そのいち
いかにも昭和といった感じの和風の内装と、煙草の煙で少し黄色く汚れた壁には同じく古びたビール会社のポスター。
天井から吊るされたペンダントライトは、淡い明かりと適度な暗がりで店内を彩っている。
決して広い店ではない。テーブル席が四つにカウンターも五人ほど座ればもう満員といった大きさだ。
時刻はまだ十七時半。既に暖簾を掲げてはいるものの店内にまだ客の姿はない。
半営業開始前のカウンターの奥からは、仕込みをする包丁のリズミカルな音が響く。
「ユカちゃん、こんな年の暮れに本当にごめんねぇ」
そんな中、和服姿の女将が頬に手のひらを当てながら、今日何度目かの言葉を口にする。
「いえ。私、両親はもう他界しちゃってますし田舎とか親戚付き合いとかも無いですし。何より色々とお世話になってる女将さんの頼みですから。そんななんで大丈夫ですよー」
今日のお通し、鯛のほぐし身の和物を小鉢に装いながら、私もまた同じ言葉を返す。
女将は相変わらずの年齢不詳な和服美人っぷりで、少し傾げた首から襟元へと続くラインや、ゆらりと揺れる睫毛の奥の憂いだ瞳は、同性の私から見ても艶めかしい。
それに対する私ときたら、安物のジーンズにセーター。その上から店に入る時の制服のようなものになっているデフォルメされたマグロのアップリケのついたエプロンを下げただけという、なんとも色気皆無でダメダメな格好だ。
いや、普段であればもう少しはマシなのだ。用事もない年末ということで朝からろくな身だしなみもせずに部屋のパソコンの前で過ごしていたところを、急いで眉だけ描いて飛び出してきたのだから仕方がないのだ。
都内の某歓楽街。その裏道の雑居ビルに居を構えるここは、大衆割烹「梟の塒」。
若くに旦那様を亡くした女将と、その旦那の弟子だった板前の崎本さんが二人で切り盛りする、いわゆる居酒屋と分類される飲食店。
そして普段であれば週に三回ほど通う私のバイト先だ。
そんな職場から電話があったのはつい先程のこと。どうやら今日ホール係で入る予定だった女将さんの姪っ子が熱を出してしまったとかなんとかで、急遽人が足りなくなってしまったのだ。大晦日の夜ということもあり、代役がどうしても見つからず、シフト外ではあるものの年末にたいした予定もない私のところに話がまわってきたと、そんな理由で私は今、この店内に居たりするのだ。
「しかし店としては助かったが、ユカリちゃんみたいな若い女の子が大晦日に何の予定もなしってのもどうなんだ?」
「ちょっと崎さん、世の中突っ込んじゃいけない事ってのがあるのよ? そんなだから崎さんはダメなのよ」
ふと、包丁を操る手をとめて顔を上げた崎本さんが、私の方を向いてなんとも答えづらいことを口にし、間髪いれずに女将に一刀両断にされる。
「ぐぬ」
「ぐぬ」
しかしその攻撃は私にも効く。二人そろってばらりずんだ。
この崎本さん、いかにも下町の職人と言った感じの無口で腕の良い料理人ではあるのだけれど、空気を察する能力みたいなものは決定的に欠けている。いや、正確に言うと疑問に思ったことがあると何かを察する前にまず口にしてしまうみたいな性質をもっている。
それでもって本人だけが気づかれていないつもりなのだろうけれど、明らかに女将さんに惚れている。師匠筋だった前の旦那さんへの義理とかなんとかでなにも行動は起こせていないようなのだけれど。
「……いや一応ですね、コレがなければ私だって仲間と一緒に出かける予定はあったんですよ。ゲームの中で、ですけど……」
「なんだい、まだゲームとかなんとか言ってるのかい? そんなんじゃあ良いオトコなんていつまでたっても捕まえられないよ。ってほらお客様だ。接客モードにスイッチいれてちょうだいな?」
そんな崎本さんと一緒にされてはたまらないと、どうにか口にした言い訳は、店の入り口にかかったのれんの先に映った人影に遮られてしまった。
「お邪魔するよ。あら、ユカちゃんじゃない?」
「あ、愛子さん。いらっしゃい」
