柴戌の大将
クリスマスも終わり、人々が年末の準備で忙しく動き回る時。人通りのほとんどない暗い路地で一匹の柴犬が倒れていました。
犬はかなり薄汚れていて、今では珍しい野良犬のようです。けれどその犬はとても幸せそうな死に顔でした。
そんな犬の死体を見下ろす存在がいました。路地で死んだ柴犬の魂です。
(さようなら僕の肉体)
柴犬は、自分の体に別れを告げて、高く高く雲を超え空を超えると、やがて一つの入り口を見つけて迷わずそこに入りました。
☆☆☆☆
柴犬が、下界を抜けて来たところは上下左右を星空が埋め尽くす天界です。
そこで柴犬は師匠に教えてもらったある建物を探します。
柴犬の師匠は小さい頃に自分を助けて育ててくれた白い柴犬でした。
師匠は今際の際に柴犬にこう言いました。
「儂は実は干支を務めていてな。この度女神様にその功績を認められて、極楽浄土に行けることになったのじゃ。しかし、儂がいなくなると、干支が一つ空いてしまう。その為に代わりのものを探していたのじゃが、やっと見つける事ができた。それがお前なのじゃ!」
最初柴犬は動揺しました。いきなり何を言ってるんだこの老犬はと思いましたが、いろいろな話を聞いているうちに、師匠の言葉を信じるようになりました。
「分かりました師匠。僕でよければ師匠の後を継いで、立派な干支になってみせます」
「おお、そうかそうか。ありがとう。これで心置きなく極楽浄土に行けるわい」
そしてついに待ちに待った自分の寿命が来たので、柴犬は意気揚々と天国の階段を登って行ったのです。
そんな事を思い出しながら探していると、目的の場所が柴犬のつぶらな瞳に映りました。
柴犬の目的地はとてもオンボロなアパートで、しかも動いています何故でしょう。
理由は簡単。とても大きな龍の背中にそのアパートは乗っているからです。
(本物の龍だ!)
犬でさえ知る伝説上の生き物である龍の大きさはどれくらいでしょうか。柴犬が生きている時に見た事のある空に伸びる骨だらけの赤い塔よりも、大きく見えました。
柴犬は懸命に四本足を動かして、その龍を追いかけ必死に話しかけます。
「そこの龍さん待ってください!」
柴犬の声が聞こえたのでしょう。龍は動きを止めました。
「ん?我を呼び止めたのは誰だ?」
どうやら龍は自分より小さすぎる柴犬の姿が見つけられないそうです。
柴犬は自分の姿を見てもらう為に、龍の長くて立派なおひげを甘噛みします。
「うむ? ヒゲが痒いのう……おっ、そんな所にあったのか。これは気づかなくてすまなんだ」
「すいません。龍さん。僕は干支になる為に干支荘に向かっていたのですが、貴方の背中にある建物で合っていますか?」
「おお、新しい戌年の干支が来ると聞いていたが君のことか。よく来たね。その通り。干支荘は私の背中にある。このまま身体を登って行きなさい。先に君が来た事を我が伝えておこう」
「龍さん。ありがとうございます」
身体が大きくて、大きな口を持つ龍に丁寧にお礼をしてから、柴犬は龍の背中を歩いて干支荘に向かいました。
(うわっボロいな。けど、僕が住んでたところよりはマシかな)
寮に近づくと、三回の建物で、一階に四部屋ずつ計十二部屋あり、ひとつの部屋が真っ暗な以外は全て明るい光が窓から漏れていました。
玄関に近づくと、一匹の鶏が外れかけた扉を持って何やら悩んでいます。
柴犬は鶏に話しかけます。
「ワンワンワン」
(すいません)
「…………」
酉は持っている扉に集中しているのか、反応してくれません。しょうがないので柴犬は聞いてくれるまで何度も呼びかけます。
「ワン、ワンワン。ワンワンワンワン。ワオ〜〜ン!」
(あの、すいません。鶏さんすいません。すいませ〜ん!)
