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風魔忍者に転生して親孝行する。  作者: 風猫(ふーにゃん)
第三章 勅命民衆蜂起編
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第28話 京都移転と宗教撹乱『仏罰の煌き』

永禄10(1566)年9月上旬 京都二条風間館

藤原靖国



 かつての二条御所跡を改築し、風間館として風間家の大殿始めお方様、未来姫様、そのお付きの衆らと共に大挙して移って来た。

 ご家老の新田角兵衛は、伊豆の差配に残られ、某が京都二条風間館の家老とされた。

 京の三条には、今川館があるがあちらは風魔の畿内組。我らは風間本家のお護りと新政の差配の手足となる。


 館の防備については、周囲の水堀を内側に3m広げ6m幅とし、さらに堀に繋がる高さ5mの外側へ反り返った城壁で囲んでいる。

 出入口は、東西南北の跳ね橋だけである。

 また、敷地が狭くなった分は、本丸が5階建てとなり、多数の部屋ができて以前より倍の広さが確保できている。

 もちろんただの城ではない。壁の各所にはどんでん返しがあり、隠し部屋や隠し階段、隠し通路などが非常時の心強い味方となる。


 大殿ご家族、侍女兼護衛のくの一衆の部屋は4階にあり、地下の台所との直通隠し階段や小荷物昇降機ダムウェイターがある。

 直通隠し階段は非常用であり、台所の者達には秘しており、食事の配膳や荷届けなどは昇降機で行う。台所で働く女衆は家臣の家族達だ。

 

 3階は多数の執務室や書院があり、奉行達が配下と共に詰めている。

 2階は大広間と接見室、1階は検問と護衛達の宿泊詰所や武器庫などがある。

 地下は台所の他、食糧庫、蒸気暖房室ボイラーなどが占めている。


 二階から連絡通路で繋がる二の郭は、東西南北の4ヶ所に4階建で、重臣奉行達の居住区が1〜3階100戸、4階が外部階段のある武者郭となっている。地下は食糧庫だ。

 もちろん、敷地内には井戸ポンプが多数あり、高架水槽で住戸や各所に給水され、水洗便所が完備されている。


 ついでに言うと、本丸と二の郭の間は園庭であり、南側は子供達の遊具の公園、東側は梨や葡萄、柿などの果樹の木。北は栗や銀杏の並木。西は野菜畑となっている。



 

 今年の端午の節句に、帝が『戦乱の世を終わらせなければならぬ。民よ立ち上がれ。』との詔を出された。

 そして、今月重陽の節句(9月9日)の日に、二度目の詔が発せられた。


『神仏に仕える者は悔い改めよ。本来、民を救う神仏に仕える者が、五戒を守らぬ畜生と成り果てたるは、世の乱れの元凶である。  

 已の素行を改め、誠の修行に精進せよ。

 また、世の人としての信義を全うせよ。』


『五戒』とは、仏道の修行において為すべき『不殺生戒』『不偸盗戒』『不邪淫戒』

『不妄語戒』『不飲酒戒』の五つの諌めだ。


 殺生、盗み、淫らなこと、嘘を言うこと、飲酒を禁じている。


 例外がある。浄土真宗(一向衆)では阿弥陀如来の慈悲にすがることで、修行をせずともありのままで皆が西方浄土へ行けると説く。しかして、五戒はない。

 また僧侶も信徒であり、一般信徒の一人である。

 だから、詔には(真心をもって約束を守り相手に対するつとめを果たす) 信義を全うせよとの言葉が添えられている。



 先立つこと、5月5日の新政の詔を出されれ前に、風魔の重臣一同が三宅島に集められ帝であらせられる正親町天皇の御前で、前将軍足利義輝様、関白近衛前久様らを交えて、今後の新政の方針の説明があった。

