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そのさん

これも某所のやつ

 視界が一瞬にして燃え盛る炎に塗り潰された。

 そして世界から、全ての色を奪い去っていった。


 さっきまで共に闘っていた仲間たちはみな力尽き、地に屍を晒している。

 私の視界の中で動くものと言えば、ニワトリともダチョウともつかぬ禍々しい容姿をもつ巨大なモンスターの姿だけだ。

 その〈一なる監獄のヴァンデミエ〉は頭と胴体にそれぞれひとつだけ持つ目で私たちを見下ろし、まるであざ笑うかのように巨体を小刻みに揺らす。


 地に倒れた仲間たちの姿が、ひとつ、またひとつと弱々しい光に包まれながら消えていく。そして私の視界もモノクロの光のベールに覆われて、ブラックアウトする。

 負けた。私たちは負けたのだ。


 でもこれは日常の風景。今まで何度も何度も重ねてきた、ただのありきたりなひとつの敗北の風景だ。


 〈エルダー・テイル〉の〈大規模戦闘〉というのは、そもそも簡単に勝てるようには出来ていない。仲間を集めて、モンスターやギミックのパターンを調べ抜いて、何度も訓練を重ねて。それだけの準備をしても勝率が三割にも届かない。それが〈エルダー・テイル〉のレイドというものだ。

 ましてや今回のこれは事前情報が一つもない状態でのファーストアタックだ。勝てる方がおかしい。初見殺しのいやらしい罠を予測と勘で回避し続けて、HP残り5%まで漕ぎ着けたのだ。むしろこれは限りなく勝ったに等しいのではないだろうか。いや勝ちだろうこれは。


「っていうかさあクシ。とりあえずそろそろ戻ってきてくれない?」

「ぐぬ、いや戻るもなにも私は普通だし……」


 そんな風に想いにふけっていた私の肩を誰かがつつく。

 振り向くと、呆れ顔のヤエが私をジト目で睨んでいた。 


 今日は日曜日。大学の講義も他の予定もなかったらしいヤエは、なぜか昼前に私の住むアパートへやってきて、私の横で自前の大きなノートPCを広げている。

 まあ、ヤエは今回のレイドチームのメインタンクをしているわけで、すぐ横で意思の疎通を図れるっていうのは便利だったりはする。しかし、最近ヤエの私物が広くもない私の部屋のスペースをどんどん占拠しはじめているのはどうかと思う。


「えー、普通なわけないじゃん。高校ジャージで椅子の上で胡坐かいたままもう数分くらい無言のまま、しかめっ面したりにやけ顔したりしてるし?」

「いやまて、そんな変な顔とかしてないから! っていうかボイスチャット繋げたまま人のプライベートさらっと喋るな!」


 というか今はこの状況の方が大問題だ。一部テキストチャットに拘るプレイヤーも残っていなくはないけれど、もう数年前から〈エルダー・テイル〉ではレイドに限らずパーティーを組んでいれば音声チャットで意思疎通を図るというのが普通だ。それが何を意味するかというと、今レイドパーティーを組んでいるギルドの仲間二十四人すべてにヤエのとの会話がそのまま聞こえてしまっているということなのだ。


「お、姉御の再起動完了したっすか」

「まあ櫛八玉の死後硬直三分はいつものことだからな。今更驚かんさ」

「ジャージ。それもまた一興」


 しかしそんなヤエとの会話が何かのきっかけにはなったらしい。

 今まで静かだったチャットにメンバーたちの会話が戻ってくる。まあその内容は一部アレだったりはするのだけれど。


「よもやの初見撃破かと思ったが、さすがに最後のアレは見抜けなかったなあ」

「でも残りHP的にあれラストギミックっすよね。惜しかったっすよねえ。うわーっ超悔しい!」

「しかしこれはギルド年間ベストバウト上位ランクインは固いんじゃないかと全俺会議内でも話題沸騰中ですよ!」

「っていうかこれ、もう一回でいけそうじゃね?」

「後続チームの三佐さんからも割り込みリトライOK出てるっすよ。行っちゃいます?」


 そもそも私たちのチームは、レイドのギミックを暴き出す為の先遣部隊だ。後続には私たちの得た情報を受けて他のギルドよりも早いクリアを目指す本命チームが複数控えている。本当だったらその後続チームにすぐにバトンタッチするところなのだが、私たちが思ったよりも健闘したこともあって、連続で再戦というのもアリと、山ちゃんかクラスティ君あたりが判断したのかもしれない。


