そのに
某所に書いたやつです。
「でもさあ、カレにも結構やさしいところあるんだって」
「へー」
「この前だって、雑誌に出てて気になってたカヌレ、並んで買ってきてくれたし」
「へー」
「そりゃあ、もうちょっとちゃんと働いてほしいけどさぁ」
「へー」
「ちょっとユカちゃん、ちゃんと聞いてるぅ?」
「聞いてますよー」
カウンター席に座る髪を明るい色に染めた女性が、ハイボールのジョッキを抱え込むようにしながら口をとがらせる。
とはいえ相手はよっぱらいだ。最初こそちゃんと相手をしていたのだけれど、同じ内容が三週目に突入した惚気とも愚痴ともつかないものにマジメに付き合い続けるのは、独り身の私にはいろんな意味でダメージが大きすぎるのだ。
あとカヌレってなんだろう。
都内の某歓楽街。その裏道の雑居ビルに居を構えるここは、大衆割烹「梟の塒」。
若くに旦那様を亡くした女将と、その旦那の弟子だった板前の崎本さんが二人で切り盛りする、いわゆる居酒屋と分類される飲食店。
そして週に三回ほどホール係兼雑用のアルバイトとして働く、私の勤務先だ。
つい先週まで夏の名残りを見せていた街の空気は、ひとつ週末をまたぐと秋をも通り越してしまっていた。
日もしっかりと暮れたこの時間ともなると、衣替えをしそこねた装備では外を歩くのには冷気耐性の数値が足りないらしい。普段であれば週の半ばであっても、夜になればそれなりに賑やかなこの某歓楽街なのだけれど、今日に限っては外を歩く人の数も明らかに少ない。
そんな街の雰囲気のせいもあって、今日の客入りはいつもとくらべると随分とささやかだ。お客様といえば開店直後からいつもの壁際の席に陣取っているタバコ屋のご隠居と、少し強めの化粧をした顔を赤く染める目の前の彼女、ヒナタさんの二人のみ。
タバコ屋のご隠居は、もう料理も酒も一段落したらしく、お気に入りのパイプを片手にぷかりと紫煙をくゆらせている。店の女将さんは、その向かいの席に座り、頬杖をつきながら窓の外の景色を眺めている。
板前の崎本さんは包丁を研ぐとか言って奥に入ったあと、もう三十分あまりも戻ってこない。
そうしてカウンターにひとり取り残された私は、惚気を繰り返す彼女を援護射撃もなく独りで相手しなくてはならないと、そういう状況だったりするのだ。
「はい、チェイサー。ヒナタさん、今日はちょっとペース早いから。ちゃんと水も飲まないと悪酔いするよ」
「えー、まだまだ大丈夫だってぇ」
どうにか話の合間に割り込んで、レモンをしぼった水をカウンターに置く。するとヒナタさんはそのグラスのふちを指でなぞりながらふにゃりと笑う。
彼女は近所のキャバクラで働くホステスさん。出勤前の同伴でも、今日のようなプライベートでも、うちの店をよく利用してくれる常連さんの一人だ。
しかしその道のプロとはいえ、美人というのはずるい。
赤く染まった頬やとろんと力の抜けたような目もとは、どう見てもただの酔っ払いのそれだというのに、どこか色気を漂わせている。私が同じだけの酒量を口にすれば、顔だけでなく全身を真っ赤にしてへべれけだというのに。
なんでこうも差がつくのだ。彼女と私とでは歳もたいして変わらないというのに。
「ユカちゃん、なんだか眉間にしわが寄ってるぅ。ショックだな、私の相手をするのがそんなに嫌なんだあ……」
ヒナタさんは顎をちょっと引くと、唇に一本指をあてて拗ねたような表情を顔に浮かべる。
ぐぬ、それだ。それがずるいと思うのだ。
「いやいや、そんなことないし。でもほら私さ、彼氏とか居たことないからさ、ヒナタさんのことが羨ましくってさあ」
とはいえ、嫉妬はあってもヒナタさんを嫌うとかいった感情は私にはない。
