第二十二話 鬼鴉 その5
(間違いねえ、あの野郎だ!)
自分にナイフを投げた男を追いかけながら明は怒りに顔を歪ませる。
逃げ足だけは速かったらしく、自分の健脚でもなかなか追い付けない。
しかし、ここで逃せば二度と捕まえる事は叶わないだろう。何としてでもあの顔面をぶっとばさなければ気がすまなかった。
速度を上げて追いすがる。
丁度、自分が入り組んだ道に誘導されているのにも気がつかずに。
「追いかけっこは終わりだ! いつまで逃げてやがる!?」
気づけば暗い通路に入り込んでいた。消えかかった照明に照らされた男の背中がくすんで見える。
「もう逃がさねーぞテメー……覚悟しやがれ!」
「――――く、くっくっく」
今にも殴りかかろうとしたその時、明の怒声に反応するかのように男が声を圧し殺して笑った。
不気味に上下する肩が異様な雰囲気を醸し出している。
「知ってるか? ここは、俺みたいなクズが使う逃走経路なんだよ」
「なに?」
「組の抗争やサツの突入……そう言ったゴタゴタから安全に逃げ切るルートを俺は幾つも持っている……この通路もその一つだ」
男……沈見 水平がゆっくりと此方を向いた。
「分かるか? お前を死体に変えて東京湾に沈めるには、ここが丁度いいんだよ……クソガキ」
瞬間、爆音を発し、沈見の体が……否、その筋肉が膨張した。
「いっ!?」
思わぬ変貌に一瞬たじろぐ。
その隙を逃す程沈見と言う男は甘くはない。
爆発音と共に地面が抉れ、眼前に猛スピードで迫った沈見の拳を視認した時、明の顔に衝撃が走った。
右の大振りの拳が的確に顔面を打ち抜く。
「ぐぁあああ!」
殴り飛ばされた反動で宙で一回転しながら壁に激突する。
背中を強打し、その激痛に悶える暇もなく。
自らの腹部が破裂したかの様な錯覚を覚え、それが腹にめり込んだ右膝によるものだと知った時、振りかぶったハンマー打ちで通路の床に叩き付けられた。
「が……あ!?」
頭と腹を抑え、仰向けに転がると、足を振り上げ、その靴底を頭に落とそうとする沈見の残虐な笑顔が映った。
――――死ぬ
「うぅううがああああ!」
全力でその場を転がる様に逃げると同時に、降り下ろされた足が床を砕く。
あと一歩遅れていれば頭を叩き潰されていただろう。
明確な死のイメージに背筋に冷たいものが流れる。
「ちっ、よく逃げるじゃねーかああ!? ガキが! これで終わると思ってんじゃあねーだろうな!? テメーのお陰で俺の人生設計は台無しだ! テメーの顔面ミンチにしてコンクリ詰めにでもしなきゃあな―――」
ヨロヨロと立ち上がる明に向かって憎悪の視線を投げる沈見。
その瞳は真っ赤に染まり、頭には青筋が浮かんでいる。
完全に"キレ"ていた。
「気がすまねえぞコラァアアアアアア!!」
能力は限定的で特殊であるが、鬼を恐れる最大の理由は何にせよその強大な「怪力」である。
普通の人間ならまず太刀打ち出来ない。
それに加え沈見は曲がりなりにも裏の世界を生き延びてきた男。
当然、明とは潜ってきた修羅場の質が違う。
強化された右拳が明の顔面に命中する。
ゴキリと鼻の折れる音が鳴り、再び吹っ飛ばされる。
「が……」
「どうした!? 立てやコラァ!! この程度でくたばってんじゃねえぞ!!」
髪を掴んで無理矢理立たせ、何度も何度も顔面を殴る、殴る、殴る。
額を切ったため鮮血が顔を伝う。
口中に鉄の味が。歯も折れたかも知れない。
「ほら、何とか言えよ! なあ!? 俺にここまでやらせたんだぞ!? ちったあ粘って足掻いて見せろよ!? ほら、ほらああああああ!!!」
頭を両手で掴まれ、朦朧とする意識の中見たのは、迫り来る膝――――
グシャリ
「――――!!」
ああ、なんかヤバイなこれ
ほんとに死ぬかも知れない。
だってのに
マジで死ぬかも知れねえってのに
――――熱くなってきた
「……おい、なんだ。なんか言えやコラ」
押し黙った明の頭を片手で持ち上げながら睨む。
明はその怒りに燃える顔を見ながら――――
「………はっ」
鼻で笑った。
まるで下らない物でも見るかのように、最大の侮蔑を込めて沈見を笑い飛ばした。
「クソガキィイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!!」
激昂した沈見の全力の拳が迫る。
吸い込まれるかの様に顔面に叩き付けられ、そして――――
「――――ぎ、ぃいいいいいいいいああああああああ!?」
急に沈見が腕を抑えて踞った。抑えた腕……拳からは、まるで鋭利な刃物で抉られたかのような惨たらしい傷口と、そこから見える真っ白な骨。
そして、流れ落ちる鮮血。
「て、て、てめえぇええ……!!」
「……不味いな。ヤニ臭い」
口元を鮮血の赤に染めた明が、踞る沈見を見下していた。
拳が顔面に直撃した瞬間、変化した「牙」で拳を噛み千切ったのだ。
べっと血肉を吐き捨て、ボコボコにされた顔で沈見を睨む。
既に、半鬼に転身した明の肉体は再生し始めている。
沈見のミスは、下手にいたぶると言う選択肢を取った事だろう。
半鬼となった明の戦闘力は並の鬼とは一線を画する。
そう、不自然な程に。
「糞が……やっぱ大禍に目ぇつけられるだけはあるってか」
「……」
「んならこっちもマジでやるしかねぇなあ……?」
「……テメー、今大禍つったのか?」
明の復讐の対照。二本角の悪鬼、大禍。
やはりこの男も何らかの関わりがあるのだろうか?