「ごめん、私この後バイトなんだよね。そろそろ出る準備しないとだからもう一回は無理かなあ」


 しかし、レイドというのは複数のプレイヤーの時間を少なからず拘束してしまう遊びだ。許可が出たとしても、出番待ちをしている他のプレイヤーをこれ以上待たせるのは忍びない。それにバイトに出なくてはならない時間までもあと少し。勤労大学生はゲームばかりしていると干上がってしまうのだ。


「あーじゃあ仕方ないっすか。でもこれじゃクシさんはまたノンクレジットっすねえ」

「それはいいよ、私はそっちには拘ってないし。それより〈ハウリング〉とか〈茶会〉に持ってかれるほうが嫌だしさ」

「そうっすねえ。特に〈茶会〉が取ると妙に掲示板とか荒れるんすよねえ」


 クレジットというのは、ゲーム内での称号のようなものだ。

 サーバー内で一番最初に〈大規模戦闘〉を一番最初にクリアしたチームメンバーの情報は、そのギルド名と共にゲームデータとして保存され、大々的にインフォメーションされる。このレイド初回撃破に自分の名前が刻まれるということは〈エルダー・テイル〉のプレイヤーにとっては一番わかりやすい上級者の証。特にレイドに参加するプレイヤーにとっては特別なステータスなのだ。

 まあ私はいつも検証が進んでないレイドにまっさきに挑んで全滅する役ばっかりをやらされているせいで、このクレジットというやつにはとんと縁がないのだけれど。


「ってなわけで、動画担当は検証班にファイル送信。あとのメンバーは掲示板の方に気付いたこと書きこんどいて。んでもって解散、おつかれさまー!」

「了解。状況終了」

「おつかれー」


 みんなの解散の挨拶を聞きながら、私は椅子に座ったまま大きく伸びをする。

 こうやって定期的にレイドに挑戦することはもう生活の一部になってしまっているし、ゲーム仲間とのささいな会話は楽しい。とはいえ、数時間もパソコンの前に座りっぱなしでは身体の節々が錆びついてしまう。名残惜しくはあっても、このくらいで引き上げるのが丁度いいのだろう。


「っていうかバイトっすか。クシさんってなんのバイトしてるんです?」

「クシのバイト? えっとねー、飲食店みたいな?」

「おお、飲食店! ファミレスとかの制服は萌えっすよね!」

「最近は居酒屋チェーンとかも可愛いのあるよなあ」

「俺会議内の要望としては圧倒的票差でアンミラきぼんぬ!!」

「メイド喫茶MAJIDE!?」

「いやちょっとまてヤエ、また勝手に個人情報晒しやがって! っていうか勝手にひとで変な妄想するなお前らぁ!」


 もう少し友人は選んだほうがよかったのかもしれないと、ときどき思ってはしまったりするのだけれど。





「なんていうか、みんなのドリームぜーんぶ裏切る格好だよねえ、それって」

「うるさい。私はここに働きに来てるんだ。服装なんて機能性優先だろ。ジーンズにTシャツのなにが悪い」

「女子力皆無」

「ぐぬ」

「上下うにくろなのバレバレ」

「ぐぬぬ」


 就業時間五分前に店に入り、私の仕事着であるマグロのアップリケのついたエプロンをかけて厨房へ出ると、目の前のカウンターにはヤエが座っていた。というか、このヤエはアパートを出たあと、なぜか一緒に私のバイト先であるこの店までついてきてしまったのだ。