客の平均年齢が高いこの店では、ヒナタさんは唯一に近い同年代で同性の顔なじみだ。私としてもバイトと客の関係というよりも友人に近い感覚を彼女には持っていたりする。
「ほんとにぃ~?」
「本当ですよー」
まあ彼女の方も本気ではなくて、これも何度も繰り返したいつものやり取り。
洗い場でグラスを磨きながら、この「本当」が「嫌じゃない」ことなのか「彼氏居たことない」のことかはわざと誤魔化したまま、私は曖昧に頷いたりする。
「えー、それはちょっと信じられないんだけど。なんでユカちゃんにオトコがいないわけ? 全然意味わかんない。ていうかバイトしてない普段って何してるのよ?」
「え、えっと。大学通ったり、パソコンしたりとか……?」
「ほんとにぃ~?」
だが、今日のヒナタさんは、それを曖昧なままにはにはしてくれないらしい。妙な所にスイッチが入ってしまったらしく、ずいっと身を乗り出してくる。
私はその勢いに一歩あとずさりする。おまけにその質問は私にとって非常に答えづらいものだったりするわけで、どうごまかそうかと返した言葉の語尾も小さくなってしまう。
友人のように思っているとはいえ、彼女は私とはだいぶ違ったクラスタに所属する人種だ。正直に「暇があればネットゲームばっかりしてます」なんて言ってしまえばドン引きされてしまうことは想像に難くない。
「スマホとかじゃなくてパソコン? それって勉強とか? そんなに大学って大変なの?」
「ああ、ええっと…… いや、勉強ってわけじゃないんだけれど……」
「怪しいなあ。なんか隠してない?」
「アヤシクナイデス……」
ヒナタさんがこちらの心の中を覗き見るかのように目を細める。私が斜め上に目をそらす。
からころん
そんな絶体絶命の瞬間、私を救う福音が訪れる。新たなお客様の来店を告げる、のれんにかけられている鈴の音だ。
「あっ! いらっしゃいませ!」
このタイミングを逃すわけにはいかない。私は不満げな表情でにらむヒナタさんを尻目に、急いで店の入口へと向かう。
向かったのだが。
「うむ、なるほど。なかなか味のある雰囲気の店じゃないか」
「げっ、小豆子……」
私はのれんをくぐって店の中に入ってきた長身の女性の姿を見て硬直する。
それは、今の流れ的にいちばん遭遇したくなかった私のネットゲーム関連者。多人数同時参加型オンラインRPG、いわゆるMMOにおいて同じギルドに所属するゲーム仲間。
そのリアルの方の姿だったのだ。
◆
しっかりと磨きのかかった一枚板のカウンターの席には、二人の女性客が並んで座っている。
一人はもう一時間以上も前からその席に座っているヒナタさん。どうやら彼女は隣の客に随分と興味があるらしい。さっきまでとは違って口数も少なく、時おり思い出したかのようにハイボールのジョッキに唇をあてつつ、頻繁に横を伺っている。
そして今しがた席についたもう一人、チャコールグレイのパンツスーツに軽くウェーブのかかったショートヘアの中性的な雰囲気を持つ女性の方は、カウンターの正面というか私の顔を眺めながら肘をつき、口元には薄い笑みを浮かべている。
新しいお客様の来店ということで、一度は奥から出てきた女将も、場の雰囲気からその客が私の友人だということを察したらしい。「ごゆっくりね」と優雅に微笑むと、再びご隠居の座るテーブルへと戻っていってしまった。
確かにこの妙にきりっとしたハンサムな女性は私の友人ではある。少なくとも週の半分くらいは顔を合わせて会話をするとなれば、だいぶ親しい部類と世間的には類されるのだろう。
とはいえその殆どがゲームを介在したネット越しでのことだ。チャット機能によって彼女の声色こそ知ってはいるものの、実際の姿を目にしたのはオフ会での数回のみ。片手の指で数えられるほどでしかない。
