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鼻をくすぐる金糸の束

 まだ真昼と言って差し支えない時間、夏の穏やかな風が高原を吹き渡ってゆく。

 荷馬車隊周辺の喧騒はとうに収まり、静かな時が流れている。

 馬車のそばの地面に、豚の顔と四本の腕を持つ巨漢が倒れていた。半透明の糸でぐるぐる巻きにされているのだ。

「なんだ、この糸は。トラップスパイダーの糸よりも透き通っているのに、それよりも強いというのか。わしの力でも引き千切ることができん」

 幾度となく渾身の力を振り絞ったのであろう。巨漢の全身から汗が噴き出している。そんな彼と遜色ない身長の偉丈夫が、傍らに屈んで見下ろしていた。

「オークの旦那。あんたが誰も殺さずにおいてくれたので、わが主もあんたを殺すつもりはないとの仰せだ。これに懲りたなら、二度と人間を襲わぬことだな。次にこの近辺で知り合いが被害に遭ったなら、わが主は容赦しない」

 暫し沈黙。

 片方の目を見開き、他方は眇めると、オークは溜息混じりに呟いた。

「おいおい。それって、今後この近辺でそっちの金髪坊やの知り合いが襲われる事件が起きたなら、その犯人が誰であれこのわしを殺す、と。そういうことか」

「主のお知り合いは多いぞ。心しておけよ」

 凄むことなく爽やかな笑顔で告げる偉丈夫に対し、オークの頬を先程までとは別種の汗が伝い落ちた。

「お兄さんキースっていうのね。あたしマミナ、よろしくね」

 少女の朗らかな声に、偉丈夫とオークは揃って首を向ける。いずれも金髪の男女が向かい合っており、フェアリーは男の肩に座っていた。

「へえ、人間なの。それなのにオークと肉弾戦をして勝っちゃうなんて素敵!」

「そうでもないさ。オークからいいパンチ、何発か貰ったからな」

 言いながら、キースは赤く腫れた頬を撫でる。

「それでも気絶しないんだから凄いわよ。魔族のくせにヘタレのカールとはえらい違いだわ。あ、そっちのお姉さんは——」

「エルザです。見ず知らずのわたしたちを助けてくださって、本当にありがとうございます」

 その会話が耳に届くや、オークは半目で偉丈夫をにらんだ。

「なあ、兄さんよ」

「リュウだ」

「リュウ。さっき、知り合いだとか言ってなかったか」

「うむ。今この瞬間からな」

 しれっと言い放つ偉丈夫。彼に聞こえるように大きく舌打ちしてみせると、オークは金髪女性へ視線を向けた。

 目が合う。彼女は時折こちらを窺っていたようだ。だが、彼がいくら睨みつけてもあまり怯えた様子を見せなくなっていた。

 そんな彼女にキースが二言三言話しかける。するとマミナが話に割り込むかのように「ええーっ」などと頓狂な声を上げ、四枚の羽を出現させて宙に舞う。空中に光の筋を曳いたかと見るやエルフの肩に腰を下ろした。

「わあ、綺麗。フェアリーを見るのは初めてよ。あ、あたしエマーユ。よろしくね」

「うん、こちらこそ。エマーユってすっごい美人っ」

 その間もキースとエルザがなにやら話しているが、その声はオークの耳に届かない。エルザが自分のことを恐れなくなったことよりも、今は話の内容が気にかかる。オークは耳に神経を集中した。

「うおっ」

 視界の外から黒髪の青年が現れ、オークは不覚にも声を上げてしまった。これだけ耳を澄ましていたにもかかわらず、足音が一切聞こえなかったのだ。その青年こそ、彼をぐるぐる巻きに縛り上げた張本人である。

「ちっ。やっぱりるのか。覚悟ならできておる。どうせなら一思いに頼む。そのくらいの力は持っているのだろう」

「…………」

 だが、青年は彼を縛る糸に無造作に触れると、あっという間に解いてしまった。

「上等だ。このわしと再戦しようというのか」

 オークは戦意と緊張で瞳をぎらつかせながら立ち上がる。そんな彼の正面に進み出たのは、あろうことかエルザだった。

「あの……。オークさん。さっきは怖がったりしてごめんなさい。わたしのこと気に入ってくださってありがとう。ええと、オークさん。お名前教えてくださいませんか。

 それで、もし。もしよかったら、わたしと一緒に。一緒に、その……」

 エルザは一旦顔を伏せ、瞳に力を込めてから決然と顔を上げた。うっすらと頬を染め、真摯に見上げて訴えかける。

「この一座でサーカスをしませんか。結婚は……、その、今すぐじゃなくて。時間をかけてゆっくりと」

「は……え?」

 見開かれたオークの瞳から、戦意も緊張も抜けてゆく。四本腕をだらりと垂らす彼のそばに、キースが歩み寄ってきた。

 最早互いに殺気の欠片もない。金髪少年は軽くオークの胸板を小突くと、笑みを含んだ声で告げる。

「この色男。最初っからストレートに告白すりゃよかったんじゃねえか」

 全ての反応が凍結していたオークがようやく解凍を果たす。威厳の微塵もない声で応じた。

「告白ったって、わしはこんな豚顔だぞ。拉致でもしなきゃ付き合ってもらえないに決まって——」

 四本腕のうち一つの掌が、小さな両手で挟み込むように包まれた。エルザの金髪がオークの鼻をくすぐるほどの位置で風に揺れている。

 入れ替わるように数歩後退ったキースが言った。

「あんた、怪我が最小限で済むように上手く殴ってる。オークが本気で殴ったら、俺の頬骨なんて割れてたに違いないからな。殺気の鋭さにはびびったけど、きちんと手加減してくれてるのもわかった。だから、話せばわかると思ったのさ」