 他のお客様といえば奥のテーブル席に数人。近所のキャバクラのオーナーである愛子さんをはじめとして見知った顔ばかりだ。いつもとちがって小奇麗なポロシャツを着ているあたり、愛子さんは日曜日恒例のゴルフコンペの帰りなのだろう。


 ここは都内の某歓楽街の一角にある小さなお店、大衆割烹「梟の(ふくろうのねぐら)」。

 割烹なんて名前はついているけれど、実際のところはちょっと料理とお酒にこだわりのある居酒屋といった態の店で、二年ほど前から週に数回通う私のアルバイト先だ。


「崎本さーん、えっとねーとりあえずイワシのガリ巻き。それからお酒は〈夜明け前〉をおねがいしまーす」

「わかった」


 どうにも納得がいかず唸る私を尻目に、ヤエはメニューも見ずに注文を口にする。崎本さんもそれが当然のように答えを返して手を動かし始める。


「っていうかヤエ。なんで妙に慣れてる感じなんだ?」

「えーだって、雰囲気ちょっとレトロで好みだし、崎本さんの料理おいしいんだもん」

「あら、ヤエちゃんはここのところよく通ってくれる常連さんよ?」

「あ、女将さん、こんばんわー」

「マジか。いつのまに……」


 ヤエの声に奥から出てきたのは和服姿のお姉さま(と言わないと機嫌が悪くなる)、この店の女将さん。お姉さまは言いすぎとしても年齢不詳で妙に所作に色気のある私の美人な雇い主様だ。


「ほらほら、ぼうっとしてないでお通しとお酒、出してちょうだい?」

「しっかりお願いねえ、クシじゃなかったユカちゃん?」

「りょ、了解……」


 女将さんはともかくヤエにそんなことを言われるのはものすごく癪に障るのだけれど、悲しいことに今の私は給金の奴隷だ。ちょっとばかり客の性格が悪かったとしても、よほどのことでなければ逆らうことはできない。

 私はとぼとぼと厨房を出て、妙に勝ち誇った表情でふんぞるヤエに料理とお酒を配膳する。

 そして再び厨房に戻ると、今度は崎本さんが眉間にしわをよせて腕を組んで直立したまま硬直していた。


「あ、そうそう。ユカちゃんが来たら意見を聞きたいと思ってたのよねえ。これ、どうにかならないかしら?」


 彫像のように固まったまま動かない崎本さんのかわりに私に答えてくれたのは、おなじく困り顔で腕を腰にあて首をかしげている女将さんだ。その二人の視線はカウンターの上の平たい竹かごにそそがれている。その竹かごに乗っているのは細い茎の先にギザギザとした葉が分かれて生える野菜。たぶん野菜だ。


「えっと、これがどうしたんです?」

「愛子さんの差し入れなのよ。そうなんだけどねえ……」

「パクチーよ! ユカちゃんなら知ってるでしょ? 流行ってるし!」


 突然、厨房に乱入してきたのはテーブル席で他のお客さんの歓談していたはずの愛子さんその人だ。

 この愛子さんは私がバイトに入る前、この店がオープンしてすぐからの古い常連さん。それだけ長い付き合いともなると、もう色々と規格外だ。店が予想外に忙しくなってしまったりすると勝手に私のホールの仕事を手伝ってくれたりすることもあれば、今日みたいに他のお客様が少ないときには厨房に勝手に入ってきて冷蔵庫を覗き込んでいることもある。とはいえ本当に邪魔になることはしないあたりは、さすがに自分でも店を持ってる人なのだなあとは思うけれど。


「なんか近くの農場で作り始めたとかでね、ゴルフ場の支配人にたくさん持たされちゃったのよ。で、せっかくだから持ってきたの。ってなわけだから、それで何か一品オネガイねー」


 炎天下でのゴルフの後で、いつもよりお酒がまわっているのだろうか。今日はずいぶんとご機嫌によっぱらっているらしい。だいぶ顔を赤くした愛子さんは、それだけ言うとふたたび奥のテーブル席へと戻って行ってしまった。

