6.終わったと思っていたのに
そうして次の朝。コレットはいつも通りに身支度を済ませて作業部屋に入っていった。
昨日は色々あったけれど、気分を切り替えて頑張ろう。彼女がそう気合を入れて、今日の作業にかかろうかとしたまさにその時。
思いもかけない人物が、作業部屋に顔を出した。ためらいがちに。
「……おはよう」
ぎこちない動きで彼女に花束を差し出したのは、なんとフレデリックだった。昨日のうっとりとした表情とは打って変わって、照れくさそうに彼女から目をそらしている。
彼が手にしていたのは、やはり薬草の花ばかりを集めた、でも昨日のものとは違う花束だった。その中にとびきり珍しい薬草が混ざっていたのを、コレットは見逃さなかった。
「この薬草、この辺りでは育てるのが難しいのに……これも、薬草園のものですか?」
彼女の声に感心と驚きの響きを聞き取ったのか、フレデリックがぱっと彼女のほうを向いて答える。得意げに、彼は説明を始めた。
「王宮の薬草園には、専属の庭師が何人もいるからな。さらに環境を整えるために、宮廷魔導士も協力している。だからこのように、この地域には向かない薬草を育てることも可能なのだ」
「すごいですね……一度、その薬草園を見てみたいです」
「ああ、見事なものだぞ。君さえよければ一度、見に来ればいい」
フレデリックはそこまで言って、ぴたりと口を閉ざした。一呼吸おいて、あたふたと言い訳を始める。
「お、俺はこの珍しい薬草を君に見せて驚かせたかっただけで、別に君を喜ばせたかったとか、そういうのではないからな」
困ったように唇をとがらせ、フレデリックはまたそっぽを向いてしまう。
しかしその耳はほんのりと赤みを帯びていたし、その目は時々ちらちらとコレットのほうを見ていた。明らかに、彼女の反応が気になって仕方がないという様子だった。
昨日とはまるで違う、でもこれはこれで恋する少年のようなふるまいに、コレットは受け取った花束を抱えて首をかしげる。
「ええっと、花束、ありがとうございます。……ところで、もしかして惚れ薬がまだ残ってますか? もう一度、解毒薬を作ったほうが良さそうですね」
コレットはくるりと身をひるがえして、薬草がしまわれている奥の部屋へ向かおうとする。その背中に、フレデリックがあわてて声をかける。
「ち、違う! あの惚れ薬は、もうきれいさっぱり消えている! ほら、俺はもう……その、歯が浮くような言葉は言っていないだろう、昨日と違って」
「ですが、やはり様子がおかしいような……それに、どうしてまたここに来られたんですか?」
可愛らしい眉間にしわを寄せて、コレットがもう一度首を傾けた。フレデリックはさらに頬を赤くしながら、もごもごとつぶやいた。
「……君に、提案があって来た。俺の、一方的な思いつきだが」
「提案、ですか」
「ああ。……その薬草が育てられている薬草園の隣に、使われていない離れがある。定期的に手入れしているし、広さもある。そこを、君の新たな作業部屋にしてはどうだろうか」
思いもかけない言葉に、コレットが目を丸くする。フレデリックは目をそらして、少し早口で続けた。
「王宮の倉庫や薬草園にあるものは自由に使ってくれていいし、君が必要な道具もすぐに調達できる。なんなら、王宮の薬師たちを助手としてもいい。君の研究は、きっとより発展するだろう」
「その、いいことずくめの話のように聞こえますが……いったいどうして、そんな提案を?」
頭の中を疑問でいっぱいにして、コレットが問いかける。フレデリックは真っ赤になって、消え入るような声でつぶやいた。
「……おととい、俺はとても楽しかったのだ。上品にふるまう令嬢なら見慣れているが……王子相手に、一日中薬草とポーションの話ばかりしている女性なんて、会ったことがなかった。とても新鮮で、興味深かった」
単にそれは、コレットが他の話題をろくに持ち合わせていなかったというだけのことだった。しかしまさか、そこを気に入られてしまうとは。彼女はきょとんとした顔で、薬草の花束を抱きしめていた。
「だが一応、俺は王子だ。俺が同じ相手のもとをひんぱんに訪ねるのは良くない。貴族たちの力の釣り合いが、それをきっかけに狂ってしまうかもしれないからだ」
フレデリックはまだ赤い顔をしたまま、コレットをまっすぐに見つめた。
「だから俺は、特定の誰かに入れ込まないようにしてきた。俺は王位を継がない二番目の王子で、権力争いの道具にするにはちょうどいいからな。誰かに利用されることのないように、常に気をつけていた」
ほんの少しだけ寂しそうに、それでいて堂々とフレデリックは微笑む。そんな彼の姿に、コレットは少しだけ見とれた。
しかしすぐに、彼はまた横を向いて口ごもってしまった。つい今しがたまで王者の威厳のようなものをたたえていた彼が、年相応のはにかんだ表情を浮かべた。
「それなのに、どういう訳か、また君に会いたくてたまらなくなった。我慢ができなくなった」
「だったら、やはり解毒剤を用意しましょうか?」
「いいや、不要だ。これは惚れ薬のせいではないと、俺には分かっている。……だが俺は、確かめたいのだ」
感傷をばっさり切って捨てるようなコレットの物言いに、フレデリックが苦笑する。彼は落ち着いた声で、ゆっくりと思いを語っていった。
「昨日の、薄気味悪い甘ったるい気持ちはもう消えた。でも俺の胸の奥には、得体のしれない感情が巣くってしまっている。温かくてくすぐったい、妙な気持ちだ」
