第十七話 抱擁
物言わぬ骸に成り果てたネオンの死体を、明は虚ろな目で見ていた。
顔に飛び散った大量の血液が目と鼻腔に入り、非常にうざったい。
しかし、その胸に到来するのは空虚。ただひたすらに虚しい風が明の心を打ちのめした。
鬼を殺すのは初めてではない。むしろネオンのような外道を打ち倒したとなれば、気分も幾分か晴れるかと思ったが、まさかこのような思いに包まれるとは。
――――そういや素面で殺したのは初めてだっけか
顔に手を当てながら空を見上げ、思考に耽る。
最初の転身では鬼の本能に突き動かされるままに殺した。
二度目は表面は冷静でありながら、心中は大禍への憎しみに支配されていた。
今回は確かに怒りと憎しみを抱いていたが、前回と違いある程度の意思と冷静さを保っていた。
「胸糞ワリィ……」
血と肉の感触が苛立たせる。頭がやけに冷えきっているせいか、徐々に自分の仕出かした事が理解出来た。
俺は、この手で、こいつを
それも、女を
――――殺した。
ネオンだったモノの光のない目が自分の目と合う
悲しさと理不尽さ
――――そして、恨みのこもった目
「うぶ! ……げぇえ……!」
吐き気を抑えられず、かがみこんでえずく。
最悪の気分だった。
何故……こんな外道を殺したというのに、一瞬でもある感情を抱いてしまったのか?
そう、喪った命に対する「憐れみ」の感情を
「ち、畜生……!」
体の震えが、止まらない。
怖い
自分の仕出かした事が怖い
ネオンの死体が怖い
死体が語りかけてくるようだ
「今度はお前がこうなる」と
断ち斬られた上半身が、自分の末路のように見えた。
自ら体を抱き蹲る。
破壊した両耳が今更になってズキズキと痛む。
音のない世界、無音の世界が更に心を蝕む。
「明、どうした? どこか痛むのか?」
不意に、明の後ろから声を掛る者が。
しかし、両耳を自ら破壊した明には聞こえない。
それでも明が気付いたのは、聴覚を除いた鬼の超感覚の為である。
「あ、かり……?」
声の正体は暁莉だった。
自分と同じく、鬼を殺したのだろう。所々に返り血が付着している。
心配そうな顔で自分を見る暁莉の姿に、ほんの少しだけ安堵の表情を浮かべる。
しかし、体が動かない。
「暁莉、俺、俺は」
「……そうか、不夜城を打ち倒した、か……」
ゆっくりと自分に歩み寄る暁莉。
明は思わず身構える。今の明にはこちらに近付く暁莉の姿が、自分を滅ぼす者の様に見えた。
その体に付いた血が嫌でもそう思わせる。
放っておいて欲しかった。
ただ、この焦燥のような恐怖が過ぎるまで、ここで……
なのに、こいつは
――――その時、ふわりと何かに包まれるような感覚を覚えた。
「あ……?」
抱き締められた。
膝を着き、自分の体を抱き寄せたのだ。
その柔らかな感覚に明は一瞬何もかも忘れた。
恐怖も
焦りも
そして、体の震えさえも何処かに霧散する。
次いであの時を思い出す。
思い起こされるのはあの夜。
悪鬼に転身した自分を庇った井上の大きな体
そして、泣きそうな顔をしながらも自分を抱き締めた、目の前の――――
「明」
暁莉が何かを言っている。
聞こえなくても解る。その息遣いが、抱き締められた体越しに伝わる心臓の鼓動が、喋っている事を理解する。
やがて、自分と顔を合わせた暁莉が静かに呟くのを、明はその唇の動きから察した。
――――が ん ば っ た な
唇の動きは、確かにそう言っていた。
「……」
音の無いその一言が、体に、心に薫風の如く駆け巡る。
暁莉の目が自分を見る。
その子どもをあやすような眼差しは……
無言で暁莉に身を任せ、静かに目を閉じた。
――――癒される何かを感じつつ、明は意識を手放した。
--
「気絶……いや、安心して眠ってしまったか。こういうところはまだ子どもだな」
身体中を血塗れにした少年は、普段の無愛想からは信じられないほど安らかな顔で眠っていた。
そう、あの夜、自分が抱き締めた時のように。
しばらく顔を眺める。
その顔の横から流れ出る血が、少年が自ら耳を破壊した事を理解する。
そして……
「耳が……」
その引き裂かれた痛々しい傷は確かに治り始めていた。
間違いなく鬼の持つ再生能力。
「運の良い子だよ、全く」
兎に角、このままにはしておけない。
今回の騒ぎをどうにかして収めなければならない。
死体の処理、目撃情報等の隠蔽は他の者が行ってくれる。
今はこの少年を……
勇敢な戦士を、癒す事が先決だ。
「快晴さん、色々とご迷惑をおかけします」
「ありゃ、やっぱりボクがやんの?」
いつの間にか後ろにいた快晴に振り向かず話しかける。
どうやら戦いが収束したのを見届けたらしい。
「いいよ、どうせボクあんまり戦ってないし、後処理は結界術以外だと得意な方だしね」