そんな彼女が私のリアルのこんな場所に唐突に現れるなんていう事故は、本来であればありえない筈なのだが。
「ヤエか……」
「うむ、ヤエだな。次の〈大規模戦闘〉の〈幻想級〉配分権で吐いた」
「ぐぬ、あの欲の権化め…………」
私の低いつぶやきに小豆子が頷く。
ヤエというのも同じゲームで知り合った友人だ。しかしヤエの方は小豆子よりもずっと付き合いが長く、それは私が中学生だった頃までも遡る。
それだけ長い付き合いに加えて、リアルで住んでいる場所も近かったこともあって、そのヤエとはゲーム以外でも頻繁に会う機会が多く、彼女だけはこのアルバイト先も知っていた。
「ネット越しの相手にはみだりにリアルの情報を流すのは危険だにゃあ」というのは、私とヤエのゲーム内でのお師匠様のお言葉だ。それがなくともゲーム内での友人がこの店に頻繁にやってくるなんてのは私としても願い下げだ。どうせあいつらは私をからかって遊ぶことしか考えてないのだ。
というわけで、ヤエには口を酸っぱくしてこのバイト先のことはばらさないようにと言い聞かせていたのだが、ゲーム内での希少アイテムを獲得するための権利をちらつかせられて、簡単に口を割ってしまったらしい。
「なに飲む?」
「そうだな。まずはビールというのが様式美だろう。グラスでたのむよ」
私の注文の催促に、小豆子は顎に指をそえつつ、妙に優雅に答える。注文の受け答えの言葉も、私が出したお手拭きを使う仕草もどこか芝居がかっている。
ゲームの中でもオフ会でも、彼女はこんな不思議な口調で喋っていたのだけれど、それはどうやらゲームからは離れたこんなところでも徹底されているらしい。生粋の変人なのだ。
「ほい、グラスビール。それからお通し。蛸の桜煮」
「なんだ。随分と接客の態度が悪いじゃないか?」
小豆子は不満ですとでも言うかのように小さく首をかしげるが、彼女のその顔に浮かんでいるのは、まるで楽しいオモチャを見つけた子供のような笑顔だ。悪い予感しかしない。
「まあ、予告もなしに顔を出したのは悪かったと思ってはいるがね。それにしたって愛想笑いくらいはする努力をしたほうがいいぞ、くしやた――」
「まて、ちょっとまて! 違う! 私の名前は大江悠加里だ。オオエでもユカリでも好きに呼んでいいが、リアルでソレはやめろっ!」
「……ふむ。では親しみを込めてユカリと呼ばせてもらおう」
今度こそ小豆子の顔には満面の笑みが浮かんでいる。
彼女が言いかけた「櫛八玉」というのは、ゲーム内での私のキャラクターの名前。それはいわゆるペンネームみたいなもので、ゲーム内で呼び合う名前にもなる。だから彼女が私のことを「櫛八玉」と呼ぼうとするのは、まあ自然な流れではある。あるのだが。
この「櫛八玉」というのは中学生だったゲームを始めた頃の私が自分のアバターにつけてしまった日本神話のマイナーな神様の名前だ。まさに中二病というやつだったのだ。
そんな名前がバイト先にまでもばれてしまったら、この先、私は羞恥心でここで働けなくなってしまう。
「へぇ。ユカちゃんのそういう顔ってはじめて見るかも。こちらはお友達さん?」
「はい。クシ……じゃなかった、ユカリとは親しくさせていただいております。戦友のようなものですね」
「戦友ってなんだ。違うから。ただの友達だから……」
さっきから興味津々といった表情で横から私たちを眺めていたヒナタさんが、とうとう私たちの会話に加わってしまう。
「はじめまして。私、ユカリの友人で、笹下梓と申します。そうですね、親しみをこめてあずにゃんとでも呼んで頂けると嬉しいですね」