 その際に、大名武家の討伐と新政のおける領地開拓。そして寺社の粛清のことがあり、小太郎様とこのような言葉が交された。


「皆には幾度か話したが、仏は殺生を禁じている。しかしこの国では寺も武力を持ち、人殺しを平気でしている。なぜか、仏の真の教えを僧侶どもが歪めているからだ。

 ゆえに、その僧侶どもを平らげねばならぬ。しかし、神仏を信じる民の心は、武力だけでは変らぬ。

 ならば、どうする。靖国。」


「はぁ、俺ですか。僧侶どもが仏罰でも喰らえば良いのですが、なんとも。· · 。」


「そうだ。帝の手足たる我らで寺社に仏罰を与えるぞ。」


「はあっ、仏罰でございますか。」


「靖国、人の力でなし得ぬ災いはなんだ。」


「ええっ、天地異変でございましょうか。

 地震、噴火、野分、雷雨などかと。」


「うん、さすが靖国。風魔一の知恵者だ。

 今回、お前達には雷神になってもらう。」

 

「ふむ、小太郎。面白そうじゃ儂も手伝うぞ。」


「義輝様は高い所が苦手ではありませぬか。今回は銀次郎の遠目と風魔の手練にお任せください。」




 そんなやり取りがあって、俺は今、夜陰に乗じて比叡山に配下と共に忍び込んでいる。

 銀次郎殿の遠目によれば、明日の日中は雷雨になるとのこと。絶好の雷神日和だとか。

 配下の者達を、根本中堂と大講堂の屋根に忍ばせ、屋根の尾根にあたる大棟に銅線を這わせ、ケラバ(屋根端の出っ張りの裏側)に延ばし火薬と繋いでおく。雷が落ちれば、銅線を伝い発火するのだ。


同様のことは、越中や長島の一向衆の寺々で行なっている。銀次郎殿が居られぬことで日数は掛かるがな。




✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣



永禄10(1566)年9月上旬 比叡山延暦寺

修行僧 覚仁



 比叡山延暦寺の座主は、天文19(1550)年に尊鎮法親王が亡くなった後、空席が続いていた青蓮院門跡を、弘治元(1555)年伏見宮邦輔親王の第6子の尊朝法親王がわずか4歳で継承するが、門跡の職務を行い得るはずもなかった。

 天台座主は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職だ。

 ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。そのため、比叡山の僧坊ごとに勝手な行動も致しなかったのである。

 ましてやこの年15歳の座主など手練手管に長けた坊主共にとって飾りにしか過ぎず、比叡山の風紀の乱れを糾す者など存在していなかったのである。

 また、そんな機会を突いて、青蓮院傘下の浄土真宗本願寺顕如は朝廷に働きかけ、永禄2(1559)年に本願寺の門跡昇格を果たした。



 そんな『五戒』を破る僧侶達の中にあって我が僧坊の厳正和尚様は、争うこともできず僧坊の者に仏の教えを説くだけであった。

 

「和尚様、我らはこのままでよろしいのでありましょうか。帝が世を改めるために民達に立ち上がるよう、お命じになりました。

 そして、我ら僧侶にも五戒を守り、正道に立ち返るようにと詔を出されました。」


「覚仁よ、この叡山には数多の先人の方々が遺してくれた経典がある。一度お山を出れば二度とは手にできぬものじゃ。

 その全ての写経を終えるまで耐えねばならぬ。儂が往生してもお前達が継いでな。」


「しかし、しかし、それで、民のために何ができましょうか。」


「覚仁、焦るでない。仏は見ておられる。

この世をな。そして、我ら以外にもこの世を救う者らがいるはずじゃ。我らは我らの為すべきことを為す。」



 それは帝の詔が出されて、叡山の僧侶達の間でも喧騒が続いた数日後の嵐の夜のことだった。吹きすさぶ強風に、灯明も燭台の火も消え、真っ暗闇の中に雷鳴が轟き、嵐が治まるのを待って経を諳んじていた。


『ゴロゴロゴロ、ピカッ、ドッガーンッ。』

 突然、今までになく大きな音が響き渡り、次いで『大講堂に雷が落ちたぞぉ。』という声があちこちから聞こえ始めた。

 そして、僧坊から出ると大講堂の屋根から火の手が上がり、強風のためか豪雨にも関わらず瞬く間に大炎上となって行った。

 俺も大講堂に駆けつけたが、数人の僧侶達が火傷を負いながらも、わずかな物品を運び出し、炎から逃れた後だった。

 翌朝、嵐が去ったが大講堂は跡かたもなく燃え尽きていた。この時は誰もそれが天罰だとは思わなかったのだが。


 その日、殆どの者が朝まで大講堂の炎上をただ眺めることしかできずに朝を迎えていた。だから、日中は耐えたが夕刻になると睡魔に襲われ、俺もお勤めを切り上げて就寝をした。

