第五話 鬼誕祭 "前編"
始めは何を言われたのか、理解するのに数秒間の時間を要した。
上原はニヤニヤと生理的嫌悪感を催す笑みを浮かべている。
普段から喧嘩に明け暮れ、周りの敵意に晒される事に馴れ続けた明でも、思わず背中に汗をかくほど生温く、吐き気すら感じる嘲笑の顔。
上原の後ろに控えている他のクラスメートたちは何も言わない、いや、言葉に出さなくても伝わってくるこの敵意と悪意。
この感覚には覚えがある。
いつだったか、まだ自分がずっと幼かった頃の、授業参観の日。
どのクラスメートも皆自分の親が来ていたが、明には生まれた頃から両親の顔すら知らなかった。
そんな自分のために、両親のいない自分のために祖母が来てくれたあの日。
その頃の明は今より随分おとなしく、他から見ても扱いやすいと思われていたのか、そんな自分の家族構成に多分の興味と侮蔑に近い感情を持たれても仕方がなかったのだろう。
――お前の家には親がいない
授業参観を終えた後の休み時間。
無遠慮なクラスメートの放った不用意な一言に、明は生まれてはじめて激昂した。
気がつけば滅茶苦茶になった教室と、自分の右拳をマトモに食らい昏倒したクラスメート。
状況に気付き慌てて駆け寄ってくる井上、そして騒ぎの中心である自分を見る目、眼、瞳。
――恐れと侮蔑と悪意と敵意。それらが全て一緒くたになったかのような、暗い眼差し。
――あの時の眼差しと、全く同じ
「……どういう、こった」
「言葉通りの意味さ」
何が可笑しいのだろうか、いまだに嘲笑の顔を崩さずに上原は言葉を続ける。
「君には悪いけど、ここに残ってあの化け物たちの注意を惹いてもらうのさ。別に君にとっては簡単だろう? 今まで散々化け物相手に大活躍したのだからね」
――何勝手な事
その言葉が喉まで出かかっているのに、口に出せない。
上原一人だけなら鉄拳一つで黙らせることなど造作もない。
しかし、上原の後ろに控えているクラスメートたちの視線が、感情が、全て上原の思惑を肯定しているように思えてならなかった。
――まるでお前がやって当然だと言わんばかりではないか
「井上先生はねぇ、君のせいでああなったんじゃ無いの?」
聞き捨てならない台詞が、明の耳に聴こえた。
「何が……」
「化け物たちから逃げてる途中、先生は君の姿が見当たらないことに気づいたのさ、あの先生も相当お人好しだからね、君みたいな問題児でも大切な生徒だからって、周りが止めるのも聞かずに引き返したのさ……!」
上原の声が若干強ばり、そこはかとなく震えている。
だが、そんなことはどうでも良かった
井上が、あの堅物の井上が、自分の身を案じて自ら化け物ののさばる場所に戻ったというのか
自分を、どうしようもないクズ同然の自分のために
「あの化け物どもが何故ああも増えたのには理由がある! 奴等に噛まれたり傷をつけられた者から次々と化け物に変わっていった!ここにいる全員が証人だ! 何しろ目の前で実証されたからね!」
上原の言葉はほとんど明の耳には聞こえなかった。
ただ、井上が、自分を救うために己の身を犠牲にした。
その事実を受け入れるには、明の心は余りにも幼すぎた。
「実際のところ、先生が君さえ見捨ててくれれば、案外あっさり脱出できたんじゃないかな? 先生がいなければぼくたちはただの小学生なんだからね?」
「君には井上先生を犠牲にし、ぼくたちを危険に曝した責任を取ってもらうよ。 ここにいる全員が納得済みさ」
明は虚ろになった瞳で上原とクラスメートを見る。
どいつもこいつも、自分が正しいと言わんばかりの目をしていた。
――俺は、なんでこいつらを助けたんだっけ?
「それにね、どのみち君はぼくたちと一緒には行けないんだよ。……右腕がその有り様じゃあね」
そう言われて明は自分の腕に目を向ける
旅館での奮闘の最中に、化け物に噛み付かれたその痕を見た。
痛々しく抉られたその噛み傷は、赤黒い血と肉を覗かせている。
――何故、今まで痛みを感じなかったのか?