「コケー!」
「うわっ」
突然鶏が甲高く鳴いたので、柴犬はびっくり、前足で耳を抑えてしまいました。
「あんた。キャンキャン吠えてるだけじゃ、何言いてえのか分からねえよ。共通語で喋ってくれないか」
そう言われて、柴犬は自分がずっと犬語で喋って、いえ吠えていたことに気づきました。これでは同じ犬にしか通じません。
柴犬は改めて共通語で鶏に話しかけます。
「すいません鶏さん。僕は柴犬です。師匠に干支になるように言われてここに来ました」
「師匠? それって極楽浄土に行った干支の戌の事か? 真っ白の毛の」
「はい。師匠は真っ白な毛並みの犬でした」
「そうか。お前が新しい干支の戌か。すまなかったな。大声出しちまって。俺は酉だ。宜しくな」
酉と名乗った鶏は羽を手のように伸ばして来たので、柴犬も前足を伸ばして握手をしました。
「よろしくお願いします。酉さん。僕は柴犬の……」
「名前なんかいいだろ。お前は今日から戌なんだからな」
酉に言われると、何の疑問も湧かずに納得してしまいます。
「そうでした。僕は戌でした。よろしくお願いします」
「よし、じゃあ色々と教えてやるよ。お前が俺の後を引き継いで来年の干支になるんだからな」
「はい。ところで酉さんは、今年の干支なのにここにいていいのですか?」
酉の後を歩きながら柴犬は話しかけます。
「ああ、今の時期は暇だからな。と言っても、この後年末年始に向けて凄い忙しくなるんだ。嵐の前の静けさというやつだな」
「そうなんですか……わっ!」
柴犬は慌てて角の向こうから現れた自分より大きい四本足の生き物の突撃を避けました。
「午。危ねえぞ!」
「すまんヒヒ〜ン」
いつの間にか飛び上がって避けていた酉の罵声に午はそう言い残していなくなってしまいました。
「全くあの午は元気なのはいいが、一日中寮を走り回ってるんだ。おかげで廊下がボコボコだよ。あいつ寝てても走ってるんだぜ」
「ね、寝ながらですか!」
「そうだ。ついでにここの住人を紹介しておくよ」と酉は柴犬を案内します
そこに住んでいる干支たちは皆個性的です。子はひとつの部屋に数十匹の兄弟で住んでいて、人見知りの牛と情熱的な寅は同じ部屋でイチャイチャしていて暖房いらず。
「あの二人が羨ましいのか」
「そうですね。ちょっとだけ。僕には恋人いませんでしたから」
「あんまあの二人を見習うなよ。見せられてる方は胸がムカムカしてくる」
更に進むと、ひとつの部屋を辰と巳が部屋を囲み、その中心を卯が陣取り三人で酒を飲み交わしています。
何かを話しているので、聞き耳をたてると、辰が自分の父の自慢話をしていて、巳は黙って相槌を、卯は小さな身体をめいいっぱい動かして聞いていました。
他の部屋では、羊が自分の干支が来るのを「一匹二匹」と数え、その背中に申が乗ってニコニコしながら毛繕いをしています。
「おい酉」
柴犬と酉が廊下を歩いていると、突然強面の亥が話しかけて来ました。
「午の野郎見なかったか? そいつは新入りか?」
「そうだ。こいつは新しい干支の戌。それで午は廊下走ってたぞ」
酉が指差した方に亥は走り出します。その姿は猪突猛進という言葉がぴったりです。
「ありがとうよ。それと宜しくな新入り」
「よろしくお願いしま〜す」
去り際の勢いの強さと突然の挨拶に柴犬は半ば驚きながらも何とか返事ができました。
さて自分の部屋についた柴犬は酉から干支としての役目を聞かされます。
「つまり僕の干支としての役目は、下界のみんなの願いを聞く事なんですね」
「そうだ。それが一年の大将の役目ということさ。まあ、最初は大変だが、慣れてくれば楽なもんさ。気楽に頑張れよ」
「はい。ありがとうございます」
それから、しばらくは酉や他の干支からいろいろな話を聞いて時間が過ぎて行きました。いつの間にか柴犬は新入りなのに皆の問題を解決するリーダー役になっていました。
☆☆☆☆
そして下界では大晦日の夜。後十五分もすれば新年です。柴犬は下界に続く門の前にいました。