「ふふふ、じゃあ私のこともヒナタって呼んでちょうだいね。まあ源氏名なんだけどさー」
「いや、なんだよそれ。あずにゃんってなんだよ……」
居酒屋のカウンターともなれば、来店した見知らぬ相手と会話が弾むなんていうことは珍しいことではない。特にうちのように常連相手が大半といった店であれば、殆どのお客様同士は既に友人のようなものだし、仕事の合間にはその会話に混ざったりするのだってウェルカムなのだけれど、今日ばかりは全くもって歓迎できない。いつ小豆子が変な事を口走らないかとこっちとしては気が気ではないのだ。
「それでね~、その彼氏がさあ、ちょっと気が利かなすぎっていうかさ、もうちょっと私をちゃんとかまって欲しいっていうかさあ」
「なるほど、わかります。世の男どもには紳士度が全く足りていない。ましてやヒナタさん程の美人を相手にその態度とは、けしからんとしか言いようがないですね」
「そうなのよ、本当にさ。せめてもうちょっとちゃんと働いてくれればさぁ」
「ですね、全面的に肯定いたします」
「あーあ、あずにゃんが男の人だったらよかったのになぁ。そうしたら私ほっとかないんだけどなか~」
「いやいや、私なんてそう大したものでもないですよ」
そんな私の気持ちとは裏腹に、カウンターの二人は妙に盛り上がっている。
しかし小豆子、その道のプロである筈のユカリさん相手にそのこなれたムーヴはなんなのだ。お前はホストか。ホストクラブのクラブのホストか何かか。区役所の一般事務枠というのはそこまでの話術を必要とする職場だというのか。
「ユカリちゃん、料理の注文は取ったのか?」
客同士で盛り上がっている雰囲気から危険は去ったと判断したのか、それともさすがに包丁研ぎにも飽きたのか。酔っ払ったユカリさんに絡まれることを恐れてずっと奥に隠れていた板前の崎本さんが顔を出す。
「あ、はーい。おい小豆子、ヒナタさんと盛り上がるのは勝手だが、そろそろ何か注文をしろ。うちは大衆割烹だ。酒と料理を楽しむ店だぞ」
「違うぞユカリ。私の呼び名はあずにゃんだ」
「ぐぬ。……あ、あずにゃん、次のお酒と料理は何に、……いたしますか?」
「うむ、よろしい。確かにこのような楽しい場をより盛り上げるには、舌への刺激も有用だろう。とはいえさて、何をお願いしようか。どれも魅力的に見えて困るな……」
一瞬は勝ち誇った顔をしていた小豆子だけれど、私がお品書き差し出しすと、それとカウンターのガラスケースを交互に眺めながら、口をへの字に曲げる。
なにがあずにゃんだ。小豆子のくせに。そして悩め、悩むがいい。そしてうちの味に驚くがいい。
いつも不機嫌そうな顔をしていて愛想が全く無かったり、若い女性客に絡まれたりすると私を見捨ててすぐに店の奥に逃げ出したりはするけれど、銀座の料亭で働いていたこともある崎本さんの料理の腕は確かだ。
小豆子なんぞは崎本さんの料理にやられて財布を軽く、そのぶん体重を増やして帰ればいいのだ。
「ねえ、あずにゃん。それだったらさあ、ここはユカちゃんにオマカセしちゃわない? 古参の常連客の遊びでね、お客さんに合わせた料理とお酒をユカちゃんに選んでもらうっていうのがあるのよ」
「ほほう、それは興味深いですね」
「というわけでユカちゃん、オススメの料理とお酒、二人分お願いね~」
「ぐ、ぐぬ……」
そんな風に想像の中で小豆子に反撃して暗い笑みを浮かべていた私の思考は、ヒナタさんの言葉で現実に呼び戻されてしまう。ヒナタさんめ、なんでそんな余計な事を言うか。