「君には本当に悪いと思ってるよ、みんなを助けたヒーローとこんな形で別れるなんてぼくも悲しいさ、だけどね」
そこまで言った後、上原はまるで演説でもしているかのように一気にまくし立てた。
「君が化け物になると分かっている以上、君を連れて行動するわけにはいかないんだよ! ぼくは学級委員長だ! 委員長としてみんなを危険から遠ざける使命がある! 君がぼくの意見に従うのは当然の義務だ!」
――よく回る舌じゃねぇか。 ……引きちぎってやろうか
ボンヤリと上原の言い分を聞きながら明はそんなことを思い浮かんだ。
それを実行に移す気力など完全に失せていたが。
そうか、自分はもう化け物に片足を突っ込んでる状態だったのか
道理でさっきから元気が有り余っている訳だ
旅館であれほど暴れたのに、傷は痛みを感じず、呼吸はいつの間にか整っている
その気になればいつまでも走ってられる程に、体の奥底から力が沸き上がるような感覚。
上原の勝手過ぎる理屈に、周りもまた興奮じみた様子で次々に賛同の意を表す。
完全に上原の掌の上で踊らされていた。
「そ、そうだ! 上原の言う通りだ!」
――ああ、そっか
「いつ化け物になるかわからないのに一緒にいるなんて危なすぎるわよ!」
――クズが一丁前に、カッコつけたから
「どうせ化け物になるなら俺たちのためにアイツらと戦えよ!」
――やっぱ、バチがあたったのかな
「――お前なんか、どうせ死んだって誰も悲しまないだろ!」
――井上、俺、やっぱり無理だったわ。
心の何処かで、感謝されたかったのかも知れない。
あの不動明王の力強さに当てられて、柄にもなく格好つけた結果がこれでは、なんとも間抜けな話ではないか。
――だが、それも仕方がなかった、解りきった話なのだ。
不良の自分がいくら急に人助けをしても、感謝などされる筈がない。
本当に感謝されるべきなのは、普段から真面目に、普通に生きている人間なのだ。
目の前の上原のような、普通に生きている人間。
だけど、だけどな上原。
「……上原」
――クズにはクズなりの意地ってモンがあるんだぜ。
「わあったよ、俺は、ここに残る」
「皆も言っている!君が残るべきだって――って何?」
まさかこうもあっさりと納得するとは思わなかったのだろう。
今まで得意気な顔をしていた上原が間抜けな顔を晒す。
上原と自分の目が合う。
上原はハッキリと目の前にいる自分の瞳を見た。
その、縦に裂けた瞳孔を。
「ひっ」
違う、今までとは明らかに違う。
ただそこにいるだけで取り込まれそうになる錯覚すら覚える威圧感。
静かに佇む明の姿に、上原はお伽噺の「鬼」の姿を重ねた。
「とっととそいつら連れて俺の前から消えろ」
「ひ、日暮、くん?」
「聞こえなかったのか、上原。…………食い殺すぞコラ」
"食い殺す" そう言った明の口元から覗く牙のようなモノを上原はハッキリと視認した。
あの化け物どもと、全く同じ
――人の内臓を食い破る、白い牙
――殺される
「ヒ、ア、ヒィアアアアアアアアアア!」
「う、上原くん!?」
「ま、待ってよ!!」
なんとも情けない声をあげて上原は逃げ出した。
それに続いてクラスメートたちも後を追いかける。
完全に姿が見えなくなった所で明は右手を顔にやり、心底呆れたといった表情で呟く。
「ケッ、なーにが使命だ、真っ先に逃げてやがる」
先程の上原の悲鳴の大きさからして、この場所を感づかれた可能性がある。
もしかしたら彼らは逃げ切れないかも知れない。
しかし、今の明にとってそんなこと知ったことではなかった。
「結局よぉ……、テメーのために戦うのが一番気が楽なんだよな」
ぞろぞろと湧き出てくる化け物たち。
数は先程よりも多い、自分一人では直ぐ様奴等の餌食になることが予想される。
しかし、
圧倒的絶望を前にしても不思議と落ち着いていた。
完全に殺されると分かっているのに、何故か負ける気がしない。
拳を握りしめ、腹に力を入れる。
瞳は烈火の如く燃え盛り、眼前の敵を射殺さんばかりに睨み付ける。
歯を限界まで食い縛り、溜めに溜めて溜めぬくのだ。
――この怒りを、苛立ちを、鬱憤を
「殺す……。」
悪いが、俺の八つ当たりに付き合ってもらうぜ
皆殺しだ、化け物ども
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「――はい、そうです。"鬼誕祭"が始まりました。既に町中に"悪鬼"が溢れています。 ――ええ、民間人の移送はほぼ完了です」
満月の下に輝くビルの屋上に、この時間帯でいるには余りにも不自然な少女がスマホを片手に佇んでいる。
年の頃は十六、七程で、艶やかな長い黒髪に均整のとれた顔、高めの身長に合った全体的にスラリとした体つきだが、出る所は出て、引っ込む所は引っ込む女性らしいスタイルを持つ。黒いセーラー服が清廉さを併せ持って、全体的に凛とした印象をうける。
