白髪白髭の長老
「なんじゃカール、その奇妙な出で立ちは。……そんなことより、もう戻ったのか?」
グライド族の長は目を点にして、心底呆れた声を出した。
「はい。ユージュ山まで行ってきました。それで、お伝えすべきことが」
「何を言うかと思えば。人間の地図を読めるお前が、ユージュ山までの距離を知らぬわけがあるまい」
長い溜息を吐き、首を横に振る。
「いかなお前とて、不眠不休で往復しても丸二日はかかるぞ」
そう言う長の目の前に、カールは一枚の葉っぱをかざして見せる。
「グリズ様のものです」
手に取って矯めつ眇めつ眺めた後、長は唸った。
「うむ。わしの知る限り、これは樹木に姿を変えたエルフ族の葉じゃ。しかもこの瑞々しさ。カールよ、お主これをどこで拾ったのじゃ」
「長、いくらなんでも疑り深いです。傷つくな、もう」
そこへ少女が割って入った。
「お初にお目にかかります。エルフ族のパーミラと申します。カールの言うことは本当です」
長は目を丸くした。
「なんと!」
黄緑の髪、翡翠の瞳。そして何より特徴的な尖った耳。誰の目にも明らかなエルフの少女である。固まってしまった長を見て、カールは微かに口の端を上げた。
「なんとなんと」
「あー、長。謝罪なんていいですから。それより重大な報告が」
「美しいお嬢さんじゃ」
「……へ?」
「カールが嫁さん候補を連れて来たぞい!」
「聞けよじじい」
複数の足音がした。山道を走る音ではなく、高いところから飛び降りる足音だ。
「なんだって、カールが」
「おかえりカール、おめでとう」
「おおっ、噂に聞いたエルフだ。めっちゃ可愛いぞ」
「あたしという者がありながらーっ」
青い髪の男女が思い思いに騒ぎ立てる。
「お前ら、はぐれ者の俺が旅に出るっつっても無関心だったくせに何言ってやがる。てか、騒々しいんだよ。パーミラがあっけに取られてるだろがっ」
グライド族のうち一人の青年が、カールの肩に腕を乗せた。
「まあ、俺たちのは挨拶がわりの冗談だが。人間の女はどうすんだ。捨てんのか。聞くところによるとお貴族様だと言うじゃねえか。不平等な階級社会の人間たちの中にあって、いい暮らしをしてるとかなんとか。名前はえーと、バ——」
「まーて待て待て。なんでお前がそこまで知ってるのか今は聞かないでおく。その話はまた今度な。今はそれより……」
視線が突き刺さる。そういう経験の乏しいカールではあるが、表情を硬直させて振り向いた。
腕組みし、半目で睨むパーミラと目が合った。視線の温度はかなり低い。
「へえ、カールってばそういう種類の男性なわけね。長はこういうことも含めて勉強させるためにあたしを旅に出したのね、今わかったわ」
硬直を解いた表情筋は、不自然な笑みをひくつかせるのが精々だった。
「何を誤解してるのか知らないが、バレリーは俺の読み書きの先生であって、男女の関係とかそういうのは一切ないから」
「おおっ」
グライド族の仲間たちがさらに騒がしくなった。楽しげに囃し立てる。
「見て見て、痴話喧嘩よ」
「男女の関係って。パーミラさんだっけ。彼女とはもうヤっちゃったのかしら」
「だー! 知り合ったばっかだぞ、まだに決まってんだろっ」
「まだ?」
カールの叫びを受け、パーミラは口に手を当て頬を染める。
「待て待て待て待て。そんな下心は——、そりゃなくはないが今はまだっつーか」
グライド族の女が一人、パーミラに近付くや彼女の肩を抱いた。歯を見せていたずらっぽく笑う。
「こいつ、面白いでしょ。仲良くしてやってね」
「うふ。もちろん。彼、いつもあんな感じなんですか」
パーミラの質問には、グライド族の別の男が返事を寄越した。
「さあね。望みさえすれば、ここがあいつの居場所だってのに。勝手にはぐれ者を気取ってあちこちふらふらしてやがるもんだから、ちょっとからかわれた程度であのざまさ」