「本当にすみません」
「いーよいーよ。それより、その子を早く手当てしてやりなよ。なんたって今回のMVPだからね」
おどけて言う快晴に対し苦笑しながら、暁莉は柔らかな視線で明を見つめていた。
快晴自身は暁莉のこのような表情を見るのは初めてだった。
そう、こんな慈愛に満ちた顔をする暁莉は。
(あの暁莉ちゃんがあんな顔を……あの、迦楼羅姫が)
鬼に対する無慈悲さと、圧倒的な戦闘力を誇る金翅鳥の化身がこのような顔をするとは、人生わからないものであると快晴は思った。
子どもを抱くその姿は、母親のそれを思わせた。
--
日の傾き始めた頃、薄暗い道を一組の男女が歩いていた。
男性は息を飲むほど白く長い髪を流した長身の男。
季節に合わない黒いコートを着込み、しかしその顔には汗一つ無い。
女性の方は、女性と言うにはあまりに幼かった。
赤い緩やかな長髪と、あどけない容姿。
年の頃は十二、三といった所だろうか、意思の強そうな表情も相成って可愛らしさを引き出している。
やがて、黒衣の男――――
大禍が口を開いた。
「ネオンが亡くなったみたいだ」
まるで明日の予定でも言うように、極めてあっさりと嘗ての同胞の死を言った。
周りから見れば薄情と受け止められるその台詞を、赤髪の少女は眉一つ動かさずに聞いていた。
そして大禍に答えるべく口を開く。
「失敗、ですか。あの女、大層な事を言っておきながら……」
「ああ、良いんだ。彼女には好きにやれと言っていた。こうなる結果もまた想像出来た筈だったからね」
「しかし、私たちの計画に影響がでる恐れがあります」
「それなら問題は無い。『操作』の実験は全て滞りなく進んでいるよ。彼女は充分役立ってくれた……貶すのは誤りだよ、千雨」
ぽん、と千雨と呼ばれる少女の赤い髪に手のひらを乗せる。
それだけで、鋭い空気を放っていた少女は顔を紅潮させ、顔を伏せた。
「……言い過ぎました。申し訳ありません」
「いいよ。君も、もう一人の彼も、皆順調だ。後数週間もあればこの世界は変わる」
そうなれば私の願いが漸く叶う。
そう……鬼と人、二つの種族の戦いが終わる。素晴らしい世界の到来が。
柔らかな笑みを浮かべそう語る大禍の瞳は、表情とは裏腹に暗く、冷たい赤色を宿していた。
まるで濁った静脈血のような、どす黒い赤色を。
「……あの男、日暮 明はどうしますか? 一本角……それも半鬼でありながら、仮にも二本角を滅ぼした身……危険です」
「彼には期待しているんだ。放って置きなさい」
「ですが……」
尚も言おうとする千雨に対し、大禍はその暗い瞳を向け、言い放つ。
「やけに食い下がるね。……嫉妬かい?」
「――――っ! 違います!」
「ふふ、まあそういうことにしておこうか」
声を大きくして否定する千雨を、大禍はからかうように笑いながら軽く受け流す。
普段は年に似合わない凛とした性格だが、こういう素直な反応を見せてくれるのは嬉しい。
「まあ、千雨が不機嫌になるのは仕方がないか。彼には才能がある。私と同じ才能が……」
「日暮 明に、あなたと同じ……? 信じられません。あんな、不完全な力しかない半鬼が」
「ああ、違う、そうじゃない」
そこまで言い、大禍は千雨に向き直る。
その瞬間、千雨は全身を刃物で突き刺されたかのような錯覚を覚えた。
理知的な主が見せた、身も凍るような「悪意」
なのに、目を離せない。むしろもっと見ていたく、近くに寄りたくなる誘蛾灯の如く怪しい輝き。
大禍という存在はそれを放っていた。
「私の言う才能とは、何も力や能力と言った表面的なモノじゃない。もっと内面的な……精神の問題だよ。そういう意味では千雨、君は失格だな」
「私が、あいつに劣ると……?」
「火が点いたかな? まあ、彼が私と同じ物を持っている事は確かだ。だからこそ期待している。何時かは私と同じステージに立てるかもしれない彼にね」
「……その才能とは、一体何なのですか?」
その疑問を口にした千雨に対し、大禍はにこりと微笑み、語った。
――――それを考えるのもまた、修行の一つさ。
--
明が意識を取り戻した時、そこは既に自宅の布団の上だった。
薄暗い部屋には明以外の人間は居らず、外から流れる風の音と、春蝉の鳴き声が物悲しく感じられる。
――――音が、聞こえる。
思わず耳に手を当てると、不思議な事に破壊した筈の耳が元に戻っている。
そう言えば腕が千切れかけた時も何時の間にか治っていた。これも鬼の力なのだろうか。
軋む体を動かし何とか立ち上がると、目の前のテーブルにラッピングされたオムライスと麦茶があった。
皿に挟まれた書き置きには「自信作だ、今度は美味しいよ」と書かれていた。
アイツ……暁莉が作ったのか。
「……寝起きにオムライスはキツいっつーの」
