奪われた青い魔石
「お前は!」
ギムレイが叫んだ。彼は王と将軍の眼前に割り込むと、小男目掛けて突進していく。
「ローラを離せ」
それに対し、黒い霞が小男を守るように移動する。霞はその場に留まることなく、流れる動きでウォーガへと襲いかかった。
「か……はっ」
ギムレイの全身に紫電が這い回り、巨体を数歩押し戻した。転倒したギムレイは痺れてしまったらしく、苦しげに呻くばかりで起き上がることができない。
「やあ、ギムレイくん。こいつは驚いたな、まさか俺のことを思い出すとは」
目を丸くしてみせたピエロだが、すぐに冷笑を浮かべる。
「が……あっ」
起き上がろうとしたギムレイに再び霞が襲いかかり、さっきと同じように紫電が這い回る。
「君はでかいからな。ただ立ってるだけでおっかない。しばらく寝ててもらおうか。
まあ、そう心配しなさんな。この娘は俺たちがこの場を去るまでの盾に過ぎん。連れて行きはしないさ。何せ、ずっと価値ある人質があるんだからな」
そう言うと、彼はアイエンタールをちらと振り返り目配せする。再び正面を向くと、ギムレイを無視して王に視線を据えた。尊大な口調で告げる。
「アイエンタール閣下にはいずれ皇帝になっていただくのだ。そうだな、サーマツ帝国とでもしようか。この国を足がかりにするのだ、せめて名前くらいは使わせてもらわんとな。そしてこの俺は晴れて大臣様だぜ」
淀みなく話し続けるピエロの後ろで、アイエンタールは黙って成り行きを見守っていた。
「何と言っても、あのワイバーンを操ることができるのはこの俺だけなんだからな」
ピエロが得意げに言い放った途端、未来のサーマツ帝国皇帝たらんとする男の顔面に影が落ちる。彼は小男に蔑む目を向けると、密かに口の端を吊り上げるのだった。
「 今でこそ閣下に従う者の数は両手で数えられる程度。だが」
ピエロはローラの胸元に手を伸ばした。
「んっ——」
無造作にペンダントを引きちぎる。
「うん、これだよ、これ。他人のものを奪う快感。俺たち人間の寿命は短い。笑わせるより笑う側でいた方が絶対に楽しいぜ」
手にしたタイゲイラを国王に見せつけるように掲げると、そのまま懐に収めてしまった。
「さて。タイゲイラはこちらの物。その上、今回の屈辱によってワイバーンの凶暴性は二割増し。こりゃ、勝負の行方は改めて考えるまでもないと思うんだが。ウォルケノ王のことだから、それでも降伏なんてしないんだろうねえ」
「…………」
王の沈黙を肯定と受け止め、ピエロは極端に口の端を吊り上げる。
「嬉しいね。期待通りの闘志だよ、ウォルケノ王。その闘志に免じて少しくらいなら条件を緩めてやろうか。あんたらの方から要請したのでなく、勝手に力を貸してくれるような殊勝な連中がいるのなら、そいつらとも共闘すればいいさ」
語尾のあたりで堪えきれなくなったかのように噴き出し、言葉に笑いが混じる。王を小馬鹿にしたように目を細めると、言葉を続けた。
「どのみち、たったの三日で援軍を用意できる国家や武闘派の魔族なんて、この近辺には存在しないんだけどな」
もしそのような国があったとしても、他国への軍隊派遣は難しいだろう。
ワイバーンの脅威から真っ先に守るべきは自国である。しかし無理に軍隊を他所に派遣した場合、自国の守りが手薄になる。それを見計らうかのようにワイバーンに襲われたらどうするのか。
そういった不満は、襲撃の有無にかかわらず国民の胸中にわだかまるものだ。批判として噴出することにでもなれば、王は国民からの信を失うことになりかねない。特に、このあたりは長閑な辺境である。地方領主を完全に抑えつけられるほどの強権を持つ王など、ほとんどいない。