 オークはひとつ溜息を付いてからエルザの視線を真正面に受け止めた。

「いいのか。わしはさっき、この手でお前の手首を掴み、それからこの手で……その、なんだ」

「うふ。気持ち良かったですよ」

 天を仰いだオークは、今日一番穏やかな声で呟いた。

「思ったよりも世界は広いのだな。こんなわしを受け入れてくれる人間がいるとは」

 再びエルザと視線を絡める。

「トムソンだ」

「え?」

「わしの名前。結婚のことは一旦忘れてくれ。友達になってくれればそれでいい。

 ……お、おい。エルザ?」

 突然懐に飛び込むと、彼女は頬を胸板に押し付けたのだ。

「いやよ」

「なに」

「あなたは求婚してくださったのよ。お付き合いは結婚前提に決まってます。責任取ってくださいね、トムソン」

 エマーユが拍手し、マミナが口笛を吹いた。

「う、うう」

 それが合図というわけではあるまいが、サーカスの団員たちが次々に起き上がってきた。

 その場で頭を振る者が多い中、真っ先にこちらへ歩いてくるのは団長だろうか。小肥りで背は低めだが、この暑さにもかかわらず黒のバルーンパンツと赤いジャケットをきっちりと着こなし、ちょび髭を蓄えた中年の男性だ。ふらふらとした足取りが正常なものとなるにつれ、頭もハッキリしてきたようだ。

「一体なにがどうなって……っ! お、お前はさっきのオーク! エルザをどうする気だっ」

 その声に、オークの胸板に顔をうずめていたエルザは頭半分だけ振り向いた。

「あら、おはよう団長。わたし、トムソン——、この人と婚約したわ。それから、トムソンも今日からここの団員になるの。よろしくね」

 一方的に宣言され、団長は何度か口を開こうとしたものの意味のある言葉を紡ぐことができなかった。


* * * * *


 サーマツ王城襲撃の翌日、王国から遠く離れた荒野。見渡す限り地平線が続くその場所で、小男の悲鳴が響き渡った。

 噴火さながらに赤い滴が噴き上がり、放物線を描いて荒れた地面に降り注ぐ。

「俺が! 俺がいなきゃワイバーンは! 誰の命令も受け付け、ないんだ、ぞ!」

 両腕の肘から先を失いながら、ピエロが叫ぶ。

 彼の肘から先を奪ったのは他ならぬワイバーンだ。紅色の竜は今、音を立てて小男の腕を咀嚼している。

 その様子を、腕組みしながら無表情に眺める男がいた。サーマツ王の元側近にして武人のごとき体躯を誇る、アイエンタールである。

「めでたい奴だ。貴様の役割はここまで。ここから先、ワイバーンは私の依頼だけを聞くことになる。今の世の中、武力と権力はほぼ同義。貴様ごときにいつまでも大いなる力を預けておくわけがあるまい」

 サーマツ王の側近として仕事をする傍らで謀反の準備を進める間、ワイバーンの世話役がどうしても必要だった。アイエンタールは独り言のように静かな声でそう告げた。実際、ピエロが聞いていようがいまいが構わないらしく、まさしく独り言なのかもしれない。

 小男は抗議の声を上げようとしたようだが、ほとんど言葉にならない。何よりも苦痛が勝り、口をついて出るのは悲鳴でしかなくなっていた。

「ピエロよ。ひとつ教えておいてやろう。ワイバーンほどの魔物となれば、何をどのように強制しようと、その意識を完全に封じ込めるのは難しい。だから、叱りつけたり禁止したりして無理やりこちらの言うことを聞かせるのは禁物だ。自由意志を尊重した上でこちらの希望に沿うよう依頼すべし。頭ごなしの命令を繰り返せば、それを恨みとして必ず報復するため執念深く記憶してしまうのだからな。こんな具合に」

 ワイバーンが咆哮を轟かせた。その様子は見ようによってはアイエンタールに同意しているようにも見える。

「窮鼠猫を噛むと言うが、このワイバーンの片目を潰すとはな。グライド族を侮り過ぎたか。明後日の再戦はワイバーンの意志。尊重してやらんとな」

 小男の腕をことさらに時間をかけて咀嚼したワイバーンは、ごくりと嚥下した。その様子を見上げていたアイエンタールは、冷え切った視線を小男に突き刺す。

「楽には死なせてもらえんぞ。首一つになってもすぐには意識が消えぬよう、このワイバーンが貴様に呪いをかけたようだからな。もうしばらく、生きたまま切り刻まれる苦痛を味わうが良い」

 竜の嘴が小男に迫った。

 断末魔としか思えぬ絶叫は、それから二時間ほど続くのだった。

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