十人に聞けば十人ともその少女を"美少女"と表すだろう。
普通と違うのはその身に纏う気配
近づく者全てを、焼き焦がさんばかりの烈火の気配。
「悪鬼どもを一ヶ所に集め、結界術で封じ込めました。後は始末するだけです。――ええ、いくつかの犠牲は……」
犠牲という言葉を発した少女のスマホを握る手に力が籠る。
まるで己の不甲斐なさを戒め、怒りを覚えているようだった。
「今から現場に向かいます。――はい、一匹たりとも逃がしません」
――全て、始末します
通信を切り、スマホをポケットにしまう。
少女は前方の、どこか遠くを一瞬睨みつけ、両の拳を握りしめ、その両腕を交差させる。
「迦楼羅焔」
少女がその言葉を発すると、なんと背中を中心に金色の焔が吹き出し、少女の体を護るように覆った。
普通の焔とはまるで性質が違う、神々しさを感じる眩いまでの輝きを放つ焔である。
――逃がさない、一匹たりとも
全ての鬼は私が殺す
少女の体が金色の焔とともに一瞬浮かんだと思うと、爆音と共に、常人には認識不能な速度でその姿を消した。
後に残ったのは、不気味なほどの静寂だけであった。
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「くたばれ! コラァ!」
もう何発目の前の化け物たちに得意の右ストレートをぶちかましただろうか、眼前の化け物は一瞬ぐらつくが、すぐに何ともなかったかのように明におそいかかる。
明は舌打ちを一つすると同時に、襲ってきた化け物の側面に回り込み、足払いをかけてバランスを崩した後にマウントをとり、その顔面に拳のシャワーを浴びせた。
「オラ! オラ!! オラァ!!!」
連打を受けた化け物はたまらず逃げ出そうとするが、完全に上を取った明の猛攻は止まらない。何発目かの拳を放った明は、直ぐ様飛び退き、背後から迫りつつあった化け物目掛けて渾身の体当たりを食らわせた。
「ウォオオオオオオ!!!」
そのまま押し込み近くの店舗の壁に激突する。壁に思いきりたたきつけられた化け物はあまりの痛みにもんどりうつ。
「まだまだァアアアアアアアア!!!」
更には店舗の近くに置いてあった消火器を手に取り、化け物の頭目掛けて何回も降り下ろす
――ゴスッ ガゴッ ドゴッ ゴギャアッ!
鈍い音が何回も響き、とうとう化け物が沈黙する。
完全に止めを刺したと確信した明は、その顔に凄惨な笑みを浮かべる。
「――へ、へ。 ……よぉやく一匹ぶっ殺したぜぇ……」
荒い息と共にゆっくりと――まるで凶悪犯のような凶相でひとりごちる。
既に身体中は傷だらけであり、全身に血を滲ませている。にも拘らず体が止まる気配がない。まるでブレーキが全て壊れてしまったかのような錯覚を覚える。
身体中が熱い。炎に包まれているみたいだ
まだまだ戦える、いや、もっともっと戦いたい
もっと血がみたイ、血ヲ、内ゾウヲ、アイテノ イノチヲ フミニジリタイ――――
「へへへ……気ぃつけろよぉ? ただで近づいたら……」
「――火傷じゃすまねぇーぞぉ!」
牙を剥き出しにし、化け物の喉元目掛けて飛びかかる。その速度はもはや人間の、ましてや小学生の出せる範疇を越えていた。
飛びかかると同時に喉に食らい付く、生暖かい体温と動脈の感触が心地よく感じる。
そのまま体重をのせて一気に押し倒し、反動を利用して顎を勢いよく引き抜いた。
バツン!
肉が裂けるにしてはやけに奇妙な音が鳴った。喉元を食い破られた化け物は、首から鮮血の華を撒き散らし、その下に出来上がった血の海に沈み絶命した。
「ク、ククク…… 血だ、血、真っ赤な血」
ゆらりと立ち上がった明は口元の血を指先で掬い、
――まるで極上の美酒を楽しむかのように嘗めとった。
「グァアアアア!」
「グルルァアアアアアア!」
仲間を二匹殺され、激昂した化け物たちがその牙と爪を駆使し、明をバラバラにすべく一斉に飛びかかる。
「ぐ、ふ、うぁ」
明はもはや避けようともしなかった。次々に化け物の爪が、牙が身体中に食い込む。元から負傷していた右腕はちぎれかけ、腹部から燃えるような痛みを感じた。それでも明は倒れず、ちぎれかけた右腕を無造作に振り回した。
――ただそれだけで、周囲の化け物たちが吹き飛んだ
「ハァーッ! ハァーッ!」
熱い、熱い、熱い。
腕がちぎれかけているのは分かる。腹から何か飛び出ているのも、
なのになんでこんなにもキモチイイのだろう。
目の前が真っ赤になったり真っ白になる。
脳味噌がぐらぐらと沸騰している。
もっとだ、もっとよこせ、もっとっ!
――――肉が、喰いたい
「ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
そして、その咆哮は天を貫いた