言をていされるので言わない。
「はいはーい。わたしは、わたしはー?」
菫先輩がわざとらしく、大げさに身体を弾ませて挙手をする。それを見た部長が、
「ぐっ! 胸が、踊る……」
「字がおかしくないですか?」
するといきなり脳内に菫先輩が現れ、「おかしくないよー」と笑顔で俺と部長を胸で挟んで圧殺しにかかる。とろけるような感覚だけども――これ絶対、俺の想像じゃないだろ!
「ここだと踊らないのはー、ゆまゆまだけだよねー」
不用意に刺激するのはやめて欲しい。ほら、もう「ぐるるるぅっ」と唸っている。
しょうがないので、ポケットにしのばせていたルマンドで怪獣を懐柔した。
「どうどう。まぁ、菫先輩は〝涓滴岩を穿つ〟ということで」
「わたしにー、ことわざはわかりませんー。ちゆちゆー」
「絶えず努力すれば、最後は大事を成し遂げる、という意味だねぇ」
千雪先輩が補足する。意味を聞き、菫先輩は「はーい、頑張るー」と微笑んでいた。
「次は千雪の番かなぁ」
「先輩はあれです、〝蟹は甲羅に似せて穴を掘る〟とかどうです?」
「ちゆちゆはカニさんかー。でも意味はなんだよーぅ。りなりなー」
「蟹が甲羅の大きさに合わせて穴を掘ることから、人は自分の力量や身分に応じた言動をするもの。あるいは、人はそれ相応の願望を持つものという意味ですね」
「私からすると〝十人十色〟……〝蓼食う虫も好き好き〟だぞ」
「千雪がすーちゃんを好きってことかなぁ」
「えー、そうなのー? わたしも好きだよー」
きょとんとした菫先輩が訊く前に、千雪先輩が答えていちゃつき始めた。放っておこう。
「んでペポか。うーん……〝精神一到何事か成らざらん〟?」
「〝桃李言わざれども下自ずから蹊を成す〟はどうです?」
「やれば何でもできる、自然と人が寄ってくるとは。ほめるねぇ」
「逆になんか、裏を感じますけどね……」
意味ありげに先輩たちはニヤニヤとし、かたやふたりは互いにそっぽを向いている。
何であれ、これで残すは部長のみ。ややあって自然と部長に視線が集まった。
「ん? 私はもう決めたぞ? 〝山椒は小粒でもぴりりと辛い〟にな!」
山椒の実は小さいが非常に辛いことから、身体は小さくとも優れている者を指す。けれど、
「え、部長だけ自分で決めるなんてダメですよ。そんな部長は〝猫の額〟です」
「だよねぇ。というわけで〝滄海の一粟〟かなぁ」
「んーとねー、んーとねー〝大は小を兼ねるー〟」
「え、と。じゃあ〝兎の毛でついたほど〟?」
菫先輩以外は総じて小ささを表し、めった打ちにされた部長は大変ご不満そうだった。
「お、お前ら好き勝手言いやがって! くぅ、サンドバックくんはまだ来ねーのかっ!?」
ひどい。だというのにここで来てしまうのが古賀ちゃんで、からからと襖が開く。
「来た古賀ちゃん! 私の救世主くん! この瞬間を待っていたんだよっ!」
「え、え? 先生を待ってたなんて。だ、大丈夫? ついに頭がおかしくなっちゃったの?」
「自分で言うのか……」
来るなり珍しくも教え子に抱きつかれ、戸惑いが見えるものの満更でもなさそうだ。
とはいえこれから先生がどんな目に遭うか。全員の想像通りなのは間違いない。
――以下、おまけ。
由「なぁ、ここ十数年に新しくできたことわざとかってなんかあんの? ないならなんで?」
智「え? いや、それは。どう、なんでしょうね。わかります?」
菫「わたしはもちろん知らないよー」
千「うーん、十数年となると千雪にもちょっと難しいねぇ……理由は――」
瞳「ぷくくくくっ。無知わよね、あなたたち!」
里「うわっ、生き返った!」
瞳「ことわざ、慣用句、故事成語、四字熟語! いずれにしても根っこは〝共感された言葉〟でしかないの。共感がなければやがて消えゆくものだから。はっきり言って既存のくくりで新しく生まれてはいません。理由は生まれる言葉のくくりが変わったから。流行ないし俗語にね。草を生やす、意味は笑うこと。なんて慣用句とか納得しづらいでしょ?」
千以外「あぁー」
菫「えー、でもでもー。なんか先生っぽくてむかつくー」
瞳「これでもあたし、先生なんですけぉおおおおおっ!?」