クビになっていいんです
かの著名な外交官、杉原千畝氏が早稲田に関わっていたとは嬉しい限りでありました。てっきり、外交官は東大出あると思っていたから、なおのことでありました。
確か、リトアニアあたりで臨時公使か何かをしていたはずです。そんなことネットで調べればすぐにわかるのですが、記憶だけでものを書くのも一興だと思って話を進めていきます。
その後、杉原さん一家は、収容所で、戦争が終わるまで抑留されます。そして、帰国するのが戦後しばらく経ってからです。占領下での人員整理のため、外交官の多くが職を去ることになりました。つまり、外務省は杉原さんはその人員整理で外務省をやめたのであって、リトアニアでの本省の指示に従わなかった行為に対しての懲戒ではないと述べるのです。
いうまでもなく、本省の指示に従わない行為とは、ナチスドイツ支配下でのユダヤ人に与えたビザのことです。
しかし、その一件が為に「依願退職」という形で、外務省をクビになったことは確かなようです。一国の外交官が本省の指示に従わなかったのだから、それは当然の処置で、外務省を責めることはできません。組織にあればそれは当然のことなのです。
きっと、杉原さんもそれは承知していたことだと思います。
そのこと以上に、関心を持つのは、命令に違反してでも、手書きでビザを発行したその心意気の高さです。
己の出世をも顧みず、家族の生活も犠牲にして、見も知らぬ外国人の命を思うその心意気です。
その後の収容所での生活、そして、帰国して外務省をクビになり、母国日本での生活も決して楽ではなかったでしょう。何度となく、自分の行った行為に対して、自問自答を繰り返したのではないかと推測するのです。そして同時に、信念を持った行為に対して、誇りを持った方ではないかとも推測するのです
こんな和歌があります。
国のため ひとよつらぬき 尽くしたる きみまた去りぬ さびしと思ふ
国家のため、尽くしたあなたがこの世を去ったことを寂しく思うという歌です。これを詠まれたのは、実は、昭和天皇なのです。つまりは御製ということになります。
さて、ここで「きみ」と呼ばれているのでは一体誰なのでしょうか。昭和天皇のお側にお仕えした高貴な方なのでしょうか。
実は、この方は出光佐三さんという方です。お名前から推測ができると思いますが、出光興産の創業者です。
彼もまた「信念」に基づいて生きた方です。
1951年、イランが自国で産出する石油の国有化を宣言しました。
国益優先をするイギリスはこれに反発し、海軍艦艇を海域に派遣、イランに近づくタンカーは撃沈すると表明しました。
1951年といえば、昭和26年です。日本がサンフランシスコ講和条約を締結した年です。この記事を見て思うことは、今と違ってまだ、イギリスが強かったということです。そして、強硬な国であったということです。
この時のイギリスの表明は、イランばかりではなく、取引のある他の国にも威圧的なものとなったようです。とりわけ、戦争に負けた日本にとっては如何ともしがたい状況に置かれることになります。何せ、国家復興のための石油が入ってこなくなるのです。それでは、日本はダメになってしまいます。なんとしても、イランから石油を買い入れなくてはなりません。
その大仕事に手を挙げたのは、当時まだ大手企業とは言えない出光興産でした。出光興産、いや出光佐三は、強大なイギリスとそれに従う国際石油メジャーに戦いを挑んだのです。
事を成すには、用意周到なる準備と一命をかけた覚悟が必要です。
まず、日本政府に迷惑をかけないように法的段取りをとりました。あくまでも、一企業がすることで日本政府には関係のないこととしたのです。
次に、東京に置かれている連合国最高司令官総司令部が発する船舶通行に罰則規定のないことを確認しました。つまり、民間の船舶がどこへ行こうと何をしようと勝手であることを確認したのです。
そして最後に、イラン政府には、安心して石油を売ってくれるよう交渉をおこなったのです。イラン政府も、この時、まだ名も知られていない日本の会社からの要請に耳を疑ったはずですが、その心意気の素晴らしさに心を動かしたはずです。