 厨房に残された私と女将さんは目をあわせると、二人そろって肩をおとしてため息をつく。

 崎本さんは相変わらず息をしているかも怪しいくらいに硬直しているので、現状では役に立ちそうにもない。


 パクチーまたは生菜シャンツァイというのは、見た目はセリに少し似ている葉野菜だ。

 いま目の前にあるような青々とした葉菜は主にアジア圏で、乾燥させた種子などはコリアンダーと呼ばれる香辛料としてヨーロッパでも使われるなどしていて、世界各地で古くから食用とされてきた。らしい。

 だがこのパクチーというのは和食の食材としては用いられることがなく、日本では最近まであまり馴染みがない食材となっていた。料亭出身でガチ日本食畑の崎本さんや女将さんが扱いを知らないというのも、まあ頷ける話ではある。

 とはいえ私だって、ネトゲに入れ込むさえない引きこもり気味の貧乏学生だ。

 ネットニュースでパクチストなんて言葉を目にするくらいに流行っているというのは知ってはいても、実際に口にしたことは数えるほどしかない。


 ふとカウンターに目をやれば、ヤエがひとり日本酒をちびりちびりとやりながら、こちらを興味深そうに眺めている。

 ヤエは見た目こそ中学生じみているが歳は私と同じで飲酒可能年齢。それだけでなく今日の言動からもわかるように結構な食道楽だ。なおかつこんなでも父親はどこぞの会社の社長だなんていうお嬢様。私なんかよりもずっと外食偏差値が高い生活をしているはずだ。

 私の視線で意図に気付いたのだろう。ヤエも私たち続いて、カウンターの上のこのやっかいな食材に目を向ける。


「パクチーねえ。うーん、たしか四川料理とかタイ料理とかにちょっと乗っかってたりとかはしてたかなあ」

「でもああいう山椒やら唐辛子マシマシな料理はうちでは無理だぞ」

「だよねえ……」


 私よりも世の流行には敏感な筈のヤエも、指を顎にあてて首をかしげる。


「それ以外だとすると、ベトナム料理とか。ほら、フォーガーとかもパクチーがわさっと乗ってるじゃない?」

「あー、あれは美味しかったなあ」


 ヤエと一緒に四谷あたりのベトナム料理屋に入ったことを思い出す。フォーというのは米粉から作られた麺をだしに浮かべるベトナム版のラーメンのような料理だ。ガーというのは鶏のこと。ちなみに具材が牛肉だとフォーボーになる。


「ああ、そうか。だったら、焼き物用の鶏のささ身を酒蒸しにして、パクチーを添えてサラダとかできそうかなあ。ベトナム料理はけっこうシンプルな味だったし、変にエスニックな味付けとかしなくてもうちのダシ味にも合うんじゃないかなあ。どう? 崎本さん」

「そういうものか……」


 私の呼びかけで、いままで完全に停止していた崎本さんがみしりと再起動する。

 明確な答えが返ってこないのは、納得していないというよりはあまりぴんとは来ていないという感じだ。もしくはまだ起動プロセスの途中なのかもしれない。崎本さんはいつもとは違って眉間にしわはそのままに、なんだか少しぎこちない動作で厚手の雪平鍋を手に取る。


 その鍋で日本酒をひと煮立ち。少々の塩と鶏のささ身を加えて蓋をしたら、火をとめてある程度冷めるまでそのまま放置。こんな簡単な手順だけれど、よくネットレシピなんかで見る電子レンジを使ったものとくらべると味も柔らかさも全然違うというのは、この店にバイトに来るようになって初めて知ったことだ。

 こうして出来たささ身の酒蒸しを一口大に割いて、適当な大きさに刻んだパクチーと和えて大皿に広げる。鶏ダシをゼラチンで固めたジュレと細切りの唐辛子が乗っているのは、わからないなりの崎本さんのアレンジといったところだろう。