「テメーを殺せば不本意だが助けてくれるつったんだよ……ほんとはもっと遊びたかったがそうも言ってられねえみたいだ」
全力で潰す。
その言葉が言い終わると同時に、沈見の周囲に黒い影が……
いや、これは
「カラス……?」
この騒動の中心であるカラス。まだ生き残りがいたのか?
「ただのカラスじゃねえ。何百人もの生き血を啜ってきた歴戦のボスガラスだ!」
「テメーもその一人になるがなああ!!」
沈見が指を向けると、そのカラスはゆっくりと翼を広げた。
その異様たるや通常のカラスを優に超え……
(デカイ……!)
下手な猛禽より鋭いその瞳が自分を捉え
「終わりだ、クソガキ」
瞬間、カラスの姿が消えた。
「――――ックソッタレが!!」
本能的に危機を察知して集中を使う。眼前まで迫り、後一歩で顔面を抉る嘴を捉えるが……。
「ぐ……!! 畜生!」
間一髪……とは行かず、頬を僅かに抉って通り抜ける。
飛び散った肉が痛々しい傷口を彩る。
「は、あれを避けるかよ! じゃあこれはどうだ!」
暗がりから涌き出るように蠢く影、影、影……
そのどれもが不自然なまでに巨大化したカラス達。
「行きな、畜生共! その小僧が今夜の晩飯だ!」
ギャアギャアとけたたましい鳴き声を上げながらカラス達が一斉に襲いかかる。
先程の一羽と同様、そのスピードは通常のそれを遥かに凌駕する。
(数が多すぎる! ……捉えきれねえ!)
剣と化した爪……鬼尖爪を駆使してカラスを必死に振り払うが、上下前後左右から襲いかかるカラス達に明は防戦一方だった。
次々と肉を削られて行く。
服は既にボロボロになり、生傷から血が流れ落ちる。
確かに動きは見えてはいるが、体がそれに追い付かない。
それも一匹ならまだしも複数……暁莉の見せた制空圏が使えれば話は違うだろうが、今の明にそれを為す技術はない。
――――だが
(やるしかねえ! 無理と分かっててもやらなきゃ死ぬ!)
そう、出来ないからと言って諦めたらそこで詰みである。
限界まで粘り、逆転の一手を見つけ出す――――!
顔、特に目を潰されないように両腕で覆いながら一気に駆け出す。
迎え撃つ事が困難ならば自ら動き、逃げ切る……!
(カラスはほっとく! 狙いは)
「テメェだあああああああ!」
沈見に向かって全速力で走る。カラス達も走る明の後ろを追いかける。
「俺を叩くってか? 考えが浅ぇな!」
しかし、沈見の後ろから再びカラスが現れる。どうやら予備兵力として残しておいた切り札らしい。
黒い旋風が、明を飲み込まんと突撃する。
死の嘴が明の全身を貫いたと思われたその時
「ここだ!」
天井に向かって跳躍する。
一回転して両足を天井に叩き付け、筋肉を限界まで収縮させる。
さらに、上へ回避したお陰で背後のカラスと前方のカラスの集団が激突し、何羽かのカラスが同士討ちになる。
沈見は目を見開いている。
その隙を逃す程明は甘くはない。
両足のバネを限界まで縮め、両手の爪を展開する。
狙うはその首……!
「ッッッラァアアアアアッ!!!」
天井をへこませる勢いで蹴りあげ、沈見に向かい突進する。
両手の鬼尖爪を振り上げ、首を叩き斬――――!!
