2.王子様がやってきた
そうして、ついにフレデリックがコレットの屋敷にやってきた。
「今日は世話になる、コレット。名高い魔女令嬢の仕事を見たいという俺のわがままをかなえてくれて嬉しい」
「……よろしくお願いします、フレデリック様」
フレデリックはさわやかに笑いながら、軽くうなずいた。その拍子に、彼の栗色の髪がさらりと揺れる。
彼は整った面差しの、品のある男性だった。コレットと同世代の、少年と青年のちょうど狭間の年頃だ。
王子だけあってほんの少し尊大なところもあるにはあったが、それはコレットに嫌悪感を抱かせるようなものではなかった。そのことにほっとしながら、コレットは当たり障りのないあいさつを済ませる。
それから二人で、作業部屋に向かった。その片隅に置かれていた椅子に、フレデリックが腰を下ろす。
コレットはいつものように、作業に取り掛かった。彼女を見つめている彼の存在を、意識しないように気をつけながら。
コレットは薬草を刻み、小鍋に放り込んでいく。その合間にノートにあれこれ書きつけながら、宙を見つめて考え事をしている。
そんな彼女を、フレデリックは興味深そうに見守っていた。明るい紫色の目を真ん丸にして、前のめりになって。
彼はポーションの作り方についてはほとんど何も知らないのだと、そう言っていた。それなのに彼は退屈した顔一つ見せずに、黙って彼女の作業を見守っていた。
王子様が来るっていうから、どんなことになるかと心配していたのに。コレットは作業の手を止めずに、こっそりとフレデリックのほうをちらりと見る。
フレデリック様は、今までの見学者の中で一番行儀がいい。それに、私の作業にあんなにも興味を持ってくれている。彼だったら、また見学してもらってもいいかな。
コレットの口元には、小さく笑みが浮かんでいた。あまり他人に心を開かない彼女だったが、フレデリックに対してはほんの少しだけ、気を許し始めていたのだ。
そうして彼女は、作業の合間にぽつぽつと話し始める。もちろん、ポーションや薬草について。そんな地味な話題に、フレデリックは楽しげについてきていた。そのことに、コレットはまた気を良くする。
これなら少しくらい、もっと個人的な話をしてみてもいいかもしれない。コレットがそう思い始めたまさにその時、作業部屋にさらなる客人がやってきた。
「こちらにフレデリック様がいらしていると、そううかがったのですけれど」
「あ、イザベル」
イザベルはコレットのほうをほとんど見ることなく、座ったままのフレデリックのところに突撃していった。
「初めましてフレデリック様、わたくしイザベルと申します。こちらのコレットとはずっと前から親しくしておりますの」
「そうか、よろしく」
フレデリックがさわやかに答えると、イザベルはうっとりと頬を赤らめてため息をついた。それからあれこれと、礼儀正しく言葉を交わしている。
しかしイザベルは、さほど長居することなくじきに立ち去っていった。コレットもフレデリックも気づかなかったが、イザベルのこの行動はたいへんおかしなものだった。
なにせイザベルは、ずっと前からフレデリックに憧れ、というより一方的に懸想していたのだから。そしてイザベルは、フレデリックと親しくなれる機会をみすみす逃すような人間ではない。
去り際に、イザベルは緑色の目をすっと細め、表情を消した。そのふるまいに、コレットとフレデリックは気づくことがなかった。
そうして作業も終わり、コレットとフレデリックは食堂に移動していた。これからコレットの両親も加え、四人で晩餐にするのだ。
晩餐の席は、なごやかに進んでいった。話しているのはコレットの両親と、フレデリックだけだったが。
黙りこくっているコレットに、フレデリックが不思議そうに声をかける。
「どうした、コレット。上の空のようだが」
「昼間の実験について、考察していました」
そんなやり取りに、コレットの父がそっと言葉を添える。