彼女の言うように、古くからの常連さんたちは基本的に店のメニューを見ない。「そこのアジが食べたい」とか「串何本か適当に」とか「オススメを軽く」なんていう注文がほとんどだ。おまけにここ最近、「ユカちゃん、なにか選んでー」なんていう非常に困った注文方法も流行ってしまっていたりする。
とはいえ私はだたのアルバイトだ。食材の目利きなんてことに関しては全くの素人だし、お酒にだってさほど詳しいわけじゃない。
「……崎本さん。今日魚で良いのってどれ?」
「どれも美味い」
「ぐぬ。じゃあお酒は?」
「不味い酒は入れてない」
「ガッデム」
ダメ元で崎本さんに泣きついても、返ってくるのはいつもどおりの何の参考にもならないお言葉。崎本さんがこうだからお客様たちは私にオススメなんてものを聞くようになったのだ。たまには協力してくれたってバチは当たらないと思うのだが。
私はがっくりと肩を落とした後に、カウンターに並べられた食材たちに視線を流す。そして、ひととき思考をめぐらせる。
ヒナタさんは同伴やアフターにうちを利用するときには(客のオゴリなので)ウニとかトロなんていう高いものばかりを注文して店の売上に貢献してくれるのだけれど、今日のように一人で来店すると、から揚げやつくねみたいな料理を頼むことが多い。となれば繊細なものよりも、味のはっきりとした料理の方が良いのだろう。
スズキは違う。アマダイもそうなるとイマイチ。甘エビは悪くはないけれど、もうちょっとボリュームが欲しい気がする。
そうやって悩んでいた私の目に、大きく広げた手のひらほどもある白く平べったい円盤上の物体が映る。
「あっ、じゃあこのホタテとかどうかな。これだけ大きければ刺身もバター醤油も両方出来ちゃいそうじゃない? うちのは北海道産の天然ものだし今が旬だから、きっとすごく甘いと思うんだよね。でもって、合わせるお酒は……」
後ろを振り向き、こんどは奥の冷蔵庫に並んでいる日本酒の一升瓶に目を向ける。
うちの店に並んでいるお酒は、これまた常連でもある老舗の酒屋さんが仕入れてくれている。いつも安くて美味しいお酒を取り寄せてきてはくれるのだけれど、「今日は珍しくこれが手に入った」、「こいつは一度飲んでみるといい」なんて言いながら毎回違うお酒を持ってくる。そのせいで私のような素人では、ラベルを見ただけではその味がわからないのだ。
私がそうやって首を傾げていると、崎本さんが小さなおちょこを差しだしてくる。これは味見をしても良いという合図だ。
とはいえ全部の酒を味見するというわけにもいかない。
ホタテの強い甘みにも負けないしっかりとしたお酒。でも普段日本酒を飲みなれていない人にも美味しいと思ってもらえるクセがあまり強すぎないお酒。
おぼろげな記憶から味を予想してひとつの瓶を手に取る。そしてちょっとだけおちょこに注いでまずは香りを確認。そしてひと舐め。
「うん、これでいいかな。お酒はこれ。〈雨後の月〉っていう広島のお酒。香りや飲み口がすごくフルーティーだからヒナタさんも気にいると思う」
「判った」
腕を組んでじっと私を睨むようにしていた崎本さんは小さく頷くと、カウンターに並べられていたホタテを二枚、慣れた手つきで開き始める。私も慌ててお酒をふたつの徳利に一合ずつ注ぎ、カウンターの二人の前にグラスと共に並べる。
「ほい、とりあえずお酒から」
「うむ。ではありがたく頂こう」
小豆子は酒を手酌したグラスを手に取ると、またも芝居じみた身振りで店の照明にかざすように持ち上げる。
「ふむ、かすかな琥珀色が美しいな。このシンプルなグラスにも随分と映えるじゃないか」
「いや、無濾過の原酒って大体そういう色だから。度数高めだから調子乗って潰れるなよ。あと小豆子に出したそのグラスは合羽橋で売ってる安物の量産品だから」