「どうかね、降伏する気になったかね。降伏するのならば、おまえさんと地下牢の連中を処刑するだけで済ませてやるぞ。それもまた、戦って死ぬのと同じくらい英雄的な判断だとは思わないか、ウォルケノ王」
黙って聞いていた国王ではあるが、その視線はいよいよ温度を下げた。周囲に居並ぶサーマツ兵たちの中にさえ、青い顔で身を震わせる者もいる。
——あの時の陛下ならば、空飛ぶ紅竜でさえ視線一つで氷像に変えることができたに違いない。
後に一部の兵の間で語り草となるであろうほどの苛烈さを込めて、国王の視線はアイエンタールとピエロを射抜く。
「言え。妻と息子に何をした」
その質問にはアイエンタールが答えた。
「今のところは何も。両殿下には大臣らと共に地下牢でお寛ぎ頂いております。そこに落ちている鍵も本物。さらに、三日分の保存食も用意してございます。おとなしくしていれば生命の心配はないでしょう。ただし」
そこで言葉を切る。ピエロが耳障りな甲高い笑い声を立て、後を引き継いだ。
「おとなしくしてなかった場合、命の保証はできねえってことさ。ああ、鍵は返してやるが、この三日間はやめといた方がいいぜ、会いに行くの」
言いながら、ピエロは懐から小瓶を取り出した。中味を侍従長の遺体へと垂らす。それは紫色の液状の物体……、否。
液体ではない。どろりとした粘性をもつ、発酵直前のチーズのような物体だ。瓶から零れ落ちると、うねうねと蠕動しながら侍従長に覆い被さった。
「スライムか。しかも屍肉喰いの」
ガルフェンが呟くと、グライド族たちが身構えた。それ——スライムは確かに生物なのだ。
「黙って見てろ。この娘を無事に返して欲しければな」
湿った音を立てるスライムは、老人の死体へと浸透してゆく。それと同時に、湯気や煙に似た、しかしそれらとは決定的に違う禍々しさを持つ霧状の物体が立ち上る。それは、瘴気と呼ばれる類のもの。スライムが屍肉を喰らうことで、死体の肉は溶け崩れ、スライム自身も別のものに変質する。
「よせ。それは、死者への冒涜だ——ぐあっ」
起き上がろうとしたギムレイだったが、再び霞からの電撃を受けてしまった。
「だからおとなしく見てろって。今日のところは、これ以上誰かを殺そうってんじゃないんだからさ」
『これ以上』の部分にアクセントをつけて言う。将軍が顔色を変えた。
「貴様……。何人殺したっ」
「このジジイを含めて四人だな。ワイバーンにやられた奴らをひっくるめても十人ってところじゃねえかな」
ほどなく食事を終えたスライムは、もと老人だった身体の核へと変質した。がちゃがちゃと音を立て、その身体が立ち上がる。
「ふははは。閣下に忠実な、スケルトン戦士の誕生だぜ。ま、もとがジジイだから少々脆いがな」
骸骨戦士として生まれ変わったもと老人の、閉じる瞼を持たぬ眼窩に光が宿る。それは、紅く禍々しい光だった。
そのとき国王の脇から、緑の髪の少女が滑るようにしてウォーガへと駆け寄った。
「ギムレイ、ローラ」
倒れ伏すウォーガを助け起こすべくパーミラが伸ばした腕に、黒い霞がまとわりついた。
「あっ」
振り払おうとしたものの、左右の手首に一対の腕輪のように巻きつく。と言っても枷のように繋がっているわけではないので、手を動かす分には不自由はない。
「ご心配なく。現時点でエルフ族にまで喧嘩を売るほど、俺は無分別ではない。その腕輪は治癒魔法の発動を阻害する。なに、この三日間、治癒魔法を使わずにいてくれればそれでいい」