 ぐっすりと眠りについたはずだが、夢を見た。夢の中で弥勒菩薩様のお告げを聞いた。

 声だけなのだがなぜか弥勒菩薩と思った。 

 そして『すぐに持てるだけの経典を持ち、山を降りなさい。』そう告げられた。

 朝目覚めると、夢を思い返し意を決して和尚様の部屋へ向かった。


「和尚様、昨夜夢で弥勒菩薩様のお告げを授かりました。」


「なんじゃと、お前もかっ。どういうお告げじゃった、言うてみい。」


「はい、経典を持って山を降りよと。」


 それを聞くと厳正和尚様は、皆を集めるように言われた。この僧坊にいるのは我ら以外に6人の修行僧がいる。皆を集めると和尚様が言われた。


「皆、目を閉じよ。昨夜、夢を見た者はおるか。おれば手を上げよ。」


 すると全員が手を上げた。


「覚法、儂の耳元で見た夢を話せ。」


 和尚様は一人ずつ呼ばれて、耳元で聞かれた。そして、皆から聞き終わると言われた。


「皆、よく聞くがよい。我らは弥勒菩薩様のお告げを聞いた。全員同じお告げじゃ。

 お告げに従い、我らはお山を降りる。この僧坊にある経典全てを持ってな。

 よいか、用意ができ次第じゃ。急ぎ用意せよ。」


 この日、お山を降りた僧侶は我らを含めて

60名余りであったという。皆、知已のある末寺へと散って行った。




✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣



永禄10(1566)年9月中旬 京都二条風間館

藤原靖国



 京の都では、比叡山に落ちた雷は天罰であるとの噂が巷に流れている。俺達が流した。

 しかも、越中や長島の一向衆の寺々でも、本堂に落雷が落ちて、噂は単なる噂ではなくなりつつあった。

 天台座主の尊朝法親王もこの事態に、内裏の関白殿下を訪れ相談なされた。


「関白殿下、先の帝の詔。叡山は如何にすればよいのでありましょうか。仏道の正道に立ち返り『五戒』を守るよう布告しようとしても、既に数多の僧侶が禁を破っており、叡山の僧を全て破門するのかと反対されておるのです。」


「尊朝殿、布告を出しなされ。このままでは御身も同罪ですぞ。叡山共々滅ぶおつもりか。」


「しかし、布告を出すにも叡山の者達は言うことを聞きませぬ。布告そのものができぬのです。それに僧兵達が強訴に及べば、我が身も危ういのです。」


「それは、我らが助けましょう。尊朝殿は布告1枚書きなされ。叡山の周囲には高札を掲げましょうぞ。

 僧兵どもからは、帝の軍勢がお護りするので心配は無用におじゃる。」



 そうして、3日後天台座主の告示が叡山に出され、周辺の各地に高札が掲げられた。


『天台座主の命を下す。伝教大師の教えに背き、五戒を守らぬ僧を破門とす。すみやかに叡山から立去れ。』


 この事態に叡山は混乱したが、天台座主に告示を取下げさせるべく、強訴を行うことで衆議一決した。

 だが、その日晴天にも関わらず俄に暗雲が立ち込めて来たかと思うと、天地を引き裂く雷鳴が轟き、山頂にある根本中堂に雷が落ちた。

 落雷と同時に根本中堂は炎上。強訴に及ぼうとしていた僧兵達から悲鳴が上がった。

 だがそれは、ほんの始まりに過ぎなかった。落雷は次々と根本中堂ばかりか、山王二十一社、零社、僧坊にも及びやがて僧兵達の中にも落ちて、阿鼻叫喚の中を逃げ出す者達で大混乱となった。

 落雷は僧兵に落ちたのではない。僧兵の持つ鉄な槍に落ちたのである。

 


 こうして、叡山は焼け落ちて無人の山と化したのである。





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