「風に愛されてるのよ。もともと一箇所にとどまるような奴じゃないんだわ、きっと。ただ、放っとくと一人でどこまでも飛んでっちゃうんだから。パーミラには是非、あいつの手綱を握ってて欲しいわね」
カールは大きく溜息を吐くと天を見上げた。
「なんか、いつにも増して俺の扱い酷くね?」
長が咳払いをすることで、その場はいったん静かになった。
「滅多にないお客様だ、宴の準備をせよ」
「いえ、お構いなく。あたしが来たことでご迷惑をお掛けしては、長——グリズに叱られますので」
慌てて胸の前で手を振るパーミラ。それに対し、長は満面に好々爺然とした微笑を浮かべて告げる。
「迷惑だなどと微塵も思わぬよ。我らとて宴は好きじゃ。ただ、理由なく催すわけにはいかぬのでな。そなたの訪問はよい口実というわけじゃよ」
ときに……、と内緒話でもするかのようにパーミラの耳に口を寄せ、その実ほとんど声のトーンを下げずに続ける。
「近いうち、そなたとカールの婚姻の宴を開けると嬉しいのう。ああ、こんなのでよければユージュ山へ婿養子に差し出す所存。グリズ様にはご心配なさらぬようお伝えくだされ」
「なに勝手に話進めてんだじじい!」
「やれやれ、礼儀がなっとらんのう。簡単に地を出すようではまだまだじゃ」
カールは深呼吸した。首を振り、自らの頬を叩く。視線に力を込め、長を見据えて言い放つ。
「それどころじゃないんだ。まずは俺の話を聞いてください」
* * * * *
「そうか」
ただ一言。カールが伝えた内容に対し、長が見せた反応は今のところそれだけだ。
「長。俺の話、理解してます?」
「グリズ様は慌てておられたかな」
質問の意図がわからなかったが、ふざけているようには見えないので首を捻りつつ答える。
「いえ、特には」
「では、そういうことだ」
さらに首を捻るカールの横から、パーミラが口を出した。
「当時の戦いをご存知の方は、この事態を予測してある程度の対策を立てているの——ですよね、長」
語尾のあたりで族長に顔を向け、首を傾げる仕草をして確認をとる。
「その通りじゃ。とは言っても我々はエルフ族ほど結界魔法が得意でない。有事の際にはサーマツ王国と共闘するのが最善策じゃが、ワイバーンとの戦いの後、現王に至るまで三代の代替わりがあったからのう。きちんと申し送りされておればよいが」
「されていない場合、どうなるんですか」
エルフ族とアーカンドル王国との関係はすこぶる良好である。エルフ族のエマーユがアーカンドル王家の第四王子と恋仲であることも手伝い、パーミラの世代では、魔族と人間の隔たりを特に意識することなく生活している。
しかし、グライド族長の発言からは魔族と人間を隔てる壁の存在が感じられる。それは分厚くはないが、薄くもない。彼女を戸惑わせるには充分だった。
「我々は我々、人間は人間で別々に対応することになるかもしれぬ」
一〇〇年前とは違い、人間は火薬を使った武器を開発し、実戦投入を始めている。同時に、マジックアイテムの研究も進めてきた。裕福な身分の者や一線級の戦士に限られるとは言え、多数のアイテムを携行することで多彩な魔法を使いこなす人間もいる。
「しかし、今生きておる人間たちは、ワイバーンの脅威を絵空事の類いとしか受け止めておらぬ」
もちろんそれはカールたち若い世代にとっても同じことだ。ところが厄介なことに、人間たちの一部にはマジックアイテムの扱いに長じてきたという驕りがある。はたして現王は、魔族の力を借りずともワイバーンを撃退できると思いこむような王なのだろうか。
「考えていても仕方がない。俺、明日になったら謁見の申請をします」
「それには及ばぬ」
長は何やら作業をしたかと思うとカールに書簡を持たせた。
「三代も前の王からどれだけのことが伝わっておるかわかったものではないが、これを持っていくがよい」