「冗談じゃないわ。カールの怪我はまだ完治してないのよ」
パーミラは小男の言葉に逆らい、腕輪を掴んだ。彼女の脳裏にカールの姿が浮かぶ。救護所で昏睡する彼は、文字通り満身創痍である。一番酷かった腹の傷を真っ先に塞いだが、それでさえまだまだ治療が必要だ。急速に治癒するには怪我人本人の体力も必要なので、一気に治すわけにはいかなかったのである。
「こんな腕輪——」
力を込め、一息に引っ張る。
「くあああっ」
少女の細い身体を紫電が走り抜け、顎を上げて仰け反ると、ギムレイに覆い被さるようにして倒れてしまった。
「んん、んーっ」
ほぼ同じタイミングで、ローラの口からも苦鳴が漏れる。
「おっと。説明が遅れたね」
その様子を眺め、小男はにやにやと笑った。
「君に嵌めた腕輪とこの赤毛の娘に嵌めた腕輪は繋がっててね。無理に外そうとした場合はもちろん、治癒魔法を使った場合も今みたいなことになるから気をつけたまえよ」
ギムレイが唸る。
「きさまという奴は……っ」
パーミラが懇願する。
「やめて! ローラにまで酷いことをしないでっ」
しかし、ピエロはにやにやと笑って見せた。
「そうだね、この娘はただの人間だものな。電撃の勢いは君の腕輪よりずっと弱くしてあるよ。腕輪は三日間経過したら自然に消える。それまでの辛抱さ」
骨が鳴る。スケルトンが動いたのだ。骨の手でパーミラの肩を掴むと、そのまま突き飛ばしてしまう。
「や……あっ」
彼女を抱きとめた国王が怒鳴る。
「やめよ愚か者! これ以上の狼藉を見過ごすつもりはないっ」
スケルトンは歯をがちがち鳴らしている。ギムレイに噛みつこうとしているようだ。
「ギムレイ」
助けに行こうとする少女の肩を、国王はがっしりと掴んで制止した。
将軍が剣を抜き、それに気付いたスケルトンはギムレイから離れて身構えたのだ。
「ふん」
ピエロは鼻で笑ったものの、スケルトンに命令する。
「戻れ、スケルトン。今は誰にも手出ししてはならん」
骸骨戦士はおとなしく従い、小男の横を通ってアイエンタールの後ろに控える。在りし日の侍従長のように背筋を伸ばして。
そちらには目もくれず、ピエロは国王に向かって話し出した。
「さっき四人殺したと言ったろ。実は、監禁した大臣ども十人のうち三人までがスケルトンでな。今は生前の姿に完璧に偽装している」
気色ばむ国王と将軍を構うことなく話を続ける。その内容に、国王は歯軋りをし、パーミラの肩を掴む握力が増す。パーミラはその痛みを感じていないわけではないが、それよりもピエロの言葉に衝撃を受けていた。
三人の骨に寄生しているのはごく弱いスライムだという。スケルトンと化した三体は自発的に人を襲うことはせず、三日後の日没と同時に自然消滅するとのことだ。
問題は、ピエロが次に説明した点である。
曰く、三日後の日没前に、監禁されている者とは別の人間が地下牢に入るとスライムは自滅するという。自滅の際には毒を撒き散らすらしく、それは地下牢の人間を全員即死させるに足る猛毒だというのだ。
なお、自発的に襲わないとは言え、期限内に他の人間が侵入すれば、スケルトンのうち二体が王妃と王子を拘束し、残る一体が自滅する手筈だという。大臣のうちどの三人が入れ替わっているかわからない以上、期限前に突入して救出するのは極めて困難である。
「自然消滅の場合は毒を出さないように依頼だけはしてはおいた。三日後に消滅するのは奴ら本来の寿命だが、自然消滅時に毒を出すか出さないかについては契約で拘束していないのでな」
「なん……だと。貴様それでも人間か」