 パクチーの緑、ささみの白、ジュレの琥珀色に唐辛子の赤と、皿の上は想像していたよりもずっと色鮮やかだ。


「鶏とパクチーのサラダ、とりあえずあがった。んだがなあ……」

「見た目はすごく美味しそうじゃない?」

「うう、多分だいじょうぶ、なんじゃないかな……」


 崎本さん、私、ヤエの三人がカウンターの上に置かれた大皿を見下ろす。

 客であるヤエだけは興味津々といった顔をしているけれど、料理を出す側である私と崎本さんはそうもいかない。つくったのは崎本さんだったとしてもアイデア出しをしたのは私だ。妙なプレッシャーに胃のあたりがきゅっとする。そういえば今日は昼からなにも食べてないし。


「まあ、とりあえず食べてみましょうよ」


 そう言うと、女将さんがカウンターを囲む面々にサラダをとりわける。小皿にひとくち取り分けられたそれを、私は祈るような気持ちで口にする。


 ふんわりとした口触りの鶏のささ身、その淡白な中にも旨みのある味に、しゃきっとしたパクチーの食感。口に残るのは癖がありながらもどこかさっぱりとしたパクチーの風味と唐辛子の辛さ。


「あ、これ美味しい……」

「あら、悪くないじゃない」

「私もこれ好きかもー」


 顔を上げると、女将さんも手のひらで口覆うようにして、驚いた顔をしている。ヤエは笑顔で小皿を差し出している。それはおかわりの要求なのか。


「なるほど。これは薬味だと思えばいいんだな」


 私たちと同じく小さく取り分けた皿からサラダを口にした崎本さんも、小さく頷く。

 最近の流行りでは、このパクチーを増し増しでなんていうのを宣伝文句にしている店も多いと聞くけれど、確かにこの味はちょっと独特で強すぎる。本来は薬味や風味付けに使うのが正しいのだと思う。好きな人は好きなのかもしれないけれど、特にうちのように素材の味を大事にする和食系の店の料理として考えるなら、味のアクセントとして使うくらいでないと他とのバランスがとれないだろう。


「薬味、薬味かあ。だったらなめろうに足してみるとかはどうかなあ。ちょっとナンプラーとか足してレモンをしぼってとかしたら、なんちゃってエスニック料理にならない?」

「まだよくわからんが、やってみるか」


 私の提案に相変わらず少し首をかしげながらも、崎本さんが再び手を動かし始める。

 居酒屋の定番メニューにもなっているので知っている人も多いとは思うのだけれど、なめろうというのは千葉あたりの郷土料理。鯵とか鰯なんかの青魚を薬味と味噌とかの調味料とあわせて、そのまままな板の上で粘りが出るまで包丁でたたくっていう豪快な漁師料理だ。

 カウンターの冷蔵ケースから取りだされた三枚におろされた鯵を数枚。それから大葉に茗荷にわけぎといつもより量が多めの薬味。さいごに今日の問題児であるパクチーを刻んで少々。

 いつもはここで作り置きの味噌ダレが登場するのだけれど、今日に限っては慣れない薬味や調味料を使うっていうこともあって、慎重に味のバランスを取っているのが横から眺めていてもわかる。


「鯵とパクチーのなめろう、とりあえず食べてみてくれ」


 そう言う崎本さんの手には、白地に青の絵付けが美しい伊万里の小皿。飾りにパクチーの葉の部分が添えられたそれは、見た目には普通のなめろうのように見える。

 ちゃんと盛り付けられたそれはとりあえずヤエに差し出して、私は崎本さんがひとくち醤油皿に残しておいてくれた分を口に運ぶ。


 それはよく知る鯵でありながら、あまり良く知らない不思議な味の料理だった。よく錬られた鯵と味噌の中にふわりと広がるナンプラーと柑橘の香り。これはきっと柚子だろう。パクチーは主に茎の部分が細かく刻まれている。茗荷などの他の薬味とも上手くマッチしていて、味の主張はあってもやりすぎ感はない。


「すごい、美味しい。和食だけど和食じゃなくて、なんだかエスニックだ……」

「うちで出すにはちょっと味が強めだけど、良いんじゃないかしら、これ」

「まあ、悪くはないな」


 女将さんと崎本さんの表情を見る限り、どうやら二人の評価も悪くはないらしい。リクエストされたとはいえ、その場の思いつきで二品も崎本さんに料理させてしまった私としては、この結果にやっと肩の力が抜ける思いだ。