作業の終わりに、長は手紙に蝋を垂らし、硬いものを押し付けて封筒を閉じていた。蝋封である。蝋に刻まれた意匠はサーマツ王の紋章によく似ているが、少し単純化されたものだった。
「長、人間の文字をご存知だったのですか」
だったら貴族の娘に迷惑かけることなく学べたのに、と呟くカール。
「わはは、中身は空っぽじゃ。それにわしが文字を知っておったとして、グライド族としての日々の務めをサボるお主に教えると思うか。これは門番に門前払いされないためのもの。中身が入っておらぬことは忘れずに伝えるのじゃ」
「わかりました」
返事をするカールに頷いて見せると、麓の王国を指差した。
「早速行ってこい。それがあれば夜でも会ってくれる……かもしれぬでな」
「なんすかその不確実な予測」
「伝達が遅くなることでサーマツ王の機嫌を損ねるのは得策ではない」
「……わかりました」
カールは書簡を手にして背を向けた。
「よし、それでは我々はパーミラを囲んで宴会じゃ!」
「くそじじい」
捨て台詞を残して飛び去るのだった。
* * * * *
サーマツ王城へはものの数分で着いた。門番に書簡を渡すと、あっさりとサーマツ王への謁見が許された。
「風の民の若者よ。グライド族長殿の印章を確認した。そちの申すことを信じよう」
国王は側近に二つの命令をした。王国内への戒厳令の発令と、近衛兵団への緊急訓練である。しかし、実際にワイバーンの姿を見たわけでもないのに戒厳令というのは、いくらなんでも過剰な対応ではなかろうか。
「陛下。戒厳令は……いえ、意見は控えます。何卒お赦しを」
カールは、身分や階級にこだわる人間のことを書物を通じて学んできた。ある国では、国王に苦言を呈するだけで首を刎ねられた側近が何人もいるという。冷や汗をかき、口を噤んだ。
「よい。言わんとすることはわかるぞ。現時点においては我が王国が襲われるかどうかすらわからぬのだからな。だがワイバーンの復活を知ってなお、対策を後回しにして後悔したくはないのだ」
それに、と続ける王の瞳には憧憬と呼ぶべき光が灯っていた。
「そちは知らぬだろうが、かつてこの大陸には『ラージアンの英雄』と呼ばれる人物がいた。魔族だが、人間も魔族も関係なく救った男だ。その英雄の名はグリズ。今はエルフ族の族長となっておる」
その話はカールも知っていた。バレリーが書いてくれた写本の中にあったからだ。ただし、その本には固有名詞は書かれていなかった。
——それでは、あれはグリズ様のことを記した本だったのか。
しかし余計なことを言って国王の話の腰を折るつもりはない。もっと詳しく聞きたかったものの、その衝動を堪えて黙って聞いていた。
「そのグリズ殿の言葉だと言うのなら、余は疑うことをせぬ」
深々と頭を下げ、辞去しようとした時、王は何かを思い出したように声を上げてカールを呼び止めた。
「グライド族の長に伝えよ。そちらにその気があるのなら、ワイバーン来襲の際は余と共にその脅威に対応してもらいたい、と」
その言葉に、カールは深く傅いて肯定の意を示した。
ほとんど日没の時間だが、夕暮れが夕闇に変わるまでにはほんの少し猶予がある。
王城から出たカールは、マミナに会おうと考えていた。旅の予定を延期するつもりだからだ。
当初、自分の役目はここまでと決めていたので、翌日の出発予定を変更する気はなかった。しかし。
「人間と共闘ということになれば、人間の軍隊とグライド族による合同訓練が必要になる」
行動の早い国王のこと、襲撃の有無にかかわらず、こちらが応じればすぐにでも合同訓練を始めるはずだ。
「俺一人、無関係を気取って逃げるわけにはいかない……よな」
ワイバーンのことはギムレイにも伝えてある。彼の口からマミナに伝われば何の問題もないが、旅の延期はやはり自分の口で伝えたい。