「ひどい」
居合わせる人々の驚愕や非難を聞き流し、ピエロは心から楽しそうな表情をして見せた。
「万が一、おまえたちが無事に三日後の日没を迎えられたとして、地下牢から何人助け出せるかな。骸骨どものうち一体でも毒を撒くやつがいたとして、真っ先に死ぬのは大臣かな。まさか両殿下より先に脱出しようとはせんだろうし。
それとも日没だし、幼い王子はおねむの時間かも知れん。ぐっすり寝てたらたっぷり毒を吸い込むことだろう。やっぱり、真っ先に死ぬのは王子——」
「ふざけるな!」
国王が声を荒げた。
アイエンタールは一つ溜息を吐き、形の上でだけはピエロを窘めた。
「そのくらいにしておけ」
「閣下の仰せのままに」
小男は視線を国王に据えてにやにやと笑ったまま、背後の皇帝候補に対して敬意の欠片もない芝居がかった返事を寄越した。
黙って顎髭を撫でていたガルフェンが、何かに気付いたのか「ふむ」と唸る。
「スライムとの『契約』と言ったな。おまえたち、大陸最悪の魔族——闇の民と接触したのだな。契約に基づく妖魔の使役。それは闇の民秘伝の技術。闇の民など、とうに滅んだものと思っておったが。ワイバーンとも何らかの契約を交わしたか」
ガルフェンが硬い声で告げる。それに対し、アイエンタールは心持ち眉を持ち上げながら視線を向けた。ただその態度は、いま初めて彼の存在に気付いたとでも言うべき無関心の裏返しでもあった。
「流石は年寄り、物知りだな。半分正解だ。だがな、族長よ。我ら人間の一部は幼い頃から文字を学ぶ。中でも学者となると、大昔の文字をも研究する」
喋りながら小男を手招きすると、彼の手から魔石を受け取る。それを目の前にかざして眺めつつ、言葉を続けた。
「これの銘をタイゲイラと知ったのも、古代語の文献を読み解いたからこそ。古代語の文献は素性のわからぬ男から提供されたものだが、そやつはこたびの戦に干渉することはない。闇の民だろうと人間だろうと知ったことではない」
「閣下、準備が整いました」
小男が仕草だけは丁寧なように見えるお辞儀をした。
「では約束通り小娘を返してや——」
「閣下、甘いですぞ。そこのウォーガとあそこのエルフ。一人ずつなら何ほどの脅威にもなりますまいが、二人揃うと少々厄介です。そこで」
ギムレイが立ち上がる。黒い霞に電撃を受けたが、それでも構わず歩を進める。
「きさ……ま」
「おお、こわいこわい。そこで、スケルトンとの契約を更新して、追加の人質として小娘を地下牢に放り込みましょう」
そのくらいの契約変更なら簡単だ、と気軽に答えるアイエンタール。再び力尽きて倒れこむギムレイの背後から、パーミラが泣き叫ぶようにして懇願する。
「やめてよ、お願い! 人質ならあたしが替わるから。ローラは解放してよ」
「意味のない頼み事は聞けねえなあ。人間にとって猛毒のスライムミストを吸っても、エルフが死ぬという保証はない。あんたを牢に送り込んだら、その時点で人質が解放されてしまう可能性だってあるんだからな」
アイエンタールたちの周囲の景色が蜃気楼のように揺らめく。
ローラは後ろ手の拘束と猿轡を解かれた。彼女の口が動くものの、その声はもうこちらに届かない。
——パーミラ、あたし大丈夫だから。カールをお願い——
唇の動きはそのように読めた。
国王から離れ、駆け出すパーミラ。その手が伸ばされると、ローラも応じるように手を伸ばす。
二人の指先が触れようとしたその瞬間、ローラの姿は闖入者ともども、この場から掻き消えた。後には黒い霧一つ残ってはいない。