「申し訳ありません、フレデリック様。娘はポーションのこととなると、時も場所も構わずに考え込んでしまう癖がありまして……」
「いや、謝罪は不要だ。素晴らしいポーションをいくつも生み出す魔女令嬢であれば、それくらいの変わった行いの一つや二つ、あってもおかしくないだろう」
そう言って笑ったフレデリックの目が、ふとコレットの前で止まる。
「ところで、もう一つ尋ねてもいいだろうか。そのグラスは、いったい何なのだろうか」
彼の視線の先には、深い青紫色のその液体をたたえた小さなグラスがあった。不思議なことに、そのグラスはコレットの前だけに置かれている。
「これは試作品のポーションです。新しく開発したものは、自分で試すことにしているんです。食後すぐ服用して、その後の体調の変化を記録します」
「なるほど、自らが実験台に、か。使用人などに飲ませようとは思わなかったのか」
「自分で飲むのが、一番効果が分かりやすいので」
「まあ、それは確かにそうだろうが……」
腕組みしてつぶやきながら、フレデリックがグラスをにらむ。ふと、何かを思いついたようにコレットに向き直った。
「そうだ、どうせなら俺にそれを譲ってくれないか。せっかくここまで来たのだ、世に出回る前の新しいポーションを飲んでみたい」
「えっと……でもこれは試作品で、狙った通りの効果が出ているか分かりませんが……」
「それでも、頼みたい。そうそうここまで来ることもないだろうし、今回の訪問の記念にしたい」
「フレデリック様は王子です。自分の身を危険にさらすような真似はおやめください」
「王子といっても、俺は二番目だ。次の王となるのは兄上で、俺ではない。俺は他の貴族と、そう立場が変わる訳ではない」
どうやら、フレデリックは試作品が気になって仕方がないらしい。彼の目は、ずっと青紫の液体をたたえたグラスに釘付けだ。
「それとも、その試作品には何か突拍子もない効果があるのか? 他人にはとても飲ませられないような、そういったたぐいの」
「いえ、そんなことは……これは安眠の薬です。より深く穏やかな、良質な眠りを得ることができる……はずです」
「ならばなおさら、飲んでみたいな。最近忙しくて、疲れているのだ。ゆっくり眠れば、疲れも吹き飛ぶだろう」
熱心に、というよりも強引に迫るフレデリック。そんな彼のきらきらとした目に負けて、コレットはグラスを彼に渡してしまった。
彼はグラスの中身を、興味津々といった顔でじっと見ていた。その口元には大きな笑みが浮かんでいる。と、彼はいきなりその中身を干してしまった。コレットの口から、あ、という声がもれる。
食堂に、恐ろしいほどの静寂が満ちた。やがて、フレデリックがほうと息を吐く。コレットをまっすぐに見て、微笑んだ。
「初めて口にする味だが、気に入った。しっかりとした甘さとほのかな酸味がよく合っている。これならポーションというより、むしろジュースに近いかもしれない」
「……甘い?」
「ああ、甘酸っぱくて美味だったぞ。もしかして、想定と違う味だったか?」
楽しげに笑うフレデリックとは対照的に、コレットは難しい顔をして黙り込んだ。
本来ならば、あの試作品はほのかな酸味しかしないはずなのだ。美味というには、あまりも味気ないはずなのだ。
そういえば色も、作った直後と変わっている。きれいな青だったのに、ずいぶんと赤味がかってしまっていた。時間を置いているうちに色が多少変わることは、ままあることだった。けれど、味まで変わることは珍しい。
あの試作品は、どこかおかしい。やはり、フレデリックにグラスを渡さなければ良かったかもしれない。コレットは彼に気づかれないように、こっそりとため息をついていた。
コレットの心配をよそに、フレデリックは上機嫌のまま帰っていった。今のところ、深刻な体調の変化は見られなかった。そのことにほっとしながら、コレットは自室に帰っていった。
しかし異変は、次の朝一番に彼女のもとを訪ねてきた。