第39話 進撃の官軍『キリシタン大名』
永禄12(1569)年6月下旬 日向国宮崎郷
松平家康
2月の下旬に薩摩島津家を滅ぼした、我ら第三軍は翌月に、大隅の肝付良兼を破った。
一旦、田植え時期であるもあることから、新政の導入に努め、此度、第四軍の大友攻めに合せて、伊東義祐を攻めることにしたのである。
この頃の伊東家は、日向国内に48の支城を構え、伊東氏の最盛期を築き上げている。
また、大和から仏師を招聘して大仏を建立し、金閣寺を模して金柏寺なる寺を建て、日夜念仏や法談に傾倒していると聞く。
風魔の水軍が偽装海賊で暴れ回ったせいで南蛮との交易が滞り、南蛮の武器などは揃えられていないようだが、フランキ砲などを、手に入れていると聞く。侮りはできぬ。
【 宮崎郷の領民達 】
「おい、あの軍勢の大将どんが、福狸殿でごわすか。」
「ちげぇよ、分福狸様だでよっ。」
「ぶぅ、ぶぅ〜。二人とも違うわっ。分福茶釜のお殿様よっ。薩摩と大隅をあっと言う間に、豊かに変えたんですって。
あっちじゃ、賦役で女子供まで銭が貰えて、ものすご〜く色んな品が安く買えるのですって。評判よっ。」
「そうか、お〜い、分福茶釜のお殿様よ〜。戦に勝ってくだせぇよ〜。」
「「「「頑張ってぇ、頑張れぇ。」」」」
「殿っ、領民が応援してくれとりますぞっ。近頃の、殿の人気は大したものですなぁ。」
「又左、なんで儂が狸なのじゃっ。ちっとも嬉しくないわいっ。」
「そうかなぁ、似ておると思いますよ〜。」
「ぶわっ、かもんっ。似ておらんわっ。」
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永禄12(1569)年6月下旬 北九州筑後
風間小太郎
「筑前秋月家に従属しておりました内田彦五郎にございます。どうか帝の一軍の端にお加えいただきたく参上致しました。」
「同じく、綾部駿河守にございますっ。
桑野実勝にございます。」
「豊前の坂井家旧臣、飯野某と〜 · · 。」
俺が肥前から兵を上げて筑後に入ると、筑後西部と筑前、豊前の土豪達が次々と兵を引き連れ、臣従を申し出て来た。
肥前での新政が伝わり、戦に翻弄されていた土豪達が、領地を捨てる一大決心をして、馳せ参じたようだ。
一人一人、話を聞き、新政に相応しい者か判断をした。敵地の中を駆けつけただけあり相応の覚悟と領民の暮らしが良くなることを願っていた。元々、十数人の親族しかいない土豪など半農民なのだ。大名領主に従うしかない立場なのだ。
「その方らの連れて来た兵達は、領地へ返せ。そして、領民を守らせろ。
当主と数人のみ、我らに同行せよ。帝の軍勢の力を見せよう。」
『よいなっ。』
「「「ははっ。(はっ。) 」」」
内政君が慣れて来たよ。だけど『良いか』と『良いな』しか言ってない気がするな。
筑後で最初に立ちはだかるのは、柳川城の
蒲池鎮漣だ。隠居の父親は大友に忠義が厚いがこの男は、独立心が強い戦国大名だ。
柳川城は平城だが、掘割に包まれた天然の要害で、城内、市街には無数の堀が縦横に交わる。
「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」と戯れ歌に歌われ、攻略には3年かかるという九州屈指の難攻不落の城だ。
「さてウチ、どう攻めようか。」
「堀がいっぱいあるとこだね。これじゃあ、近づくのが大変かなぁ。だけど、海の側なんだね。水軍で攻めたら?」
「うむ、もう伝えてある。明日の朝には来るだろう。俺達はどうすればいい?」