そこで待っていたのは猫とイタチです。
「初めまして戌様。私は猫。後十三分三十秒で新年です急いでこちらへ」
この猫はとても時間に厳しい方のようです。柴犬の背中をグイグイと押して急かします。
「早くしてください戌様。後十二分四十二秒で新年ですよ……ホント干支たちはルーズでいいですよね」
「何か言いましたか? 猫さん?」
「何にも言っておりません! 早くあの門へ」
猫に押されながら門に向かうとそこには一匹のイタチが待っていました。
「こんちは。旦那が新しい干支の方ですかい」
「はい。僕が干支の戌です」
「あっしはイタチ。干支の方を元旦の日に下界に下ろすのが役目でさあ。さあ、あっしについて来てください。はぐれちゃダメですよ」
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、行ってこい」
酉と他の干支たちに見送られながら、戌は久々の下界に降りて行きました。
☆☆☆☆
二〇十八年。元旦の日本では沢山の人達が初詣に各地の神社に来ています。
ある人はお御籤を、ある人は絵馬を書き、賽銭箱の前では沢山の人がお金を投げて神様に願いを告げていきます。
その賽銭箱を挟んで、一匹の柴犬が大きなあくびをしているではありませんか。
その犬は身体が透けていて、誰も、神主さえも気づいていません。それもそのはず、その柴犬は今年の干支の戌なのですから。
戌はとても退屈です。何故なら願い事を言ってくるのが人間ばかりだからです。
例えば、『お金持ちになりたい』という願いがあっても、戌はもともとお金を使わないので、無くても生きていけるでしょと結論を出します。
ある人は『恋人が欲しい』という願いでしたが、その人の好きな人を見て見ますが、戌からすれば人間はどれも同じように見えてしまい、頑張ってた応援して終わりです。
やはり元が犬なので、どうしても犬目線で考えてしまいます。これでは願いもなかなか聞き届けられません。
「ん?」
参拝客の願いを聞いてるうちに、ある泣き声が聞こえてきました。
戌は自分の分身をそこに置いて泣き声の元へ向かいます。そこには小さな女の子がうずくまって泣いているではないですか。
女の子は延々と泣いていて、周りの人間たちは困り果てたり、見て見ぬ振りをしていますが、戌は心の声を聞き逃しません。
(パパ〜ママ〜どこ行ったの〜)
どうやら迷子のようです。それを見つけた戌のやる事はひとつ。女の子を両親の元へ送り届ける事です。
何故なら戌は今年一年下界の人々の幸せのために活動するのが使命なのですから。
「お嬢さん」
「ふえっ?」
声をかけられた女の子は泣くのをやめました。それもそのはず、話しかけてきたのが柴犬だったのですから。
「お嬢さんは迷子なのかな?」
「うん。パパとママとはぐれちゃったの」
両親がいないことを思い出したのか、女の子の両目に涙がたまります。
「ああ、泣かないで。僕が君を両親の元に連れて行ってあげるよ」
「ホント! ワンちゃんがパパとママの所に連れてってくれるの?」
「うん。ほら泣かないで、ついておいで」
「うん!」
フラフラと揺れる尻尾の後を女の子は嬉しそうについて行きます。
そして暫くしてから……。
「パパ、ママ〜!」
女の子は無事両親と再会することができました。
「あの、ワンちゃんが助けてくれたんだ」
女の子が戌がいたところを指差すのですが、両親には勿論見えず、女の子の前からも消えてしまいました。
「あれ、ワンちゃんいなくなっちゃった」
(良かった良かった。もう迷子になるなよ)
両親と無事再会できた女の子の姿を、お空の上から安堵の表情で見守る柴戌の大将なのでした。
完
最後まで読んでいただきありがとうございます!
もしかしたら、干支の動物たちはこんな風に近くで見守っているかもしれない。そんなことを考えながら描きました。
楽しんでいただけたら幸いです。