1.全ては失敗作から始まった
伯爵令嬢コレットは、ぐつぐつ煮える小鍋をじっと見つめていた。とても真剣な目で。
彼女はゆるく編んで背中に垂らされた青みの銀髪と、サファイアを思わせる綺麗な青い瞳をした、とても可愛らしい少女だ。森の奥に咲くユリの花のような、清楚で物静かな雰囲気が目を引く。
上等なドレスをまとって穏やかに微笑んでいるのが似合いそうな彼女は、妙に質素なドレスの上から、飾りのかけらもない長い上着を着こんでいた。彼女の美貌にも身分にも不釣り合いなその服装は、なぜか彼女にとても良く似合っていた。
彼女がいるのは、屋敷の一室だった。ひどく殺風景なその部屋の中央に、大きな石の机が置かれている。飾りも何もない、ただの石の板のようなその机の真ん中には、魔法陣が刻みこまれていた。小鍋は、その魔法陣の上に置かれているのだ。
小鍋の周囲には、様々な薬草とたくさんの書物、それに何事かを書き付けたノートなどが散らばっていた。
この部屋は、コレットの作業部屋だった。彼女は今、様々な薬草を組み合わせて新たなポーションを作っているのだった。
伯爵家の若き令嬢である彼女を、人々はこう呼んでいた。魔女令嬢、と。
コレットは子供の頃から、薬草やらポーションやらに強く興味を持っていた。彼女が親にねだって道具をそろえてもらい、初めてポーションを作り上げたのが六歳の時。
それから彼女は様々なポーションを作り続け、しまいには新たなポーションを開発するようになっていた。十六歳になった今も、毎日せっせとポーションの研究に励んでいたのだ。
そして彼女の作るポーションは、とても良く効く素晴らしいものばかりだった。彼女のポーションをほんの一口飲むだけで、頭痛に腰痛、のどの痛みに胃腸の悩み、そういったものがきれいさっぱり治っていくのだった。
彼女は両親と相談して、それらのポーションをたくさん複製させ、領民に格安で売ることにした。医者にかかるよりも遥かに安く、それでいて抜群に効くポーションは、あっという間に領内に広まっていった。
民たちはすっかり健康になり、みなコレットに感謝するようになっていた。一部のやぶ医者たちをのぞいて。
そして彼女のポーションは、貴族たちにも大変重宝されていた。美肌に毛生えに痩身と、豊かであるが故のぜいたくな、しかし本人にとっては大変深刻な悩みを、彼らはコレットにこっそりと相談するようになったのだ。
彼女は快く、それらに効くポーションを次々と開発していった。普段と違うポーションを作れるからと、彼女はそれはそれで張り切っていた。
そんなこともあって、彼女は民に慕われ、貴族たちにも一目置かれていた。けれど彼女は変わることなく、こうして毎日ひたすらにポーションを作り続けていた。
「よし、完成」
コレットは小鍋の中身を慎重に瓶に注ぎ、満足げに笑う。しかしその可愛らしい眉間に、すぐにしわが寄った。編んで垂らした銀髪が、首をかしげた拍子にしなやかに揺れる。
「……あれ? どうして、あのレシピでこんな色になるの? もしかして、失敗しちゃったのかな……匂いも変だし」
彼女が掲げているガラス瓶の中には、とろりとした濃いピンク色の液体が入っていた。
どうやらそれは、彼女が思っていたものとはまるで違うものだったらしい。うっとりするほど甘い香りが、その瓶からは漂っている。
愛らしい顔をしかめたまま、コレットは考え込んでいる。その小さな唇から、かすかなため息がもれた。
「……ひとまず、これは保留ね。また今度、じっくりと分析してみましょう」
そうつぶやいて、彼女は壁際のキャビネットに瓶をしまう。しっかりと鍵をかけてから、また彼女は作業机に戻っていった。
「さて、次はあのポーションを改良してみようかな。そのあとは、昨日考えたレシピを試してみよう」
薬草をしまっている奥の部屋に、彼女はうきうきとした足取りで歩いていく。ピンクの瓶のことは、既に彼女の意識からは消え去っていた。
そんなことがあってから、しばらく経ったある日。やはりせっせとポーションを作っているコレットのもとに、両親がそろってやってきた。二人とも、薄気味悪くなるくらいに上機嫌だった。
「コレット、作業中に済まないね。ちょっと話があるんだ」
「今日は、いい知らせがあるのよ。ええ、とってもいい話なの」
「……いい知らせ?」
普段とはまるで様子が違う両親に、コレットは警戒した目を向ける。そんな彼女に、父親がもったいぶって告げた。
「ああ。落ち着いて聞くのだぞ。なんと第二王子のフレデリック様が、お前の作業を見学するためにいらっしゃることになったんだ」
「あなたの評判をお聞きになって、ぜひ見学したいとおっしゃってくださったのよ」
「第二王子の、フレデリック様……どんな方だったかしら。お会いしたことはないし、そもそも興味もないし……」
「こら、失礼なことを言うものではないぞコレット。フレデリック様は、とても素晴らしいお方なのだぞ」
「そうよ。武勇に優れ、とても利発でいらっしゃって、しかも見た目もとても麗しい方なのだと、そう聞いているわ」
「ああ。もし第一王子であれば、素晴らしい為政者になられただろうと、もっぱらの評判だ」
両親は口をそろえて、会ったこともないフレデリックのことを褒めそやしている。しかしコレットは、明らかに気乗りのしない様子だった。