文句を言いながらラッピングを取り、麦茶を一口飲んだ後、オムライスを口に含んだ。
当然だが、冷めている。
卵も固いし、明の好きな半熟には程遠い。
だが
「……」
――――美味い
心のなかでそう呟く。
空腹も相成って、明はオムライスを完食した。
--
「起きたんだね。オムライス、ちゃんと食べたかな?」
「……ああ」
台所には暁莉が居た。洗い物を終えたのか、両手が水気で濡れていた。
すっかりこの家の一員になっているなと思いながら質問する。
「ばあちゃんは大丈夫なのか」
「あかりさんなら病院に搬送したよ……明王衆お抱えの施設だ。経過を見て二、三日もすれば退院できるよ」
「そっか……」
それなら、いい。
安堵と共に言い、自室に戻ろうとした所、袖を捕まれた。
振り返ると、何が可笑しいのか、ニコニコとした暁莉の姿が。
「なんだよ」
「君、そのまま寝るつもりだったでしょ」
「ああ、だからなんだよ」
「汚いからお風呂入りなさい」
「……」
オメーは俺の母親かっつーの
最近良く呟く様になったセリフを心で反芻する。
ただ、確かにちょっと血生臭い。
折角だからパッと風呂にでも入ってぐっすり寝よう。
そう結論を出した明は浴室に向かった。
--
「っつ……まだ少し滲みるな」
頭から湯をかけると、身体中の薄い傷口に湯が入り込み、滲みる痛みに眉を潜める。
そのままジッと湯船を見て、少し迷った後、覚悟を決めて入った。
「~~~~~っ!!!」
声にならない叫びをあげる。
死ぬほど滲みる。
しかし、それ以上に気持ちいい。
風呂とはこんなに気持ちいい物だったのか?
「生き返るってのはこう言うことなのかもな」
ちゃぷんと湯を顔にかけ、おっさん臭いセリフを言う。
でも、何となくその気持ちも解る気がした。
暫くの間、湯船に身を任せる。
――――沈黙を破ったのは、がらがらと戸を開ける音。
「……は?」
「湯加減はどうかな?」
……
……………
……………………
突然だが、風呂場では何も着けないのがマナーである。
但し、混浴は除く……のか?
全裸に風呂桶という刺激的過ぎる姿の暁莉が、目の前に居た。
腰まで伸びた艶やかな黒髪
妙に色っぽい首から鎖骨の辺り
世の平均を上回るたわわな双丘
きゅっとしまった腰のラインと、うっすら見える腹筋。
そして、その下の――――
何も言わず後ろを向いた。
しかし、明の首から上が紅潮するのを暁莉は見逃さなかった。
「んん? どうしたのかなー明くん? 後ろ向いちゃって」
暁莉のからかう声が癇に障る。
だが、振り向けない。
振り向いたら死ぬ。
絶対死ぬ。
主に出血多量で死ぬ。
後ろからザブンと湯をかける音が聞こえた。
「……んっ、良い湯加減だね、それじゃ失礼するよ」
聞き捨てならない言葉を聞いた。
「おい、お前」
「後ろ、入るよ」
全てを言い切ることなく明の後ろに入り込み、その艶やかな身を湯に浸した。
当然だが、その胸部の大きい膨らみは明の後頭部を優しく、極めて優しく受け止める結果になる。
「……!!」
「ん~~~~っ! いい湯だな~~~~!」
明と同じく年寄り臭いセリフを言う暁莉だが、明本人はそれどころではなかった。
何しろ明には女性との接点どころか、母親の記憶すら無い。
当然ながら免疫なんてモノは一切無い。
だから、こんな……
こんな、ふくよかな物体に身を任せるなど……
産まれて初めてであった。
ちなみにばあちゃんは除外である。
その双丘にうっかり身を任せる度に感動すら覚えた。
(や、やわらけぇ……!)
それしか浮かばない。と言うか、なんて言い表せばいいか分からない。
胸だけではない。もう全身が柔らかい。
胸から下……腹も、腰も、太股も、全てふわっふわである。
明の好きな半熟オムライスそのままである。
「さっきからどうしたのかな? すっかり黙っちゃって」
知ってて聞いているならとんだ食わせものだ
何も言えないことを良いことに暁莉は面白がってあれこれ聞いてくる。
うるさいやめろ、あんまり動くんじゃあねえ!
「日本人には裸の付き合いってのがあるだろ? 恥ずかしがらなくても良いよ」
「オメーは恥ずかしくねーのか」
「別に? だって君、子どもだし」
さらっと言われたその一言にムッとする。
確かに子どもだが、それでもあからさまに言われると何だかムカつく。
「それとも、私とお風呂に入るのは嫌?」
「……」
――――別に、嫌いじゃ、無い。
悲しいかな男の本能か、それとも母を求める子の本能か
明は暁莉を拒絶しなかった。
むしろ、この安らぎを受け入れつつあった。
「今日は頑張ったご褒美だ、思いっきり甘えなさい」
ブクブクと湯に口を浸けながら、明は少しだけ、ほんの少しだけ頷いた。
風呂回ってのが好きなんですよね。