「うーん、うーむ……」


 そんな中、カウンターでちびりとなめろうをつまみ、ちびりと日本酒を口にしたヤエが首をかしげる。


「ん、どうした? これ私としてはすごく美味しいと思うんだけれど、ヤエの好みじゃなかったか?」

「いや、なめろうは美味しいのよ。なんだけれど、なんだかお酒の味がね、抜けちゃった感じなのよねー」

「あー、それはそうか」


 おちょこを手に口をへの字にまげるヤエのその感想は、たしかにごもっともだと思う。


 ヤエが今、口にしているのは<夜明け前>という長野のお酒。どこかで聞いたことがあるようなこの名前は、島崎藤村の長男さんから許可を頂いてつけたものらしい。この名前を頂いたからには丁寧に心をこめて作っているとかというのを酒蔵のウェブサイトでも読んだことがある。そして、その文句に恥じぬ、甘さと酸味のバランスが良くて、なおかつ値段もお手頃なお酒だ。

 しかし、この癖の強い料理に合わせるとなると、バランスの良さが仇となってしまう。料理に味が負けてしまうのだ。というかこの料理に合わせるとなれば、お酒のほうもだいぶとんがったものを選ばなくてはならなくなってしまうのだ。


「じゃあこういうのはどうかしら?」


 私とヤエの会話を聞いていたのだろう。女将さんが冷蔵庫から四合瓶を一本取り出して、私たちの前に立てる。


「鬼、辛……?」

「ええ、これ私も知らないお酒だ……」


 ラベルは白地に明朝体のすごくシンプルなもので、それがなんだか逆に新鮮に感じてしまう。


「ほら、余所の居酒屋さんでも見る〈ダバダ火振り〉っていう栗焼酎ってあるでしょ。あの酒造所さんのお酒なのよ。ちょっと偏った味だからなかなか普段は出せないんだけど、この料理なら合うと思うわよ?」


 そう言って四合瓶をかかえてしなをつくる女将さんは妙に色っぽい。普段見慣れている私でもちょっとやられてしまいそうだ。案の定、ヤエなんぞはふにゃりとした目で女将さんの前にお猪口を差しだしている。


「はい、ユカちゃんもひとくち。お勉強ね」


 そんな女将さんにそういわれてしまっては逆らえる筈もない。逆らうつもりもない。私は小ぶりのお猪口に少し入れられたそのお酒で、ちろりと舌を湿らせる。


「うわ、なにこれ。辛口? っていうかなんて言うかなにこれ……」

「生原酒ってのもあるけど、とにかく味がすごく濃いんだ。んでもって辛口ってこういうのもありなのか……」


 そして私は絶句する。


 辛口の日本酒というと、きゅっとした舌触りで、でも後味なく水のように流れていくお酒と言う風にこれまでは思っていた。でも「超辛口」と冠するこのお酒の味はそんなものではぜんぜんないのだ。確かに原料である米由来の甘さみたいなものは殆どない。そのかわりにあるのは甘さ以外の全部とでもいうような濃厚な風味だ。それが一瞬で口の中に広がって、そして流れ去ってていく。残るのは確かにこれはお米の酒だったのだと主張するかすかな香り、それをほんの少しだけ残して全てを塗りつぶしてしまう。そんなお酒だ。


「あ、パクチーの後味がきれいさっぱり消えてる……」

「確かに、これならぜんぜん負けないかも。っていうかこれ中華とかイタリアンとかのコッテコテな味付けの料理でも勝っちゃうお酒じゃない?」

「でしょう? っていうわけでヤエちゃん、ご注文とかどうかしら?」

「はい! これ、ください!」


 間髪いれず、ヤエが大きな声をあげる。

 ゲーム仲間のうちでは誰よりも口が回って〈アキバの詐欺師〉なんて陰口を叩かれることもあるヤエだけれど、リアル本職は格が違う。そんな風景を一歩さがったところで眺めながら、私はおちょこの底に残ったお酒をちろちろと舐める。