「それに〈雨後の月〉という名前も詩的だ。雨上がりの夜にうっすらとかかる雲。その合間から微かに覗く月の明かり。日本酒とは随分とロマンチックな酒なのだな」
「いや、日本酒の名前なんて大概だぞ。半分は中二病でもう半分はネタだ。〈モヒカン娘〉とか〈最低野郎〉とか〈ブースカ〉とかもあるからな」
「ほう、とても香りが強くて舌触りもしっかりしているのに、随分と余韻が爽やかなのだな」
「うん、まあそうな……」
突っ込みどころしかない小豆子の言動なのだが、味の感想だけは私の思った通りのものが返ってくる。
「本当だ。結構甘く感じるのにべたっとしないのね。日本酒ってあんまり得意じゃないけど、これはすごく美味しいかも」
ヒナタさんは赤い江戸切子のグラス(こっちにはちゃんとしたものを出した)を両手の指でちょこんと持ち上げて一口舐めると、目を大きく広げて驚いたような顔をする。この反応であれば、どうやら間違いはなかったらしい。
私はほっと胸をなでおろす。しつこいようだが私はただのアルバイトなのだ。お客様の好みそうな料理やお酒を選ぶなんていうのは、たとえそれが気心の知れたヒナタさんが相手であっても緊張してしまう。小豆子はまあどうでもいいが。
「刺身あがった。持って行ってくれ」
「はいはーい」
急いで厨房に戻り、崎本さんが差し出す九谷の皿を受け取る。
その皿を受け取った私の手の中には、白い貝殻の上に薄く切られて並んだ貝柱がきらきらと輝いている。
身の柔らかい貝柱なのだけれど、その切り口はぴんと鋭角。添えられている大葉や紫蘇の実との色のコントラストもとても綺麗だ。
思わずひとつため息をついた後、すこし後ろ髪をひかれる気分になりながら、私はその皿を二人の前に差し出す。
「まずは一皿目。貝柱の刺身ね。味が濃いから醤油はほんのちょっとでいいと思う」
「わあ、とっても大きいし、すごくきれい!」
「どこか緊張感すら感じさせられるな。切り方、盛り方でこうも変わるものなのか……」
二人がその皿を目を見開いて見下ろす。そして恐る恐るといった手つきで箸をのばす。でも、それも一瞬のことだ。
「あま~い! 美味しい!」
「すごいな。ホタテがこんなに甘いとは思わなかった」
先ほどまでとは違い、口数少なく箸を動かすヒナタさんと小豆子にほくそえみながら、私は厨房に戻る。
その厨房からあがってくるのは、これまた暴力的なバターと醤油の香りだ。ガス台の前に立つ崎本さんの手元を覗き見れば、そこには網の上に殻ごと乗せられたホタテがぐつぐつと音を立てている。
「うわあ、良い香り。それに貝の汁もしっかり出てて、とっても美味しそう」
「そうだな……」
その焼き上がったホタテを皿に移そうとしていた崎本さんの手が一瞬止まる。
「若い女性客相手なら、この前ユカリちゃんがまかないで作ってたあれも出すか」
「えっ? でもあんな適当な料理、店のお客さんに出していいんですか?」
「良いだろ。あれは美味かった」
崎本さんはそう言って頷くと、殻の上でこぼれそうになっているホタテの汁を丁寧に小さなフライパンに移す。
そして焼き上がったホタテを皿に盛ると、自ら厨房を出てカウンターのヒナタさんと小豆子に配膳する。
「うわ、良い香り! これも美味しそう!」
「まさに〈粗にして野だが卑ではない〉というやつではないか。圧倒されるな ……」
カウンターの方からは、ヒナタさんと小豆子がはしゃぐ声が聞こえる。
しかし厨房に残された私の前にはフライパンがひとつ。これはどういうことなのかと振り返るも、そこには厨房の入口で無言で仁王立ちする崎本さんが、小さく頷く姿があるのみだ。
フライパンに目線を戻す。もしかしなくても、これって私が作れってことなのだろうか?