出光佐三は、法の抜け道を利用して、輸出入に必要な書類を作成し、かつ、国際情勢及び国際世論が、あまりに強硬なイギリスになびいていないことを確認の上、1953年3月23日、ついに出光興産の「日章丸」を神戸から出航させました。
4月15日、石油を満載した日章丸は、イランのアーバーダン港から日本に向かいました。
イギリスが敷設した機雷海域を見事に突破し、イギリス海軍の包囲網をかいくぐり、5月9日、川崎港に到着したのです。
当然、イギリス海軍は面目を潰され、イギリス政府は強く反発しました。その結果、イギリスは、出光興産を提訴したのです。
しかし、思わぬところから反発の声が上がりました。
アメリカがその提訴に同調しなかったのです。これは大きい出来事でした。世の中が、イギリスからアメリカへとその主流を変えたことを示した事案でもありました。
それを受けて、国際世論は、無謀なイギリスにひと泡食わせた出光興産に快哉を叫びました。イギリスはかつてマレー沖で日本海軍航空部隊の攻撃を受けて、二隻の戦艦を撃沈させれられましたが、その時と同じようなショックを受けたに違いありません。
日頃、日本に厳しい論調を繰り出すマスコミも、武装さえもしない一船舶が天下のイギリス海軍に喧嘩を売った事件を面白おかしくに報道しました。
世論の有り様に抗しきれないと悟ったイギリスは、ついに提訴を取り下げ、出光佐三の取り組みは、イギリス資本の独占から、石油の自由貿易への端緒を開くことになっていったのです。もしかしたら、失敗するかもしれない。すべての財産を捨てることになるかもしれない。そういう状況の中で、日本に石油を持ってこなくてはいけないという出光佐三の信念がまさったのです。
新しい自由世界の誕生です。
それにしても、大胆な人物がいるものです。
今の日本の教育は素晴らしいものですが、こうしたイレギュラーな行動をした人物を取り上げることをはばかっているきらいがあります。
日本人は、自分だけを守るためのせせこましい生き方をするのではなく、自分が犠牲になっても、信念に基づいて正しいと思うことを実行できる人間、であるべきです。
名もなき日本人にもそういう人がいることを期せずして知ることになりました。
東北から関東までの一帯を襲ったあの大震災の折のことです。
人々はガソリンスタンドに並びました。車のガソリンを満たすためにです。しかし、ガソリンは不足し、一人当たり10リットルしか売ってくれません。それでも、人々は並んだのです。
ガソリンばかりではありません。3月とはいえ、あの日、関東でも雪が舞うほどの寒さです。電気も水も止まり、灯油も底をついた家が続出しました。
そんな時、とあるホームセンターの店員が、寒い中、凍えるよりはと、灯油を各人に10リットルを「無償」で配ったのです。一家に10リットルの灯油がどれだけ不安な夜を解消したか、震災に遭った身にはよくわかることです。
この一店員の言葉がテレビで報道されました。そして、誰もが賞賛したのです。
「クビになってもいいんです……」
きっと、上司の判断もなく、この店員はそうしたのでしょう。それは己の名誉心を満足させるためではなく、あの震災の中で、まだ揺れが収まらない不安の中で、少しでも人々の心を温かくさせたいという人間的な気持ちがそうさせたものと思うのです。
この危機の中で、何が大切か、一人間として何をなすべきかを、この店員は考えたはずです。
今なら、値段を高くして売れる、そうすれば上司は喜ぶに違いないとは考えずに、日頃の自分の仕事がいかに社会生活に貢献をしているか、それがゆえに、何をなすべきかを知ることができた店員なのです。
おそらく、そう決断し、実行に移すまでには葛藤があったはずです。それに打ち勝ってなした行為に感動するのです。
クビになってもしなくてはいけないこと、クビを覚悟でしなくてはいけないことが、世の中にはあるのだということを痛感するしだいです。
了