第10話
資料の山に埋もれて翻訳作業を続けること数日間。鬼族の集めた資料は非常に興味深く、あたかも歴史の海で泳いでいるような幸福感を味わっていた。当の鬼族からすれば栄光と敗北の繰り返しで、とても直視できるような内容ではない。
現に焔鬼も歴史には全く興味がないようだ。魔女の上司であるオールドから纏めろとは言われているが、従うつもりはないらしい。一応、歴史も纏めてみたけど果たして彼女に受け取って貰えるのか。疑問だ。
鬼族というのはファイヤーオーク並にプライドが高い。そしてファイヤーオークを一捻り出来るほどの実力を持っている。鞘鬼も勿論、その例から洩れない。他の種族は自分より劣っていると思い、部下としてなら使ってやるよという認識のようだ。
例外があるとすれば魔王だけ。ましてや人間は、卑怯な手を使わないと鬼に勝てない矮小な生き物。戯れに殺すことはあっても、それに従うなど鬼族の恥さらし。そんな奴がいたら同族といえども殺すしかあるまい。
これが冗談でも何でもないから凄い。事実、歴史の中では何度かそういう事があった。人間に挑み敗北し、それから何かの術で強制的に従わされてしまった鬼。あるいは単純に人間に惚れこみ、女房のように付き従ってしまう鬼。
いずれも同じ鬼族に命を狙われている。まぁ、最終的には人間が返り討ちにしたらしい。
どうやら鬼族というのは殊更に人間を嫌っている反面、あっさりと人間に従ってしまう一面も持っているようだ。
鞘鬼などは顕著で、すぐに人間の所に収まってしまう事から鞘鬼と呼ばれた。などという説もあるくらいだ。特に女性の鞘鬼は惚れっぽく、角に息を吹きかけてやるとコロッと落ちるらしい。
ダストは思った。もっと早く、この記述を見つけておけばよかったと。
「んー」
膝の上の焔鬼が角を突きだしてくる。吹きかけてくれの合図だ。資料を捲る手を止め、息を吹きかける。
気持ちよさそうに目を細め、身体を震わせた。
「ありがと、ダスト。それよりも、まだ終わんないの?」
首に手をかけ、耳元でそう囁いてくる。最初の頃は、ここまで露骨ではなかった。
徐々に食事が良くなってきた辺りで、「おや?」と思った。誰かと間違えているのではないかと訊いてみたが、それで合っていると焔鬼は言う。捨てるわけにもいかないので、そのまま食べてしまった。すると次の日はもっと豪華になった。今では食後の果物も付いてくる。
これも鞘鬼の習慣なのだろうか。資料を読み進めてみたが、そのような記述は見当たらない。そうこうしているうちに、今度は焔鬼がやたらと接触してきた。口では「逃げないよう見張る」とか「いざとなれば殺す」と言っているが、明らかにそういう接触ではない。
そして仕事から戻れば、真っ先に角へ息を吹きかけるよう要求してきた。その頃になってようやく、ダストは鬼族の惚れやすさを知ったのだ。ついでにもう手遅れだということも。
部屋の中だけだが、今ではもう完全に恋人のようにダストへもたれかかっている。役に立てるのは嬉しいが、心まで預けられるとさすがに困った。頭も空っぽで大した価値のない自分に惚れても、何にもなりはしない。
それに歴史を紐解けば、惚れた鬼を守ってきたのは人間である。だからといって自分にそれだけの力はない。同族から狙われても、焔鬼を守ることなど出来なかった。
「お手伝いは出来ますけど、私に大それたことは出来ませんよ。もっと他のモンスターに頼られた方がいいのでは?」
「やだ。ダストがいいの」
首元から腕を這わせつつ、ダストの胸のあたりを優しく撫でてくる。正直、好きだ嫌いだと言われても理解できなかった。自分のような出来損ないを嫌いになる理由は分かるが、好きになる意味が全く分からない。
命令されたら素直に従えたとしても、愛情を渡されただけでは困る。ましてや同じように愛してくれと言われたら、もう完全にお手上げだ。寝食を忘れて翻訳した方が良い。
あるいは、他のモンスターが息を吹きかけてもこうなるのか。ダストの事は忘れて、そっちにいく可能性はあるのか。考えてみたが、自分の困惑を回避する為にそういう事をするのはどうだろう、という結論に落ち着いた。
そもそも成功するかどうか分からないし、失敗すればダストも死ぬだろう。
「あれ?」
首筋に顔を埋めてこようとする焔鬼をよそに、資料へ集中していたダスト。ふと、ある文章が目に飛び込んできた。
人間と恋に落ちた鞘鬼だが、当然周りはそれを許さない。モンスターと人間側から刺客が送り込まれるも、鞘鬼の愛がこれを打ち破ったと書かれている。愛で倒したとは妙な話だ。何かの比喩だろうか。
読み進めていくうちに、これこそが焔鬼の求めていたものだと分かる。上手く使えば、今より更に強くなれるようだ。ただ、これはあまりにも……
難しい顔で黙りこくる。
「どうしたの?」
「あ、いえ、焔鬼様の欲しがっていた情報を見つけたのですが……」
「情報?」
不思議そうな顔をされる。どうやらすっかり忘れていたようだ。
「強くなる方法です」
「ああ、そういえば頼んでたなあ。で、どうすればいいの?」