ギムレイによれば、マミナはサーマツ王国の町外れにぽつんと建つ牧畜農家に入り浸っていると言う。いったんそこに寄ってみよう。そこにマミナがいなければフェアリー族の群れがいる場所へ。グライド族のところへ戻るのはその後でも遅くない。
予定を決め、飛び始める。その時だった。
間近に雷でも落ちたかのような轟音。
思わず空中に静止して上空を見上げた。
折しも、国民に戒厳令の発令を知らせる騎兵隊が王国の街道を疾走していた。その彼らも、視線が吸い寄せられるかのように上空を見上げた。
巨大な翼を広げ、悠然と飛ぶ禍々しい姿。霹靂のごとき雄叫びの主。
ワイバーンだ。
広げた翼の全長は、人間の成人男性の身長にして約五人分に達する。真っ赤な体をしており、鋭い嘴と鋭い鉤爪が夕暮れの陽光を反射して輝いている。
「レッドワイバーンだと」
赤い体色の個体。そいつは、ファイヤーブレスを吐くことができるに違いない。
ぎらつく眼差しが、獲物を求めて地上に注がれている。この町を攻撃するつもりだ。
「くそっ、よりによってこの町に来やがるとは」
ふと見ると、王城の横に正規軍が整列している。その後ろには魔法部隊も展開しているようだ。
攻城用の投石機を複雑にしたような形の兵器も城内から引っ張り出されているところだった。
ワイバーンの注意は、今や完全に人間の軍隊へと向けられている。
カールはワイバーンの注意を引かないよう、地表すれすれを飛んだ。
「…………っ!」
迫り来る熱波の予感。
彼は本能的に急上昇した。
破裂音。
つい今しがた、カールが飛んでいた街道がめくれ上がり、地面が燃えている。
息を呑んだ。
視線を正面に向けると、その先にワイバーンがいる。距離は二〇アード。
嘴の両脇から煙が立ち上っている。
「ちょ……、待てよっ!」
何故だ。何故明確な敵意を向ける人間の軍隊ではなく、この自分が狙われているのだ。
彼は混乱したが、次の瞬間急降下した。夕日を反射する金属のきらめきをワイバーンの背後に認めたからだ。
人間の軍隊が放つ矢が、ワイバーン目がけて飛んでいく。
「ばかやろう、街道はまだ軍人以外の人間がたくさんいるんだぞっ」
矢ごときではワイバーンの体に傷さえつけられまい。むしろ、罪の無い民間人が矢のせいで命を落とすかもしれない。
恐怖に駆られた兵隊が命令を待たずに矢を射かけたのに違いない。そして、その行動を合図に次々に。
「もっとも、臆病な点では俺も他人のこと言えないけどな」
カールは人間の耳の高さを保って飛び回り、周囲に大声で呼びかける。
「みんな、手近な家の中に逃げ込め! 仲間の矢にやられるぞっ」
彼の声は届かない。人々はパニックを起こして思い思いの方向へと走り出す。しかし、家に逃げ込んだところで安心できるわけじゃない。ワイバーンのファイヤーブレスにやられるかもしれないのだから。
ワイバーンは、逃げ回るカールからいったん視線を外した。ひとまず標的を、武器を使って攻撃してくる相手に定めたようだ。王城の方向へと飛び去っていく。
何本かの矢はカールの体を掠めたが、怪我はせずに済んだ。だが、何人かの哀れな通行人はただでは済まなかった。突然空から飛来した自国の軍隊の矢に刺し貫かれて絶命した者もいれば、大怪我を負った者もいる。
怪我人たちの様子を見た彼は冷や汗をかいていた。彼が急降下したあたりは、放物線を描く矢がまさしく到達する地点だったのだから。それで結局誰を助けることもできなかった。
「くそ、くそっ。全く何の意味もないじゃないか」
彼は牧畜農家を目指した。そこにマミナがいるとは限らない。だが、妙な胸騒ぎがして、立ち寄らずにはいられなくなっていた。
高速で飛び去るカールには気付くことができなかった。
その背をめがけ、ワイバーンが追ってきていることを。