姿をみせたのは某有名高級ダウンコートを着たマダム。
私がここでバイトを始める前からの店の古い常連さんだ。
その女性、愛子さんは私にコートを預けるとカウンターの右から二番目のいつもの席に腰掛ける。
「ユカちゃん、随分とこき使われてるのね? こんなブラックな店よりうちで働かない? ユカちゃんならもっと楽して稼げると思うわよ?」
「いや、今日はどうしてもしょうがなくてヘルプで入ってるだけですよ。普段から良くしてもらってますから」
「駄目よ愛子さん。ユカちゃんはもううちの娘みたいなもんなんだから、取らないでちょうだい?」
「あら、ザンネン」
口を尖らせる愛子さんに温かいおてふきを手渡し、カウンターにお通しの小鉢を置く。
この愛子さんは、近所の小さなキャバクラのオーナーさん。週に数回、出勤の前にこうやって店に立ち寄って、お酒を少し、肴を少し、会話をもう少しと口を湿らせていくのだ。
こんな感じでこの店、「梟の塒」の客層というのはちょっと特殊だ。
店があるのは路地裏で入口も狭く、知らない人が暖簾を潜るにはちょっと敷居が高い雰囲気になってしまっているし、ホームページもないのでグルメサイトなどの検索でも殆ど引っかかることだってない。
一番多いお客様は近所の飲食業の関係者。愛子さんのようなオーナーさんであったり、店に食材を卸している仲買人さんだったり。あとはキャバ嬢の同伴やアフターなんてのも結構多かったりする。
そんな人たちの口伝てが多いためか、他の居酒屋では大半を占めるスーツ姿の集団を店内で見ることはほとんどない。見た目も職業も一風変わったお客様ばかりだ。
「でも出陣前にユカちゃんの顔が見れて嬉しいわぁ。せっかくだから今日の注文はユカちゃんにお任せ。なにか良さそうなものを見繕ってくれる?」
「うええ、またですか? 私は素人なんだから食材の良し悪しもなんにも、わかんないんですよ?」
「いいの、いいの。私はいつもとちょっと違うものが食べたいだけなんだから」
ひとつ息を吐き、落ち着いたといった風の愛子さんの笑顔から無茶振りが飛び出す。拒絶の意味も込めて一歩身を退くが、彼女の笑顔はそのままに、私を見つめる目線は逸れない。いつもどおり勘弁はしてくれないらしい。
「うう。……崎本さん。今日魚で良いのってどれ?」
「悪いのは仕入れてない」
「ぐ。じゃあお酒は?」
「不味い酒は入れてない」
「ガッデム」
ダメ元で崎本さんに救援要請をするが、返ってきたのはいつもどおりの何の参考にもならないお言葉。
諦めて冷蔵庫とショーウィンドウを兼ねたカウンターのガラスケースに目をやれば、そこには崎本さんの言葉の通り、どれも程度が良くて綺麗な仕事がされた魚が並ぶ。
その美しい光景を眺めながら、私はひととき思考を巡らせる。
仲の良い常連さんや、時には女将さんも。こうやって素人の私に献立を組み立てさせて遊ぶのがこの人たちは何故だか好きなのだ。バイトに入った日のうち、だいたい二回に一回くらいはこんな無茶ぶりをされているような気がする。
愛子さんはいつもどおりの仕事前。となれば揚げ物みたいなあまり重いものはご法度。外は例年よりはすこし気温は高めとはいえ、師走の風は刺すように冷たい。やはり温かい料理のほうが良いだろう。
「うーん。じゃあ、この鰤と白菜で蒸し物とかどうかな。しっかり乗った油がほろっと、それから白菜の甘み。榎と柚子の餡とか添えたら暖かくて美味しそう。あと、お酒はっと……」
私がそう言うと、女将さんが小さなグラスをひとつ私の前に差し出す。
そのグラスを受け取り、カウンターに並んだ日本酒の一升瓶に視線を流す。
この店、「梟の塒」は割烹なんて名前はついているけれどそんなに高級志向な店ではない。並んでいるお酒だって一般酒が主なのだけれど、出入りの酒屋さんはこの街でも老舗の腕利きで、全国から面白いお酒を揃えてくれる。
だからそこに並んでいる酒瓶に貼られているボトルの半分以上は私も今日はじめて見るもので、なんとなくしか味がわからない。