「城から逃さないように、囲めばいい。」
「おっ、良くできました。立派な大将になって来たな、偉いぞっ。」
「小太にい、簡単すぎるよ。相手に飛車、角のない将棋みたいだもの。」
「それでも、堀に囲まれた堅固な場所を攻めないと気づくのは、大事だぞっ。
家臣達に聞いてみろ、皆、堀を攻める方法を考えるはずだよ。」
翌朝、我が第四軍の水軍が到着した。射程10kmの戦艦『天城』の主砲8門と、駆逐艦主砲各2門合計28門が火を吹き、難攻不落と言われる柳川城も呆気なく灰燼に帰した。
城を幾重にも囲み、護るはずの堀が邪魔をして、城兵は包囲軍に打ち掛かることもできず、鉄砲隊によって討ち果された。
「な、なんとっ。戦にならぬではないか。」
「味方に一人の被害も出さず、敵だけ殲滅してしもうたぞっ。」
「帝の軍の戦とは、なんと圧倒的なのか。
こんなに強いとは、信じられぬ。」
従軍された土豪達に、謀反など自殺行為と教える一戦だった。
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永禄12(1569)年7月中旬 京都二条風間館
風間佳奈
京の夏の風物詩、祇園祭が始まりました。ものすごく高い山鉾行事は前夜祭の『宵山』に始まり、本番の『山鉾巡行』へ続きます。
八坂神社の神事 『神輿渡御』『神輿洗』『花傘巡行』と盛り沢山です。
その他にも、宵山、宵々山、宵々々山には
屏風祭の異名がある旧家や老舗伝来の屏風などの宝物の披露も行われます。
風間佳奈となった私は、未来ちゃんとお揃いの牡丹の花柄の浴衣を着て、二人で手を繋ぎながら、屋台のお店を回っています。
「お姉ちゃんっ、金魚すくいだって。未来、金魚ほしいっ。お姉ちゃん採って採って。」
「ええっ、普通の魚採りならできるけど、金魚すくいなんてしたことないわ。」
「お嬢さん、妹さんのためにサービスだ。
ほんとは紙の網ですくうんだが、特別に木の柄杓にしてやるよ。ただし10匹までだよ。それ以上は商売上がったりだ。はははっ。」
「あっ、すくえるわっ。」
「お姉ちゃん、これ、この赤と白のきれいな金魚さんすくってっ。」
「きゃははっ、きゃははっ、金魚さん、いっぱい、いっぱい、採れたねっ。」
「おじさん、ありがとう。妹がとても喜んでいるわ。大切に育てるね。」
「ああ、いいってことよ。京の都に活気が、戻ったのさ。祭りだ、祭りだ、景気よく行かなくっちゃね。」
「まあ、姫様達。金魚すくいを見ているだけかと思ったら、こんなにすくったのですか。
たいへんっ、これでは大きな金魚鉢が入りますわ。どこに売ってるかしら。」
「おい、姉さん。この先を曲がった所に最近できた硝子細工屋があるぜ。そこなら、金魚鉢もあると思うが、硝子の桶の方がいいかも知れんな。」
「ありがとう。お嬢様方、行ってみましょう。金魚を早く移してあげなくちゃ。」
「ああ待って待って。あの飴買ってくっ。」
ああ、私も父上と母上にお土産に何か買って行かなくちゃ。食べるものがいいわね。
父上は、以外と甘党なの。娘にも、格別な甘党なのよねっ。うふふ。
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永禄12(1569)年7月中旬 日向国宮崎郷
松平家康
「家康様、伊東家の軍勢に当主の義祐はおりませぬ。居城の佐土原城に籠もっております。」
「なんじゃ、勝気がないのか。それとも何か企んでおるのか。
予定どおり、水軍に佐土原城を攻めるように伝えよ。我らはこのまま進軍するぞ。」