いや、無理だろう。私が作った料理を出すとかダメだろう。
私は再び振り返り、力をこめて首を左右に振る。
しかしそこに崎本さんの姿は既になかった。慌てて店内を見回せば、崎本さんはいつの間にかにご隠居と女将が座る窓際の前だ。
「ん? 次はユカリが何か作ってくれるのか?」
「へえ、ユカちゃんが料理するのなんて初めて見るかも! これって他の常連さんたちに自慢できちゃうかも!」
そんなタイミングで話しかけてくるのは、カウンターから身を乗り出して覗き込んできた小豆子とヒナタさんだ。
小豆子はえせホストじみたうさんくさい笑顔なだけだが、ヒナタさんの方はなぜか期待で目を輝かせている。
「い、いや、そういうわけでは……」
「えー、違うの?」
そのヒナタさんの目に一転して涙が浮かぶ。
「……はい、そうです……」
ずるい、やっぱりずるい。これがプロのテクニックだというのか。そんな顔をされたらもう逆らえないじゃないか。
私はあきらめて、フライパンの前に戻る。
崎本さんが私にまかせるというだけあって、あれはすごく簡単な料理だ。普通にやれば失敗することもない。筈なのだ。
まずはバター焼きしたホタテの汁が入ったフライパンに、昆布の出汁を少し加える。
次に入れるのは巻物などで使う酢飯だ。火はとろ火で焦がさないようにゆっくりと。
ぐつぐつと煮立ってきたらパルミジャーノ・レッジャーノをけちらずに多めに削り入れる。黒コショウはひとつまみだけ、香りつけ程度だ。
「小豆子、そのバター焼きの皿、こっちに戻して」
「ああ、これでいいのか?」
本当だったら一度出した皿の使いまわしなんていうのはご法度だとは思うのだけれど、これは残りもののおまけ料理。見た目もそれらしくなるので許してもらおう。
小豆子から受け取った皿の上の焦げのあるホタテの貝殻の上にフライパンの中身をこんもりと盛りつける。
そのてっぺんにイクラを数粒と、飾りの木の芽を乗せる。そして小さな漆塗りのスプーンを添えれば完成だ。
「おまけの料理だ。ホタテと酢飯のリゾット風なナニカ」
「へえ、おまけってわりにはすごくオシャレじゃない?」
「そうですね。ユカリが作ったとは思えない見た目だ」
そんな事を言いながら、二人はリゾットもどきを口に運ぶ。
「以外だな。酢飯というからもっと酸味が強いかと思ったが、そんなことはないな。ちゃんとリゾットだ」
「さっきのお酒ともすごく合うかも。ユカちゃんお酒、同じのもう一度ちょうだい?」
「私も頂こう」
「あー、はいはい」
随分と機嫌のよさそうな酔っ払いたちに新しいお酒を注ぎ直したあと、私の肩の力がやっと抜ける。
やったことは以前にまかないで作った料理を出しただけ。
しかしお客様に食べてもらうものを作るということはこんなにも緊張することなのか。
どうやら今回は失敗はせずに済んだらしいけれど、こんなのはもう金輪際勘弁してもらいたい。
「ユカちゃん、おつかれさま。少し奥で休んでていいわよ」
半ば放心していた私に声をかけてくれたのは、ずっと窓際の席に座ってご隠居の相手をしていた女将さんだ。ふと時計を見れば、いつの間にかにご隠居が帰路につく時間になっている。
「はい。じゃあちょっとだけ……」
その言葉に甘えて、私は店の奥にある畳の小部屋にばたりと倒れ込む。
疲れた。今日はお客がこんなにも少ないのに、何故にこうも消耗しなくてはならないのか。
小豆子め、次にゲーム内で会った時には必ず復讐してやる。
そんなことを考えながら、私の意識はふっと遠のいて――
「でさあ、あずにゃん。さっきの戦友ってどういう意味なの? ユカちゃんとあずにゃんってどういう関係?」
「ああ、ユカリとは同じチームにいましてね。あいつはそのチームの副長で、私はまあその部下って感じですかね」
「ええ? チーム? 副長? それってだいぶ以外かも! ユカちゃんって大人しそうに見えるのに、そんな過去があったなんて……」
「あらあら、まあまあ」
「いやいや、ユカリはあれで結構短気ですからね。いちどスイッチが入ると一直線というか。そういえば〈突貫〉なんて二つ名もついてましたね」
「へえ、私も高校の先輩にはそういう人いたけどさあ、まさかユカちゃんがねえ……」
「あらあら、まあまあ」
「ちっがーう! 小豆子! 変なことみんなに吹き込むな! 違うから、絶対なんか誤解してるから!」
ここは、大衆割烹「梟の塒」。
暖かくて美味しくて、時々恐ろしい客のやって来る、私のアルバイト先なのである。