 そんな風にぼうっとしていると、店の奥でテーブルだか椅子だかがガタリと大きくなる音がした。


「ちょっと! そっちでばっかり楽しんでないで、こっちにもその料理ちょうだいよ! もともと私のリクエストなんだからね!」


 振り向けば、奥のテーブルから愛子さんが身体を乗り出して、ふくれっ面を覗かせている。


「りょ、了解! ただいま参りますう!」


 私は慌てて背筋をのばし、出来上がっている料理を急いで愛子さんの元へと届けるのだった。





 そんなわけで一通りの注文をさばききれば、私と崎本さんにとってはちょっとの休憩タイムだ。

 うちのようなほぼ常連ばかりを相手する居酒屋なんてものは、半分はお酒と料理、もう半分はほろ酔い気分の会話を楽しむ場所のようなもので、厨房の仕事量も山あり谷あり。こうやって手があく時間も少なくはないのだ。


「――って話になったんですよ。ほら崎本さんはぴしっと白衣だし、女将さんも綺麗な和服姿なのに、アレってないじゃないですかあ」

「そうねえ。私もね、ユカちゃんは飾りっ気なさすぎって気にはなってたのよねえ」

「あら、だったら私の若いころの服とかもってこようかしら」

「さすがに愛子さんのだと違う方面の店になっちゃうわ」


 一息ついてふと気づけばカウンターに座っていたはずのヤエは、いつのまに愛子さんたちの座る奥のテーブルに席を移して常連さんたちの会話に加わっている。女将さんも同じ輪の中だ。愛子さんをはじめとするテーブルの面々は、ヤエにとってはひとまわりもふたまわりも歳が上な人たちだというのに、そんなものはなんの障害にもならないらしい。相変わらず彼女の図々しさと紙一重の社交能力は半端ない。


「ってなわけでどーん。こういうのとかどうです? いま通販でもいろいろあるんですよー」

 そのヤエが持ち出したのだろう。タブレットに表示させたなにかの画面をテーブルを囲む皆がなにやら覗き込んでいる。

「あら、この紅葉色の作務衣とか可愛いわねえ」

「こっちのミニスカ浴衣とかどうだ?」

「このスリットどーんなチャイナとか着させたいなあ」

「それ、ただのご隠居の趣味じゃねえか」

「この露出度高いのにしましょうよ」

「だから愛子さん、うちは大衆割烹なのよ。それだと風俗店になっちゃうわよ」


 まあそれで常連様たちが楽しく店での時間を過ごしてくれるのなら私としても有り難いことではあるのだけれど、聞こえ来る会話の端々には何やらきなくさい内容が含まれているような気がしてならない。


「ねえ、崎本さん。私どうなっちゃうのかなあ?」

「俺に聞くな。俺じゃああれは止められん」

「ですよね……」


 厨房に二人、完全に取り残された形となった私と崎本さんは、大きくため息をつく。

 しかし私の儚い願いは裏切られ、悪い予感は的中する。変に盛り上がってしまったおかしな雰囲気はそのまま冷める事がなかったのだ。


 一度店に戻った愛子さんが山ほど抱えてきた妙に露出度が高い衣装やら、女将さんの和服やら、あげくには古書店のご隠居の孫娘の趣味だとかいうコスプレ衣装などが店には積み上げられ、その全てを強制的に着させられるという地獄のファッションショーで、阿鼻叫喚の週末の夜はふけていったのだった。


「ていうかクシ、背が高すぎるのよ。どれもこれもひざ上丈になっちゃうじゃん」

「うっさい、なりたくてこの背になったわけじゃないわい!」

「そうよねえ。なんかどれもちょっとイケナイ雰囲気よねえ」

「愛子さんの持ってきたのはそもそもアウトなのばっかりですからっ!」


 ここは、大衆割烹「梟のふくろうのねぐら」。

 最近なんだか変なものに侵食されつつある、私のアルバイト先なのである。


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