酒造所の名前から味を予想して一つを選んで、ひと舐め。うん美味しい。思ったよりも良い感じだ。これでいこう。
「お酒はこれ。〈月山〉っていう島根のお酒。普通酒も良いけれど、このひやおろしはすごく良いと思う」
「判った」
腕を組んで無表情に私を見ていた崎本さんが、言葉短く頷くと、カウンター内のまな板に食材を並べはじめる。
これは合格の合図だ。崎本さんはお客さんや女将さんが良いと言っても、自分が納得しないと手を動かさない。崎本さんが首を横に降ったらまた最初から考えなおしというのも、この私イジメのルールだったりする。
今では一度や二度程度で合格をもらえるようになったのだけれど、最初の頃は何度も駄目だしをもらっては涙目になったものだ。
「じゃあユカちゃんにもおすそわけ、一杯つきあって?」
徳利に二合、お酒を注いで給仕すると、愛子さんはその徳利を私に掲げる。
「じゃあ、少しだけ。ありがたく頂きます」
横目で女将さんが小さく頷くのを確認した後、私は両手でグラスを持ち頭を下げる。
そして一口。
まるみがある舌触りに、しっかりとした米の旨み。それが一瞬ですうっと消えていくのが心地よい。酸味もほどよく、とってもバランスのいいお酒だ。
「ユカちゃんはいつも本当に美味しそうに飲むわよねえ」
「そうねえ。悪い男に酔い潰されないように気をつけないとねえ」
「う、そういう機会とか全然ないですから大丈夫だと思いますけど……」
「場数がないから危ないのよ?」
片肘をついてグラスを傾ける愛子さんとカウンターの中で腕をくむ女将が私に生暖かい目を向ける。
反論したいところではあるのだけれど、下手な反論は逆効果だ。この分野においては「彼氏いない歴=年齢」な私では百戦錬磨なこのお姉さま方に対抗する術はない。グラスを抱えて小さくなるしかないのだ。
「鰤あがった。持って行ってくれ」
「はいはーい」
厨房からの崎本さんの声を受けて皿を受け取る。
「すりおろした蕪も足してみた」
シンプルな備前の平皿に白い鰤の切り身。崎本さんの言葉どおり、その上にはみぞれまじりのとろりとした琥珀色の餡がかけられている。
添えてある小松菜のお浸しの緑と柚子の黄色もとっても綺麗だ。
「うわあ、すごく美味しそう!」
ふわりと香る柚子に口の中の唾液が増えるのがわかる。いやいやちがう。これは愛子さんのものだ。
「ええと鰤のむしもの、でいいのかな。おまちどうさまです」
少し後ろ髪惹かれる気持ちで愛子さんの前に皿を差し出す。
「あら、本当に美味しそう。なんか取っちゃうみたいで悪いわね」
「そんな顔するな。鰤が余ったら後で作ってやる」
どうやらそんな気持ちが顔に出てしまっていたらしい。愛子さんは楽しそうに、崎本さんにはいつもの仏頂面のまま、そんなことを言われてしまう。
「まあ、余ったらだけどねえ」
女将さんが呟いたそんな時、入り口の障子扉ががらりと開く。
「寒い寒い。熱燗たのむわ!」
「俺はビールでお願いします」
「とうとう降ってきましたよ、雪」
冷たい外の空気ととともに入ってきたのは数名のお客様。近所の大工の棟梁やそこの若い衆。古本屋の主人にタバコ屋のご隠居。みんなこの店の常連ばかりだ。
「お、今日はユカちゃんメニューの日か! こっちにも愛子姐さんと同じのくれよ! 三人前な!」
「イイね、こっちもそれ頼むよ」
「じゃあワシもそれをもらおうかねえ」
それぞれが、勝手にそれぞれお気に入りの席に座ると、いつものようにメニューを見ることもなく注文の声をあげる。
「ええー! 駄目! それじゃあ私のぶんの鰤、余らないじゃん!」
「まあいつものことじゃない。諦めて次のメニューを何か考えてちょうだいな」
思わず悲鳴を上げた私の肩を女将さんがぽんと叩く。
そうしてこの後、三つのメニューをひねり出し、それを全てお客様に平らげられるという、なんとも悔しい年越しを私は迎えたのだった。
ここは、大衆割烹「梟の塒」。
暖かくて美味しくて、時々悔しい、私のバイト先なのである。




