16.信じられない現実に追われて
そうしてついに、パナシーアが民の手に渡り始めた。あの魔女令嬢の新作だ、様々な病に効く万能薬だと、人々はこぞってパナシーアを買い、口にしていった。
コレットとフレデリックは、その報告を笑顔で聞いていた。きっとパナシーアはみなを幸せにするのだと、信じて疑わなかった。
しかし現実は、二人が予想もしていない方向に転がっていった。
「不良品……ですか?」
「それどころか、彼女がわざと失敗作を流通させたと、そんな噂まで!? それはまことですか、兄上!」
フランシスの執務室で、コレットとフレデリックは立ち尽くしていた。コレットはほんの少し青ざめた顔で、フレデリックはいきどおりに顔を赤くして。
「ああ。君の新作であるパナシーア、それについて多くの苦情が寄せられているのだ」
わずかに目を伏せて、フランシスが紙束を二人に差し出す。そこに書かれていた文章を見て、二人は同時に目を大きく見開いた。
『今度のポーションは、ちっとも効かない』
『飲んだら、お腹を壊しました』
『これ、本当に魔女令嬢のポーションなんですか? 絶対におかしいです』
『こんなできそこないを世に出すなんて……魔女令嬢はどうかしたんじゃないか』
そこにはそんな言葉が、びっしりと書かれていたのだ。
「どうして……あんなに試作品を作って……効果は私とフレデリック様で、ちゃんと確かめたのに……フランシス様、確かにあのレシピで、パナシーアを作らせたんですよね?」
コレットが震える声で、フランシスに尋ねる。フランシスは切なげに、そっと目を伏せた。
「ああ。パナシーアを製造している部署は既に調べたけれど、きちんと君のレシピに従って作業していたね。どうしてこのような事態になったのかは、まだ調査中だ」
「俺たちのパナシーアは、間違いなくとびきりの逸品です。兄上、どうか彼女の汚名を晴らしてください」
「もちろんだよ、フレデリック。ただ、私には他の執務もあるから、その件にだけ時間を割くこともできない。おそらく解決までには、時間がかかる」
ためらいがちに、フランシスがそう口にする。フレデリックに支えられているコレットに、そっと目をやった。
「……コレット。今、君の評判は悪くなってしまっている。魔女令嬢が毒を盛った、魔女令嬢に裏切られたと、そう思っている民もいるらしい」
「彼女が毒を盛るなど、ありえません! 彼女は、自分の作り出したポーションに、誇りを持っているのですから!」
「私も君と同意見だ、フレデリック。だが、民たちの間に広まっている不信の声が落ち着くまで、コレットはどこかに身を隠していたほうがいいと思う。……父上も、同じことを考えておられた」
今度はフレデリックも反論しなかった。兄の言うことがもっともだと、彼も思ってしまったのだ。
「遠方の高原にある、王家の療養所に移ってはどうだろうか。あそこなら警備も容易だし、普通の民がやってくるようなこともない。それに静かだから、コレットも落ち着いて過ごせるのではないかと、そう思うのだけれど」
それきり三人とも、黙り込む。コレットは両手をきつくにぎりしめ、考えていた。
フランシスの提案に乗るべきだと、コレットにも分かっていた。人々が自分のことを魔女令嬢と呼ぶようになったのは、自分が優れたポーションを作り続けてきたからだ。
しかしみなの信頼を集めていた魔女令嬢が、まともでないポーションを流通させてしまったのだ。パナシーアに何があったのかは分からない。でも、民は怒っている。
さっき見た苦情の数々に、コレットはすっかりおじけづいてしまっていた。あれが全部、自分の大切なパナシーアに向けられたものだということに、彼女は傷ついていた。
フランシスによる調査が終わるまで、自分はどこかに隠れたほうがいいのだろう。そうすれば、あの苦情から、ちりちりとひりつくような怒りから逃れることができる。
彼女はそう思ったが、しかしすぐにうなずくことができなかった。
他人にはほとんど興味のない、一人で過ごすことを好んでいたはずの彼女は、こう感じてしまったのだ。ここを離れるのは、寂しい、と。
しかしその時、フレデリックが声を上げた。
「兄上、ならば俺も、彼女に同行します。パナシーアを生み出す過程には、俺も少なからず関わっています。その事実を民が知れば、その怒りは俺にも向くでしょう」
思いもかけない言葉に、コレットは目を丸くしてフレデリックを見つめる。彼は彼女に笑いかけて、堂々と言葉を続けた。
「俺はあの療養所についても詳しいですし、彼女の力になれると思います」
「……そうだね、フレデリック。彼女のことを、しっかりと守ってあげてくれ。コレットも、それでいいね?」
フランシスの問いに、コレットは無言でうなずく。その顔色はまだ少し悪かったが、青い目に差していた陰は、ほんの少しだけ薄れていた。
それからコレットは、一人で部屋を出ていく。あとには、厳しい顔のフレデリックとフランシスが残された。
二人は小声で、これからのことを手短に話し合う。留守にしている間、フレデリックの執務はフランシスが代行することになる。そのための引き継ぎをしていたのだった。
「俺のわがままで、兄上に迷惑をかけるのは心苦しいのですが……」
「気にしないで。……コレットの心痛を思えば、これくらいどうということはないから」
そう言って、二人は同時にため息をつく。
「……どうして、こんなことになってしまったのでしょうか。俺は……悔しい。彼女はあんなにも懸命に、ただ素晴らしい万能薬を作ろうとしていただけなのに」
フレデリックはぐっとこぶしを握りしめた。
「できることなら、民たちに伝えて回りたい。彼女がどんな心持ちで、パナシーアを作っていたのか。彼女の腕前が、どれだけ素晴らしいか」
「君の気持ちは分かるよ。でも今は、こらえてほしい。何が起こったかについては、私が責任を持って調べる。だから君は、コレットを守ってやってくれ」
静かに言うフランシスに、フレデリックはゆっくりとうなずく。
「もちろんです、兄上。……それこそが、俺の望みですから」
離れに戻ったコレットは、そのまま寝台に倒れ伏してしまった。
「まだ信じられない……こんなことになるなんて」
枕に顔を押しつけたまま、コレットが弱々しくつぶやく。
「絶対に大丈夫だって、確信してたのに……どうして……」
彼女はぴくりとも動かない。小さな声で、切れ切れに言葉を発しているだけだ。
「絶対に、失敗作なんかじゃないのに……」
その肩が、かすかに震える。けれどやはり顔を上げることなく、彼女はぎゅっと枕にしがみついていた。