「甘ぇよ」
横合いから衝撃を感じ、吹き飛ばされた。
「ガハッ!?」
そのまま横の通路の壁にまで一気に追いやられ、激突する。
余りの衝撃に血を吐くが、どうにか致命傷は避けられたらしい。
まだ動ける自分の頑丈さに感謝した。
「まさかコイツを出すことになるなんてな」
明の目に飛び込んだのは、翼長二メートルはあろうかと言うほどの大鴉だった。
沈見の腕に止まった大鴉は寒気がするほど血走った目で明を見据える。
――――違う。こいつは、今までとはまるで
「この東京の頂点に立つカラス……それを俺がちょいと手を加えるだけでどうだ! とんでもねえ化け物になった! 正に空の悪魔だ!」
自慢気に話す沈見の顔は喜悦に満ちていた。
あれが奴の切り札。東京のカラス達の王
――――鬼鴉
「……関係ねぇ」
「あ?」
口元の血を拭いながら吐き捨てる。
思わぬ反応に沈見の表情が曇る。どうやら怯える自分を期待してたらしいがそうは行くか。
「テメーの手を汚さねえでカラス達に頼りきってる野郎に負ける訳ねーだろが」
「バカかお前、この状況が理解できてんのか?」
「出来てるさ」
そう言うと明はおもむろに横たわるカラスの死骸を拾い上げ
「――――ん、ぐぐっ!」
「な……!?」
何の躊躇いもなく頭を口に放り込み、噛み千切った。
「お、お前。お前は」
ばりぼりと咀嚼するごとに、カラスの血液が明の口を伝う。
余りの異常さに沈見はたじろぐ。
このガキ、何考えて……?
その時、沈見は信じられない光景を目の当たりにする。
傷だらけだった明の身体がみるみる治癒して行くではないか。
それだけではない、小柄な体に似合わず確かに存在する筋肉が、僅かだが膨張し、その密度が凝縮された事を理解した。
「て、てめえ! 一体何しやがった!?」
「……流石だな。なかなか"いい"命だぜ」
上着を脱ぎ捨て、黒のシャツ一枚になった明が手を確かめる様に握る。
「そうか、カラスの肉だけじゃねえ。命そのものを喰らったのか!」
「当たりだ。気に食わねえがそれしか方法がなかった……」
血肉と命を貪り、自らの回復に宛てる。
それは鬼を忌み嫌う明の最も忌避する行為である。
しかし、生き延びるため、そして眼前の敵を打倒するため敢えてその禁を犯す。
それが明にとってどれ程の屈辱か沈見には分かるはずも無い。
「分かるぜ、俺の身体中をコイツの命が巡ってるのが。そして、コイツらがテメーに心から屈伏してる訳じゃねーってこともな」
ゆらりと陽炎の様に揺らめきながら沈見に向かい歩を進める。
進む明の体から湯気の様なものが涌き出て、それがカラスの形になるのを沈見ははっきりと見た。
「てめえ……!! 自分が何やってるか分かってんのか?」
「無理矢理操られたコイツらの無念が……渦巻いて、煮えたぎって、テメーにぶつけたくてしょうがねえって叫んでんだよ」
俺は、テメーにゴミの様に利用されたコイツらの無念を晴らす。
「テメーにぶちかませってな」
「や、やれ! そいつを殺せ!」
ついに手に佇む巨大カラス、鬼鴉に命令を下す。
同時に生き残りのカラス達も動き、嵐と化した黒い悪魔達が明を貫かんと襲いかかる。
しかし
「さっきとは勝手が違うぜ」
カラスの命を取り込み、その意識の断片をも取り込んだ今の明は完全にとは行かずとも、その行動パターンを把握するに至った。
黒い嵐に歩を進める。
「バカな! 自殺か!?」
逃げるのでも迎え撃つでもない。さも当然の様に嵐に飛び込んだ明に戦慄する。
一方の明は己を渦巻く命の流れに身を任せていた。
(分かる……命の流れが、コイツらを動かす悪意の大元の"気"が)
風に乗るように伝わる流れに沿って動く。ただそれだけでカラスの攻撃は空を切る。
全く当たらない。
「ふ、ふ、ふざけんじゃねえっ!!俺の技が! 切り札が! こんな、こんな、こんなガキに破られるなんざ」
集中を全開にして映る明の視界には、さながら水の中をゆっくりと迫る魚群の如きカラス達が見える。
それを一つ、また一つとすり抜け、時に優しく受け流し、着々と沈見の下へ歩いて行く。
奇しくもその動きは、暁莉の使用した制空圏に酷似していた。
「ち、近付くんじゃあねええええええええええ!!!」
恐怖に駆られた沈見が鬼鴉を突撃させる。
しかし、その動きに洗練されたものは感じない。
横に反らすだけであっさりと避け、遂に沈見の目の前に辿り着いた。
「このガキがァあああああああああああああああ!!!」
拳を挙げる。強大な一撃はしかし、確かな怯えが含んでいた。
その隙間を縫うように懐に飛び込む。
――――いつからか、それともはじめからか。
明の口に集束するものが
「ま、待て! やめ――――」
「コイツがとっておきだ」
がしりと沈見の体を掴み、その怪力で動きを封じる。
口に集束する"気"
カラスの魂が
命が
怨念が
集中し、増幅し
そして、開放された
「鬼哮弾!!!」
口から放出された気の弾丸は正確に沈見の頭部に直撃し、その意識を刈り取った。