フレデリックは切なげに微笑み、胸に手を当てた。コレットはそんな彼から、目が離せずにいる。
「それが何なのか、この後どうなっていくのか、俺には分からない。だが、君がそばにいてくれれば、答えが出るような気がするのだ」
「……それで、私を王宮に呼ぼうとしているのですか」
いつもたいそう理論的に、合理的にポーションを作っているコレットには、フレデリックの主張はあまりにもふわふわとしていて、非論理的なものにしか思えなかった。彼女のため息が、薬草の花をかすかに揺らす。
「どうか俺に機会をくれないか、コレット。こんなもやもやとした気持ちを抱えたままでいるのは、苦しいのだ。俺のわがままだということは分かっている。だが、それでも……」
熱っぽくそう言って、フレデリックはじっとコレットの目を見る。コレットはほんの少し頬を赤らめながら、それでも精いっぱい平静を装って答えた。
「……そうですね。研究の幅が広がるのは、喜ばしいことです。私のためにも、ポーションを待つ民のためにも」
その言葉に、フレデリックがぱっと顔を輝かせる。コレットはなぜか少しあわてて、言葉を付け加えた。
「でも私は、王宮に移ってもポーション作り以外、何もしませんよ? そちらに行ってから、あれをしろこれをしろと言われても困ります」
「ああ、君は来てくれるだけでいい。君さえいてくれれば、俺は……」
うっとりとした声でそう言ってから、フレデリックはぶるりと身震いした。ちょうど、水をかぶった犬のように。明るい紫色の目が真ん丸になり、それから鋭く細められる。
「っと、俺はあくまでも、俺のこの気持ちを解き明かすために、君を誘っているのだからな! その、昨日のような甘ったるいふるまいは、一切期待するな!」
「ええ、そのほうが助かります。あんな風に迫ってこられるのでしたら、この提案はお断りしなくてはなりませんから」
くすくすと笑うコレットに、フレデリックは釈然としない顔をしていた。
コレットはまっすぐな物言いをしがちなところがあるが、そこまではっきりと言い切られると、さすがに少し傷つく。そんな彼の繊細な男心を、コレットはまったく理解できていなかった。
こほんと一つ咳ばらいをして、フレデリックは背筋を伸ばす。仕切り直すかのように冷静に、また口を開いた。
「それでは、交渉成立だな。これからよろしく」
そう言って、彼は右手をコレットに差し出す。コレットもそろそろと手を出すと、彼は彼女の手をしっかりとにぎりしめた。ちょうど、握手をするような形だ。
二人がまっすぐに見つめ合った、その時。
「コレット、またフレデリック様がいらしているって本当ですの、って、ええええええ!」
ノックもせずに、イザベルが作業部屋へとやってきた。そしてコレットとフレデリックを見るなり、調子はずれの悲鳴を上げる。どこかで見たような光景に、二人は手を取り合ったまま目を丸くしていた。
イザベルにはどうしても、コレットに言っておくべきことがあった。
昨日のフレデリックの甘い言葉は全て惚れ薬のせいであり、決してコレット自身に魅力があってのことではないということ。そして、昨日自分がフレデリックと親睦を深めたのだということ。
どうしてもそのことを伝えなくてはと、イザベルは朝っぱらからコレットの屋敷に顔を出したのだった。
そうしてイザベルは、フレデリックの来訪を知って首をかしげた。
どうしてフレデリック様がこちらにおられるのかしら、もしかしてまだ惚れ薬の効果が残ってしまっているのかしら。だとしたら一大事ですわと、彼女は駆け出さんばかりにして作業部屋にやってきた。
そうしてイザベルは、がっしりと手を取り合う二人の姿を目にしてしまったのだ。二日続けての衝撃的な光景に、彼女は昨日以上の悲鳴を上げることになった。
ひとしきり叫んで疲れたのか肩で息をしているイザベルに、フレデリックが戸惑いがちに声をかける。
「ああ、イザベル。君も来たのか」
「まあ、このようなところでフレデリック様にお会いできるなんて。幸運の女神がわたくしに微笑んでくれたようですわ」
フレデリックに声をかけてもらったからか、イザベルはすぐに立ち直ってにっこりと優雅に微笑む。そんな彼女に、フレデリックはさらに言った。
「そうだ、君にも言っておいたほうがいいだろうな。コレットは、今後王宮で暮らすことになった」
「え……それは、いったいどういうことですの」
イザベルが一転して顔をこわばらせ、呆然と尋ねる。彼女を刺激しないように状況を説明しなくてはと、コレットが割って入ろうとした。
「ええっと、それがね」
「コレットにそばにいて欲しいと、俺がそう望んだ。そして彼女は、俺の提案にうなずいてくれた。そういうことだ」
コレットの気遣いも空しく、フレデリックはあまりにも端的に要点だけを述べてしまった。しかも、ちょっと勘違いされかねない文言になっている。
はらはらしながら成り行きを見守るコレットの目の前で、イザベルはこぶしをにぎってうつむいた。その肩が、小刻みに揺れている。
イザベルは、獲物に飛びかかる直前の猛獣のような、そんな恐ろしい雰囲気を放っていた。コレットとフレデリックはイザベルに圧倒され、無言のまま立ち尽くす。無意識のうちに、さらにしっかりと手を取り合って。
作業部屋に、沈黙が満ちる。ふとイザベルが顔を上げて、叫んだ。
「……どうして、そうなるんですの……納得が、いきませんわあっ!!」
異様に甲高く、ひときわ大きなその叫び声に、コレットとフレデリックはそろって耳をふさいでいた。