既に日向南部の櫛間城、肥沃城を落とした
我らは都之城へと迫る。そこで伊東軍2万の軍勢が待ち構えている。
都之城へ攻め掛かる我が軍を背後から挟撃するつもりらしい。
「家康様、肥後の相良義陽が1万の軍勢で、出兵して来ました。」
「やはり来たか。まあ、予定どおりか。」
相良の出兵を予期して、2千の鉄砲隊と騎馬隊1,500が肥後の国堺で待ち構えている。
これで待ち伏せ合戦は、おあいこだ。
あとは、佐土原城の伊東義祐がどう動くかだが、まごまごしていると水軍が襲い掛かるぞっ。
「殿っ、見えました。あれが都之城です。」
都之城は大淀川の突き出す台地にあり、壮大な空堀と水堀で多数の曲輪がある南九州に多い城だ。
また、城の北西に「取添」と呼ばれる外郭がある。
「ここも郭が多いの。砲兵隊は南側から分散して、郭を潰して行け。騎馬隊は城の南を回って西側で待機だ。
本隊は、北側に陣を構える。長距離砲の部隊は、護衛部隊と共に北東に陣を張れ。」
都之城の北側を占拠し、簡易な柵囲いをして陣を構築する。その向きは南の城ではなく北に向いている。
間もなく伊東軍が姿を見せた。鉄砲や弓の射程外に留まり、何やら準備をしている。
はは〜ん、フランキ砲を出して来るつもりか。だが射つ暇があるかな、ほら長距離砲が砲撃を始めたぞ。
フランキ砲が並んだかという時、こちらの長距離砲がフランキ砲の隊列に砲撃を浴びせて、すぐに灰燼に帰してしまった。
フランキ砲があっと言う間に吹き飛ぶと、周囲の伊東軍に砲撃を浴びせ始めた。
たぶん逆の結果だな。ほんとはフランキ砲でこちらの軍勢を蹴散らしたかったはずだ。
ああ、まずいな。これじゃあ、敵が攻めて来ないじゃないか。
案の定、砲撃の嵐を浴びて、伊東の軍勢はバラバラに散って逃亡を始めた。
追撃を諦め、背後の都之城の落城を待つ。
郭が多く手間取ったが、1刻ほどで降伏して来た。城はほとんど、城の体をなしていないが、運良く砲撃を逃れた者達だ。
たぶん、砲撃の恐怖を知り、二度と反逆などするまい。そもそも生涯、恐怖の夢にうなされ続けるのではないか。
報らせが、同時に2件届いた。
相良軍の1万の軍勢は、鉄砲隊の待ち伏せに会い、躊躇しているうちに、本陣を騎馬隊で三方から襲撃され、大将の相良義陽ほか重臣達が多数討ち死にして瓦解したそうだ。
佐土原城を襲撃した水軍の方は、夜明け前から砲撃を始めたせいで、城内から逃げ出す間もなく城を灰燼に帰したそうだ。
伊東義祐も女子供も生き残ってはいないだろうとのこと。
さては、勝之進。伊東義祐が乱取りで捕虜にした日本人を南蛮に奴隷として売ったことを相当恨んでおったから、わざとじゃな。
救い出せた奴隷に、幼い女子がいたのに、涙を流しておったからなあ。
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永禄12(1569)年7月中旬 北九州豊後
風間小太郎
大友家は、代々豊後、筑後の守護大名家で府内(大分市)に、大友館と呼ばれる守護館を本拠にしている。南の上野丘陵に上原館という堀や土塁を備えた防衛拠点があるが、府内への侵攻を受けた際には、府内を捨て近隣の高崎山城などへ拠点を移している。
たぶん今回も、最終目的地は高崎山城になるだろう。
大友宗麟は、文化人で書画、茶道、能、蹴鞠などの諸芸に通じ、古くから中央の文化人を招くなどしていた。
幼時より飛鳥井雅綱を師範とし蹴鞠の伝授を受けており、公家との交流もあった。