当然、そう訊いてくるだろう。しかし、これを実践していいものか。真実である保証はどこにもなく、嘘であったら一大事だ。とはいえ、今更間違いでしたと言うわけにもいかない。伝えるだけ伝えておこう。
「まず角を抜きます」
膝の上から降りて、角を抜く。途端に焔鬼の身体が成長した。
「それで、ここからどないすればええの?」
さすがに駄目なら駄目と言うはずだ。ダストは覚悟を決めた。
「鞘鬼が愛する異性へその角を渡します。そして異性がそれで鞘鬼のお腹を刺せば更に強くなれるそうです」
焔鬼が目を丸くする。当然だ。成功すればいいものの、失敗すれば焔鬼を刺し殺してしまうかもしれない。ただの剣ならいざ知らず、鞘鬼の角だ。そこから伸びた刃先は鋭く、持ち主自身をも殺せるだろう。
ましてやダストは人間。いくら惚れているとはいえ、こんな真似を許すわけがない。
そう思っていたのは、どうやらダストだけだった。
「そうか。ほな、ひと思いに頼むわ」
微笑みながら、焔鬼は角の剣を渡してくる。ずっしりとした重みに耐えながら、ダストが唖然とした面持ちで彼女を見上げた。
「どないしたん?」
「本当にいいのですか?」
情報が真実だとは限らない。そう説明したが、焔鬼は全く気にしていない。
「ええよ。ダストはんの調べた情報やし、それに愛する人から刺されるなら。それも本望ってやつやないかなあ」
お前の善意は重い、と魔女から言われたことがある。ひょっとしたら、こういう事だったのか。この愛情は重い。
「ウチをここまでメロメロにしたのは、あんたが初めてなんよ。鬼族は人間に惚れやすいとか言われたこともあるけど、真実やったんやね。今ではもう、あんた以外に惚れることなんて考えられんわ」
自分のどこに惚れる要素があるのかと訊いても、全部としか返ってこない。切っ掛けは角へ息を吹きかけたことだろう。ただここまでするのは、やはり鬼族としての習性みたいなものか。
「今更止めよう、ってのは無しやで。とうとう勇者が現れたんや。このままだと、ウチも殺されてまうやろな。ウチを助けると思って頼むで、ダストはん」
そう言われたら、もうダストには断れない。角を握りしめる。
強くなれば、勇者を倒せるかもしれない。そうなれば、モンスターはみな喜ぶだろう。それに魔女も救われるかもしれない。ここでやるしかないのだ。
覚悟を決め、思い切り角を突き刺した。抵抗はさしてなく、まるで砂を突き刺したかのようにすんなりと腹部へと吸い込まれていく。そしてそのまま、腹部は角を全て呑みこんでいった。
「奇妙な感覚やな……うん?」
お腹を見ていた焔鬼が、不意に右腕をあげる。表に裏にと、交互にひっくり返しながら何かを確認しているようだ。
「資料にはその腕は剣のように鋭く、その腕は鞘のように硬いと書いてありましたが。どうですか?」
「確かに妙な感じはするけど……」
試しにと、焔鬼は腕を振るう。その軌跡をなぞるように、壁へ斜めの傷跡が刻まれる。向こう側まで貫通しているらしく、外の光が差し込んできた。ここの壁がどれだけ頑丈なのか知らないが、少なくとも焔鬼は満足してくれたらしい。
自分の腕を見つめながら、驚いたり、ニヤけたり、ダストに抱きつこうとして躊躇したりと忙しい。
「慣れるまで時間はかかりそうやけど、使いこなせたらえらい武器になるわ。ありがと、ダストはん」
重い愛を渡されるのは困る。だが感謝の言葉を贈られるのは気持ちがいい。
「どういたしまして」
「これなら勇者も倒せるかもしれんな。王国を出て、だいぶウチらの領土に入りこんだみたいやけど」
そうして領土を奪いながら、最終的には魔王を倒す。それが繰り返してきた歴史の流れだ。
「もしも勇者様が来たら……どうなるんでしょう?」
「今のウチなら問題ないやろうけど、仮に素通ししたら城は滅茶苦茶になるやろな。オールドは死ぬやろし、魔王様もどうなることやら。ウチの部下も危ないけど、まぁ、あいつらはどうせウチが止めろ言うても挑んで死ぬやろな」
モンスターにとって勇者とは災害以外の何物でもない。災害が手心を加えるわけもなく、当然のように魔女たちも被害に遭うだろう。
「ただ、ダストはんがどうなるかはウチにも分からんわ。同じ人間だから生かしてくれるか、それとも疑わしいから殺すか。どっちにせよ、ダストはんはウチが守るから安心してや」
人間だから人間を守ってくれるとは限らない。どうなるかはダストにも分からなかった。それよりも、魔女はどうなるだろう。
「魔女? ああ、あれは狡賢いからなあ。案外、勇者が来たドサクサに紛れて逃げるんとちゃうやろか」
逃げてくれるなら、ダストとしても安心できる。ただ、魔女はファイヤーオークからは逃げなかった。自分たちを守る為、勝ち目のない戦いを挑んだのだ。あれを勇者にしたならば、確実に命はないだろう。
「そう不安がる必要はあらしまへん。もうすぐ、なんもかんもが終わるさかい。ダストはんは安心して、ここにおるとええよ」
「そうだといいのですけど……」
ただこの時、ダストは知らなかった。
この力に慢心した焔鬼が部下を引き連れ、勇者の所へ乗り込もうと企んでいくことを。
瀕死の重傷を負って彼女が城へと運ばれてきたのは、それから五日後の事だった。