「……お父様、お母様。その話なんだけど……今からでも断れないの?」
「何を言っているんだ。こんな光栄な話を断るなどと、とんでもない!」
「そうよ、コレット。これをきっかけに、フレデリック様とお近づきになれるかもしれないのだから」
「ああ。フレデリック様には婚約者がおられないし、お前と年の頃も近い。お前がフレデリック様のお目に留まることも、あるかもしれない」
両親はやけに熱心に、コレットを説得していた。しかしコレットの目はどんどん、冷ややかになっていく。もともとあまり愛想のいいほうではない彼女だったが、今の彼女は明らかに不機嫌だった。
「私、まだ十六だし……それに作業の見学って、いい思い出がないんだけどな……」
過去にも同じように、何人もの貴族が彼女の作業を見学しに来ていた。しかしその貴族たちはみな、彼女の作業をさんざんに邪魔してくれたのだった。それも、悪気なく。
ちょっとした好奇心から薬草を触ってごちゃ混ぜにしてしまったり、完成したポーションを勝手に飲んでしまったり。彼女はそんな見学者を叱り飛ばすのに忙しく、ポーション作りはちっともはかどらなかったのだ。
「……作業の邪魔をしないように、それだけは念押ししておいて。邪魔をするなら、王子でも遠慮なくつまみ出すから」
絞り出すような低い声で、コレットが宣言する。両親は冷や汗をかきながらもうなずいて、そそくさと作業部屋を出ていった。
そうしてコレットの両親は、思い切り浮かれながらフレデリックを迎える準備を進めていた。そんなある日、一人の令嬢がコレットの屋敷を訪ねていた。
金色の華やかな巻き毛に、深い緑の瞳。少々、いやかなり気が強そうではあるが品のあるその令嬢は、なぜか屋敷の廊下をこそこそと歩いていた。赤いバラの花を思わせる華やかな雰囲気の彼女には、まるで似合わないふるまいだった。
彼女の名はイザベル。一応、コレットの友人ということになっている。彼女もまた、伯爵家の令嬢だった。
イザベルは周囲を警戒しつつも、勝手知ったる顔でどんどん奥に向かっていく。赤く塗られたその唇から、小さなつぶやきがもれた。
「コレットばっかり注目されて……許せませんわ。いい加減、あの子に身の程を思い知らせてやらなければ、ね」
イザベルとコレットは、小さな頃からの付き合いだった。親たちが昔からの友人だったということもあって、自然と彼女たちも親しい仲になっていた。
しかしその実、イザベルはコレットを大いに見下していた。舞踏会にもお茶会にもろくに顔を出さず、毎日毎日屋敷にこもってひたすらポーションを作っている、とても貴族の令嬢とは思えないコレットのことを、イザベルはひっそりと馬鹿にしていたのだ。
一方でイザベルは、表向きとても親しげにふるまっていた。それにコレットはとても素直で、他人を疑うことはめったになかった。そんなこともあって、コレットはイザベルのことを仲のいい友人だと信じ込んでいた。そのことが、イザベルをさらにいらだたせていた。
それだけなら、イザベルはぎりぎり我慢ができた。変わり者のコレットを引き立て役にして、自分の魅力を引き立たせることもできるだろうと、彼女はそう自分に言い聞かせていたのだ。
しかしこのたび、フレデリックがコレットのもとをわざわざ訪ねてくるという。その話を聞いて、ついにイザベルの我慢の糸がぷつんと切れた。
それもそのはず、彼女はずっとフレデリックに憧れていたのだった。どうにかして彼に近づきたいと、ずっと彼女はそう思っていたのだ。
それなのに、自分よりも先にコレットがフレデリックと親しくなる。それだけは、絶対に許せなかった。
そんなことを考えながら、イザベルは作業部屋に入っていく。そのままためらうことなく壁際のキャビネットに歩み寄った。
「確かこの中に、危険なものをしまっていると言っていましたわね……失敗作ばかりで効果が分からないから絶対に触らないでと、あの子は言っていましたけれど。危険だというのなら、ちょうどいいですわ」
今日、コレットは用事で外出している。それを知っていたから、イザベルはあえて今日この屋敷を訪ねてきたのだ。
借りていたものを返しに来ましたの、戻す場所は分かりますから大丈夫ですわ。そんな言い訳を、誰も怪しみはしなかった。なにせ彼女は、コレットの数少ない友人だったから。
キャビネットには鍵がかかっている。しかしイザベルは、ヘアピンを一本髪から抜くと、それであっというまに鍵を開けてしまった。明らかに、慣れた手つきだった。
彼女はこの技術を母親から教わった。鍵を開けることで他人の秘密をこっそりと探り、それを用いて相手を思いのままに動かす。彼女の母はそうやって、どんどんのし上がっていったのだった。
そしてイザベルは、そんな母を尊敬していた。目的のためなら手段を選ばない。彼女もまた、そういう考えを抱くようになっていた。
「ラベルもなにもありませんのね……どれにしましょうか。できるだけ危なそうなものがいいのですけれど」
イザベルはポーションには詳しくない。彼女は少し迷ってから、小さな瓶を一つ手にして立ち去っていった。
彼女の手の中には、とろりとした濃いピンク色が、鮮やかな色を見せていた。