天文20(1551)年に豊後へ布教にきたイエズス会のフランシスコザビエルに引見以来、キリスト教に傾倒。領内での布教を保護し、南蛮貿易を行った。
宗麟がキリスト教に傾倒したきっかけは、
南蛮人が持ってきた鉄砲の試し撃ちで暴発し弟の晴英が手に怪我をして、その時に西洋医学による応急処置を見たかららしい。
弘治3(1557)年に府内で日本初の西洋外科手術をポルトガル人医師と、日本人助手に行わせている。当時豊後に流行ったらい病の手術と伝わっている。
加えて宗麟は領内に、西洋医学の診療所を作り、領民は無料で受診させている。
キリスト教には「汝、殺すなかれ」という教えがあるが、宣教師はキリスト教信仰に基づく宗麟の質問に対して、戦の上で殺生は何の問題も無いと答えている。
また、日明貿易や日朝貿易も行ったが、贅沢品程度に留まり、実利は対馬の国人や博多の豪商らに奪われている。
そんな状況の下、有力家臣へ恩賞の領土が不足し、寺社領の没収や領地の代わりに杏葉紋の使用権を与えて代用するなど経済状況は決して良くはなかった。
功罪両面のある大名であるが、幕府が無くなった今、守護大名も無いのである。
戦を止め、帝に領地を返納しない限りは、朝敵として滅ぼす。
「ウチ、さて、どう攻める?」
「小太にい、ぼく考えていたよ。孫子の兵法『人を致して、人に致されず』だよね。
大友宗麟が向かって来るのを待つんじゃなくて、こちらから攻めるんだよね。
だから、府内の宗麟を攻める。水軍で宗麟が逃げ込む高崎山城を、先に滅ぼしちゃう。」
「うん、いいぞう。もう一声かな。」
「あっ、分かった。僕たち本軍は宗麟の軍勢と戦わなくてもいい。府内から引き離せばいいんでしょう?」
「9割正解だぞ。大友勢を引きつけたあと、水軍で高崎山城と府内を攻め、敵勢が動揺したところで、敵勢の本陣を急襲して叩く。
戦を率いる者達を、そのまま生かして置く訳には行かないからね。」
筑後の猫尾城を落としたところで、大友軍5万が迎撃に現れたが、敵が陣を敷いたその日の夜に夜襲と見せ掛けて、さっさと北部へ移動。敵勢を引き離した。
そうしているうちに、水軍が高崎山城を落城させ、府内の大友館と上原館の防御施設に攻め掛かった。
その報せが届いたと見え、大友軍5万のうち2万が府内へ引き返した。
その最中の陣替えの移動の隙をついて、敵本陣に砲撃を浴びせ、混乱したところを騎馬隊で急襲し、本陣を壊滅させた。
その後、俺は騎馬隊だけを率いて、府内に引き返した大友軍を追撃。
移動中の大友軍中央に突撃し、手投げ焙烙玉をばら撒いて撹乱、殲滅した。
この突撃の最中、俺の周りには最強の風魔近衛騎馬隊が付いていたが、乱戦であり近づく敵兵もいた。
そんな敵兵に、俺の前に騎乗している内政君が持たせた2丁の6連発短銃を放ち、俺の振るう薙刀と合せて、100人以上を蹴散らし倒した。
俺の愛馬『疾風』の行くところ、近衛と後に続く騎馬隊で、戦場にまるで大通りが敷かれたようだったと、皆が言っていた。
風魔騎馬隊2千の威力は、伊達じゃない。
あっ、内政君は俺と腰ベルトで結んであるから、手放しで両手が使えたんだよ。
撃つと反動で銃口が上を向くから、足元を狙うようにさせたのが、良かったようだ。
だって、ほとんど100発100中みたいだったよ。内政君、恐るべしっ。
そんなこんなで、第四軍は大友宗麟をくだし、九州での任務を終えた。
伊東家と戦った家康殿の方が、少し早く終えたようだけどね。
あとの領地開発は、公家衆と代官達に任せて、俺と内政君は九州を後にした。




